第44回名古屋ミネラルショー奮闘記 ー壱 緑の石への趣味と鉱物學の講演會のことー
国内外の鉱物・宝石が大集合「名古屋ミネラルショー」| HIROBA! (hiroba-magazine.com)
昨日土曜日に年に壱度の石の祭典、ミネラルショーへと出向き奮闘して参りました。
其れでもって本日は至極疲れて仕舞いつまりはヘロヘロなのですが其れでもまた石への情熱に就き語らせて頂く。
尚其の前に此の種の癖と云うものに就き語りたい。
さう結局其れは癖に他ならない。
例えば女癖が悪い、酒やギャンブルと縁が切れぬ、などのさうした癖と云うものがありまた例えばかのワイルドなどは其の美少年とは縁が切れなかった訳だ。
ですがわたくしに限り其れ等とは縁が無くつまりは石だけが有れば良いんです。
石と万年筆だけが有ればもう何も要らないんです。
さう云うのは欲が全て其処に流れ込んで居るのであらう。
要するに其の石との愛欲関係を偏執的に切り結んで居る訳なのだ。
では石と結婚するか乃至は👪となれるかと言えば勿論其れは無理と云うものだ。
ならば壱體何に魅せられ其れと向き合うのかと言うに其れはひとえに美である。
美にも抽象的な美と具象的な美とがまたあらう。
抽象的な美⇔具象的な美
わたくしは結局其のドチラをもやるのである。
つまるところは藝術と物の美とをさうして同時に追求する。
だからさう云うのこそがまさしく詩人としての生き様ぞ。
詩的精神の発露たる其の永遠なる美への固執としての形である。
2022 名古屋ミネラルショー開催中です - YouTube
さてこちらが奈良の天川クリスタルさんのブースの模様です。
此処で10秒~12秒のところにショーケースの上の金魚鉢の如き丸いガラス瓶に入れられたノーブルオパールの大きな標本の塊が見えます。
まさに其れが今年の名古屋ショーに於ける驚愕の石としての女王でした。
画像ではほとんど分かりませんが兎に角とんでもない煌めきの石でおそらくはエチオピア産出での貴蛋白石です。
其れも壱つ壱つが拾センチ程もあり兎に角デカいのだ。
またオパールの七色の輝きとしての遊色がまたデカいのだった。
だから瓶の中全部がギラギラにて其のショーケースの上で輝く訳だ。
正直百萬出しても良いので売って欲しいであらうまるでウソの如き標本でした。
まさにほんたうの💎とは結局かうしたものなのだらう。
さうした意味で今回はまず、
「世界でもトップクラスでの石の数数を其処に観賞することが出来た」
のだった。
a.件の天川クリスタルのエチオピア・オパールのノーブルオパール標本ーおそらくは非売品で値段を付けるとなると三百萬円程か?ー
b.恐るべき美しさを示す中國産の緑水晶の標本ー確か六拾萬円台ー
c.完璧な迄の美しさを放つコロンビア産エメラルドの標本ー値段を尋ねると三百五拾萬円とのことであったー
d.國石翡翠の壱級標本
をしかと観賞することが出来た。
尚他にもロードクロサイトー菱マンガン鉱ーの素晴らしい標本も見かけたが其れは鉱物ショーでは常に見かける石である。
値段は五拾~百萬円位であらうか。
でもって無論のことさうした壱種現實離れした値段の石はまさに本物の💎であり且つ美の極致の物なのでもまたある。
勿論我がもしも宝くじ成金ならば其れ等を全部欲しいところながら其れは我が限定された石の趣味とは違う世界のものである。
要するに眼福の為の標本なのでありまさか實際に手に入れるやうな物なのでは無い。
其の代わりに此の目に其の色や形をしかと焼き付けて置かねばならぬ。
さて其の國石翡翠の壱級標本に関しては、
1.六、七拾萬円の標本を弐点第壱會場にて観賞し、
2.参百萬円と百萬円の標本を第弐會場にて観賞した。
特に其の参百萬円の標本は大きくて色の濃い部分もあり良かった。
但し其れ等もあくまで完全な翡翠の標本なのでは無い。
さて其の参百萬円もの標本を売って居られたのは高野 良宗さんと云う年配の方で富山の方である。
【楽天市場】糸魚川翡翠勾玉 > 翡翠-浅葱勾玉:糸魚川ヒスイの店 (rakuten.co.jp)
かうした勾玉なども創って売って居られるやうだが兎に角話の面白い、且つ話しかけ易い方である。
尚我は人間との会話が本質的には嫌いなのだがかうして結構良く人とは喋るタイプなのだ。ー所謂弐面性のあるタイプだー
兎に角此の方の参百萬もの翡翠を触らせて貰ったのでパワーが出たのかついでに横浜のJOYTEC翡翠専門店 ジョイテック (rakuten.ne.jp)の荒木 一理さんとも話し込んで来た。
其の荒木さんとは初対面ながら動画ではいつも拝見して居てとりあえずは思った通りにパワーのある方である。天然翡翠専門店 JOYTEC JAPAN - YouTube
其の動画の方の続編はミャンマーでの翡翠の買い付けや鉱山の様子などを纏めたものを出来れば創りたいと仰って居たがコロナと政情不安にて事實上は創れぬさうである。
但し買い付けの方は現地へは出向かずににされて居るさうである。
そりゃあさうだ、でないと石の商売が成り立たぬ訳なので。
さて第弐會場の奥の方に伊藤 加奈子と云う方が翡翠店を出されて居り其れが小滝物産店であり本場新潟糸魚川の店である。
其処にてまずは翡翠の標本を購う。
其れは地元のコレクターの整理品ださうで高価な逸品などでは無いが大き目ー7×6センチー程で白地に鮮やかな緑色が部分的に入る標本で其の鮮緑色に惹かれ弐千円まけさせ購入した。
尚翡翠は蒐集が特に難しい石なのだと思う。
他方ではエメラルドやルビーやサファイアなどもまた原石の蒐集が難しいのだが其れは何故かと云うに良い原石は全て製品化されて仕舞うので標本として良い物が出回らなくなるからなのだ。
また日本の翡翠の蒐集の難しさの場合は其れが掘っては居らず拾って居る翡翠のみに過ぎぬからなのだ。
要するに翡翠として掘られ製品化されて居るのはミャンマー産ばかりで日本産の翡翠は川や海辺にて拾われた物が勾玉などに加工され流通して居るに過ぎぬのだ。
だが其の拾われた翡翠原石の中にも眞の意味で💎級の物がまたある。
翡翠・原石 | 東京新潟県人会ウェブ広報 (niigatakenjinkai.com)
其れが此のやうな物だが此のクラスの物は滅多に売買などはされて居ないことだらう。
要するに幻の翡翠原石として博物館だのまた極壱部のコレクターなどがまさにコレ等を保管して居るのである。
よって先に述べた百萬円、参百萬円で売られて居る糸魚川産の翡翠原石も此れ等のロウカン翡翠原石よりは下のグレードのものと必然としてならざるを得ない。
かえって縄文時代の勾玉などに此のクラスの石質の製品がありだが其れは大昔の話であり其の頃は越の國ー新潟県ーの海岸や川にこんなものがポコポコと落ちても居たことだらう。
またつまりは其れが数百萬、数千萬クラスでの翡翠原石と云うこととなるのである。
だから鉱物ショーやオークション、また現地の店などで売られる糸魚川産の翡翠原石はあくまで普通の翡翠の石なのであり💎級の原石なのでは無い。
其れでも石の愉しみとは何度も申すが如くに石の質ばかりでも無いのである。
さうして買える範囲にて石を買い且つ其の石を愛で独りほくそ笑むことこそがつまりは自己満足を満足させることが其の鉱物趣味としての醍醐味なのだからこそ。
日本でも採れる翡翠(ヒスイ)|主な産地と特徴、日本史に見る翡翠 | カラッツ Gem Magazine (karatz.jp)
さてお気付きのことかと思われるが、
1.緑の石を得ること
2.大きめの標本を得ること
ことこそが今回の我が蒐集としてのコンセプトである。
最終的に我が石趣味は、
1.赤の色石
2.靑の色石
を経巡り、
3.緑の色石
へと行き着いたのである。
また元來我は緑色が最も好きな色なのだ。
屡緑色は異常者やまた天才などが好む色とされるがまあ確かに其の通りのことなのではないか。
ちなみに五年程前に高校の先輩の高学歴👩ー今六拾五歳ーにフラれたことが實はあったが彼女もまた緑色を好むひとであった。
ー翡翠もまたあげやうとしたが断られた、コイツに関わるとロクなことにはならぬとさう判断されたのであらう、でも棚山のオパール標本だけはあげたー
其の棚山のノーブルオパール標本と言えば第弐會場でのサイバークリスタルのブースに其れがあり確か四萬八千円だったが四萬にすれば後で来ると言ったら其れではどうぞと言われたが結局緑の石ばかりを買って仕舞い行けはしなかった。
オパール(棚山高原)サイバークリスタル (cybercrystals.net)
此れとはまた違うだらうがまだこんな物を持って居るのだ、此の店に限り。
さて其の後柿野鉱山産の緑水晶を買う為に第壱會場へ戻り其れを入手す。
柿野鉱山産の緑水晶は五年程前に此の吹上の鉱物ショーでデカく凄い標本を得たのだが飾ってあった其れをつい先日布団を引っ掛け落として仕舞い部分的に折れて仕舞った。
ところが其の折れた結晶部が美しく要するに単結晶として充分に通用するのである。
なので其の美しい単結晶を見つめつつ柿野の緑水晶だけは得たいと思って居たが案の上此処の緑水晶には形が完璧にて綺麗な物がほとんど無いものと來てる。
柿野鉱山 緑水晶 - Bing imagesー比較的綺麗な標本ー
柿野鉱山 緑水晶 - Bing imagesーむしろ多いタイプー
矢張り売られて居る物に美しいものは無かったがまだしもマシな物を弐本セットにて購う。ー弐千円の品ながら其れでも高いー
またミナスサトウのブースにも寄る。
ミナスサトウはブラジル産のエメラルド標本には強い店である。
だが鉱物ショーにてエメラルド標本を買ったことは此れ迄に壱度も無い。
其の理由
1.エメラルド標本其れ自體が概して高価であり大抵の場合少し良いと五萬円以上はして居ること
2.コロンビア産が壱番ながら以前ー拾年位前ーに比し良い標本が出て居ないこと
尚勿論其のエメラルドもまた緑の石なのだ。
なので完全に我が趣味の石であるが小さな標本を幾つかしか持って居ない我に取り蒐集が極めて難しい分野である。
無論の事本気にて攻めればイーベイなどにはパキスタンや中國産の良い標本が多く出ては居る。
だが其れもまた概して高価な物となり易い。
尚家にも母の大きめのコロンビア産のエメラルドの指輪があるが結局は其れが我が家にある壱番高価なモノである。
ところがブラジル産ともなれば實際に可成にお安くなる、其の指輪も原石の方もまた。
此処まで大きくは無いのだが7×6センチ程の比較的大きな標本があり其れには見栄えのするバランスの良い結晶が6本程付いて居る。
弐萬とのことだが弐千円マケて貰い其れを入手す。
いずれにせよかうしたデカいエメラルドの標本が前前より是非欲しかったのだった。
ーヤフオクやネットショップでは此のサイズはなかなか見つからぬことであらうー
其の標本を今目の前に置いて今コレを書いて居るがううーん、結晶もデカくて矢張りと言うべきかとりあえずは満足だ。
尚先に述べた参百五拾萬円のエメラルドの原石はおそらくはコロンビア産で外國人が売って居た物だった。
其の標本を見せて貰ったが色合い、透明度、不純物の少なさなどの要素が高いレヴェルにて達成された「完璧な標本」だった。
大きさは高さが5センチ程で幅が3、4センチ程である。
兎に角此処までのエメラルドの原石を見たことは此れ迄に無くまさに生涯で唯壱の例と言って良い程の美しい石だった。
さてさうかうするうちに会場へのアナウンスがあり何とまた鉱物學の講義がタダでもって聴けるものらしい。
ー 特別講演会
ーイベント - 名古屋ミネラルショー (nagoyamineral.com)より
つまりはこちらである。
其の松原 聰 - Wikipedia先生は東海地方を代表する地球科学者であり鉱物學者だ。
我の場合は過去に弐度此の無料講演會に参加させて頂いて居る。
特に四年程前だったか、丁度國石となった糸魚川翡翠の色合いに就き詳しく述べられわたくしの場合は其の講義内容をメモして居た程であった。
尚大學での授業と同じで九拾分間きっかり講義は続くから学生の時分に戻ったやうな気も味わえる實に素晴らしい企画である。
だが其の間に眠くもなり今回もまた不覚にも拾分間程は寝込んで仕舞った。ー左様に齢なのですぐに眠くなるー
また講義の最後の方には田口鉱山産のパイロクスマンガンや薔薇輝石に関する色の原理の御話などもまたあった。
要するに松原先生はさうして鉱物の色合いに就き詳しく研究されても居るので其の内容は實に興味深くまるで退屈しないものである。
そんな訳で昨日はまさに八面六臂での大活躍を我なりにして居た訳だが今回の場合實はコレだけでは話が終わらぬのである。
つまりはもう壱騒動があった訳で其れに就いてはまた是非次回に語らせて頂きたい。
私の研究-国立科学博物館の研究者紹介 松原 聰- (kahaku.go.jp)
うーん、こちらなどを読みますと松原先生は如何にも深い内容の御発言をされて居ます。
確かに動かず命の無い石は生命現象に反応し易い現存在に取り分かり難いモノとしての代表格です。
かうして鉱物ショーへ来て居る多くの人人も其のほとんどは石への愛どころか単にちょっとしたアクセサリーを得んが為に来て居るやうな人が多いことでせう。
ですが今回の講義の聴講者はほとんどが男性でもって占められて居た。
其処からも矢張り🚹の場合には何らかの石に對する探究的な好奇心がまたあることでせう。
また其の石と生命の闘い並びに共存と云った部分は確かに地球史としては非常に大きな部分だったのではないか。
我我現存在は壱般に無機的な物質としての石をまるで意識しないが石は常にさうして生命現象に對し多大な影響を与え続けて来て居たのです。
どだい石ー鉱物ーが破壊されることで土くれとなるのだ。
其の土が植物を育み其れがまた動物をも育む。
故に生命現象を其の根本より支えて居るものこそが土であり即ち石が壊れたものであると云うことである。
まさに此の辺りまで理解が進むと石は単なる💎キラキラの世界とはまるで異なる地球史の上での重要な役割を担って居る訳だ。
でも個人的にはあくまで其の💎キラキラも好きですので其れでもまた宜しいのですが他方ではかうした深い石への洞察なり解釈なりが是非必要です。
また石が基本的に分かり難いのは生命現象とはスケールが違うからだなどと云う意味深なことも上にて述べられて居ます。
さらに此処の画像にあるが如くに石は化学組成が例え同じであるにせよ姿形や色がまさに千差万別となります。
さう云う部分もまた不可思議な部分であり何より多様性を感ずる部分でもまたある。
要するにむしろバラバラでもってマチマチなのだがあくまで化学組成的には同じであると云う我我に取り怪訝な部分が其処にしかとある。
尚個人的に我は分からぬモノの方をあえて向き其れを分かるやうにして行くことこそが理性の働きなのだとさう考えて来て居る。
理性とは不完全な認識の形式ですので元元誤謬にもまた陥り易い面を持ち合わせて居る。
だからあえて分からぬ方を向き其れを探求することはまさに理性の上での壱つの大きな価値なのではなからうか。
また理系思考は理系思考で時にはワイルドや太宰でもまた読み其の破滅性に就き是非考究してみなければなりますまい。
そんな訳であくまで本質的には石もまたそんな不思議な世界の住人ですがあえて感度の世界から言えば其れは何故か強く惹き付けられて仕舞う物欲としての対象物です。
ですが其れは生きては居ないだけに其れに触っても怒られないのだし金さえ払い其れを得れば牢屋に入れられることなどもまた無い訳だ。
つまるところは其処に生ずるであらう罪が少ない訳だ。
其の罪が少ない石とこそ生きて居る限りは何処までをも付き合って行きたいものだ。