44.ハイデガーの思想に於ける死への先駆性、死への先駆的決意性に就いて
いずれにせよ、我我現存在の「今を生きる力」とはこと哲學的に見ればほぼ幻想でありズバリ洗脳の域のものであらうことが或は皆様にはお分かり頂けたことかと思う。
尤もソコまで言う文人は今のところ養老 孟司先生と我以外には居ないことかと思われる。
ですがかっての哲學者はむしろ其れ以上のことを言って居たのであり従って人文學とは其の過去に埋没した化石の如き思想を掘り起こしむしろ其処から現在に於いて人類文明が抱えるであらうもうどーしやうも無いデカい問題の数数に対し精神的免疫を付ける行為でしか無い。
其のやうに常に母ちゃんの股の間より出て来る世界は罪深くしてしかも煩悩にまみれてもおる。
ついにおぎゃー、と其処に生まれた。
うわああー、生まれずとも良かったものをまた何でソコに生み落とされたのだ?
其の罪深い人間共の、其のバカでマヌケでアホな日日の様…。
だが哲學はあえて其の低級なる人間の生の営みをしかと見詰め精神の上での回答をさうして導き出さうとする。
曰く、
「そも其れは何の為の生ぞ?」
「そも人間とは何か?」
人間とは其のやうにそも間違ってる生き物のことだ。
何が間違って居るかと云うにむしろ頭が良いが故に頭の中身つまりは精神の方が顛倒して間違って居る。
ですが其の根本のところでの苦悩に掛かり切りとなると頭の良い方などは特に體を壊しませうから其の頭の良い方に限りむしろ今を遊んで暮らして置かれよ。
ですが普通の其の辺の馬鹿が其れをやりますとすぐにバカ父ちゃん、バカ母ちゃん、さらに出来の悪い坊主や娘とならざるを得ない。
左様に容易におバカ化するのが普通の人間の性なのだ。
ですのでインテリ連中は其のおバカ化するのを阻止せんが為にさうして日に拾時間程は御勉強をして其の頭のキレを常に保つ訳だ。
とりあえずはさうして人間は「自分は教育も受けたし其の辺の馬鹿とは異なり利口なのだ」とさう頑なに信じて居りますがかうして哲學的には其の自信は脆くも崩れ去るばかりだ。
ですが僕はかうして自分でも哲學する人間なのでさうした妄想的自我の持ち主とは異なり精神の自立性だけは保って居ります。
またつまりはどんなに知識があったにせよ其の精神の自立性が非本来性の方に圧迫され洗脳されて居る状態の人間は所謂「世人」ーハイデガーの概念ーであるに過ぎぬ。
其のハイデガーもナチスによる政治的展開に加担するうちに次第に言ってることがオカシクなり結局は戦争に加担した者と見られて仕舞う。
Mind Charging vol.209 『マルティン・ハイデッガーの名言』 | 正智深谷NEWS | 正智深谷高等学校 (shochi.jp)
かうしてハイデガーの顔も矢張り怖い。
其れもかのショーペンハウアー並に怖いのだと言えやう。
ですが自分は怖い顔をした哲學者に限り好き♡なのだ。
左様に大衆社會の問題とはむしろ自称の利口が増え彼等がめいめいに自説を唱えだすので論理的に収拾がつかなくなる、即ち其処に論理的整合性が崩壊する=論理が自己矛盾し感情化、情緒化する=動物化することにこそある訳です。
故にどんなに論理的整合性が保たれた世界であるにせよ其処にイキナリケモノ染みた結果が引き出されたりも致します。
其の例
1.自然科学に於ける成果主義
2.戦争や紛争の勃発
尚かの歴史学者ハラリ氏の意見だったかと思いますが「人類は戦争をすでに放逐した」と確か述べられて居た筈ですが僕に限り其れは少し甘い認識なのではないかとずっとさう考えて居ました。
其れも我が理論に拠れば「理性の原始退行により獣性が暴れ出す=本能が暴れ出す」のが人間の理性の自己矛盾の様なのであり謂わば人間の精神が抱え持つ本質なのですからむしろ逆に戦争の機會も増して行く訳だ。
其の成果主義の部分ではかって「STAP細胞」を巡る大事件が起こって居ます。
此れなども個人的には其の「理性の原始退行」現象により生じたケモノ並の事件其のものだったと判断する。
要するに我は所詮人間とはケモノである。
とさう精神的に規定して置くべきだとさう考えて居る。
ですが世間の常識的見解では「人間はあくまで万物の霊長であり獣などとはまるで違う偉い生き物だ」とさう規定致します。
僕はでも其の考え其れ自體がオカシイとさう思いますのです。
で、僕に取り馬鹿では無い知性とはあくまで「自分でもって自分ー世界ーのことを考えられる頭の持ち主」のことなのだ。
だから「自分でもって自分のことを考えられぬ頭の持ち主」である國家なども皆馬鹿國家とならざるを得ぬ。
ーここで言う「世界」とは物理的世界のことではありません。
その人なりの価値観にしたがって、様々な物事が「これは大事だ」「これはどうでもいい」という風に序列化されている「価値の世界」「意味の世界」です。
まさに住む「世界」が違うわけです。
ここまでは、「各人各様、いろんな価値観があるよね」という話です。
しかしハイデガーはこれに止まらず、人間には「本来的なあり方」と「非本来的なあり方」という区別があると主張するのです。
なぜ死を見つめて生きることが本来的な生き方になるのか?
ハイデガーはいろいろと難しい言葉で説明していますが、大体、次のようなことが言いたいのだと考えればいいでしょう。
↓↓↓↓↓↓
現存在(人間)は自分で思い描いた未来へと自分を投げ込んでいく。
だが現存在がどれほど先の未来を描こうと、「死」の先を描くことはできない。「死」とは現存在そのものが存在しなくなることだからだ。
また自分の死は誰も変わってくれない。自分の死に対しては自分1人で向き合うしかない。死を前にしては、誰しも「孤独」にならざるを得ないのだ。
その孤独の中、自らが存在しなくなるという厳粛な事実に向き合うとき、それまでは意味を持っていた様々な事柄が価値を失って色褪せていく。
しかしこうすることで現存在は本来の自己を取り戻す。死を忘れることで成立していた刹那的・表面的な価値観を振り払ってこそ、現存在は真剣に自らに向き合えるからだ。
ーハイデガー(3)死を分析する | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)より
さうして人間存在ー現存在ーは其其れに価値の違う世界を生きて居る。ー其の価値世界を其其に認識として成立させて居るー
また其れは完全には壱致することの無い世界観を七拾数億もの人人が生きて居ると云うことだ。
我は其の認識の不壱致を問題視して居るのでは無くむしろ其処に掛かるバイアスの方をこそ危険視して来て居る。
即ち其れこそが洗脳であるとさう申して来て居るのだ。
ところがハイデガーの論ずるが如くに「死」を前提とする限りに於いて其の価値観の対立、認識上の対立はまるで問題とはならなくなる訳だ。
即ち人間は死ねば其の寄って立つところでの価値観なり認識なりを維持することがもはや出来ぬ。
では其の後は果たしてどうなりますか?
其れがどうなるとは哲學的には言えぬ訳だ。
謂わば其れが認識の彼岸となる話ですので實は「死」其れ自體を哲學的に規定することなどまるで出来ぬ話である。
勿論宗教的には規定される場合もまたある。
しかしながら佛教の場合は「無記」である。
其の種の形而上の問題を避けられた釈尊による基本的態度がまさに其れである。
其の部分から鑑みても、人間存在ー現存在ーの抱える問題とはむしろ生きて居る其の時に抱えて仕舞わざるを得ぬ認識上の誤謬にこそ有らう。
ー死を自覚することをハイデガーは「死への先駆」と呼びます。実際に死ぬより先にそれを意識するので「先駆」なんですね。
自らの死を受け入れて真の自己に目覚める。そして死を覚悟した上で、限りある生を充実させるべく未来へ駆けていこうとしている。このことを「先駆的決意性」と言います。
ここに来て、人間はそれまでの自分が日常性に埋没して生きていたことに気付きます。この日常性への埋没を「頽落」と言います。ハッキリ言えば堕落していたということです。ーハイデガー(3)死を分析する | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)よりー
其の「死への先駆性」、「死への先駆的決意性」のことですがおそらくは多くの方方には「ハテ何のこっちゃ?」と感ぜられることかと思う。
尤もこんな風にどう見ても意識が高い系の我が作文を好んで読んで下さるコアな読者の方の中には其れを聞いただけで「嗚呼、アレのことか。」と納得される方が居るのやもしれぬ。
でもって其の「死への先駆性」はむしろ藝術や宗教の分野では当たり前の価値であり自己に取り受け容れて居て当然の認識なのだ。
ですのでさうした分野を體験として生きられた方方もまた其の意味は良くお分かりになられることかと思う。
むしろ壱番分からぬ奴等が日常性と云う生活至上主義に埋没した常識的市民であり國民である。
其の様をハイデガーは「頽落」と名付け厳しく批判する。
我もまた手放しで其の「日常」を持ち上げる者では無い。
但し今は逆に其の「日常」に潜む生の尊さを日日感じて居る始末である。
出来得れば此の荊の道としての観念の追求は止めてむしろ洗脳人間として樂に生きて居たい。
さうだ、コレでーいいのだー。
コレでーいいのだー。
嗚呼出来得れば凡の馬鹿をさうして是非受け容れて生きたい!
ですが此の知性と教養がどーしてもまた其れを許さぬのだ。
さて此の際皆様に壱言だけ申し上げて置きたい。
出来得ればケモノであることはもう止めて下され。
僕の生き方とは僕の哲學とさうして僕の詩とはまさに其の人間の中に巣食うケモノとの闘い其のものでした。
うわあー、其のケモノがー!
其の獣共が夜毎にボクの生き血を吸いに来るのです。
君は是非壱遍精神科へでもかかるべきなのではないか?
いや僕は精神科の医師よりはずっと論理的であり同時に哲學的ですので其れをやったにせよほとんど何の役にも立ちませんのです。
ーある人がカネ・異性・名声などに執着しているとしても、その人もやがて死んでいきます。それらの物事に喜びを見い出す主体がなくなってしまうのです。
死を深く自覚すればするほど、そういった刹那的な欲望や執着は色褪せ、自らの心の底の底へと深く沈潜していくでしょう。そこで発見するのが「真の自己」だというわけです。
そして真の自己に目覚めてこそ、充実した未来を切り開くことができる……。ハイデガー(3)死を分析する | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)よりー
其の金や異性、名声への執着つまり所有欲や性欲、権威、権勢欲などを成り立たせて居るのはつまりは社會的に齎される価値なのだ。
其のやうな価値は此処で仰るやうにまさに刹那的な価値です。
丁度かの平家物語の如きもので、日本國やまた世界を支配することは本質的な価値なのでは無くむしろ社會の醸し出す幻想としてのまた洗脳としての価値であるばかりなのだ。
其れにお釈迦様が仰った如くに此の世は常に「諸行非常」です。
其のやうな虚的で且つ移ろいゆく価値の場に何をどう強固に築かうが其れはウソの価値となるばかりでのものでむしろ眞理への方向性とは逆方向でのものだ。
なのですが、其の「死を深く自覚」すればする程に眞の意味での自己=眞我はむしろ自然に築かれて行くものです。
つまりは築かうとせずとも其処に洗脳が解けるので自ずと現れて来るものです。
「眞我に目覚める」とはまさにさうしたことだ。
さうして其のウソの価値からはあえて距離を取り、まさに半分死につつ夢も希望も無くあえて今を生きて行く。
傍から見ますと其れは馬鹿もいいところでむしろルンペンか其れとも異常者にしか見えぬのですが實は其れこそが正しい生き方なんです。
眞理と云うことを志される場合に多くの方方がむしろ其れとは違う方向性を見詰められて居るやうに我には感ぜられる。
ですが其れは眞理探究なのでは無くむしろ日常に於ける価値構築での流れの強化のことだ。
眞理とはさうして単なる概念では無く現實としての放棄としての生き方其のもののことだ。
ですのでむしろ変わった生き方をして居る奴の方がソチラへの道を歩んで居るものとさう見て置く方が良いことだらう。
ーハイデガーは死を受け入れた上で未来へ進むことこそ、人間としての「本来的な」生き方だと主張します。
ところが現代哲学では、「これが人間本来のあり方だ」「これこそが人間の本質だ」というような「人間本質論」は嫌われる傾向があります。
ただ、死は誰にも等しく訪れるものです。その死を意識して過ごすことが人間にとって必然的な生き方であるという発想は理解できます。
また死の運命を受け入れるならば人間は粛然とした心境となり、人生と真剣に向き合うことになるというのも分かります。
そう考えてみると、「死への先駆」「先駆的決意性」こそが人間の本来的なあり方だというハイデガーの思想はおおむね支持できるものではないでしょうか?ーハイデガー(3)死を分析する | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)よりー
其の死こそが人間に取っての最大の「限定」を形作るものだ。
我が思想は其の「限定論」ですので、元元ハイデガーによる「死への先駆性」、「死への先駆的決意性」と云った概念とは親和性がありつまりはほとんど同じことを言って居る訳です。
また個人的に無制限に「自由」を重視する思想は我が思想とは相性が悪くむしろショーペンハウアーやハイデガーの如くに人間の本質を限定する思想のあり方の方が我が目指すところと壱致したりもまた致す訳だ。
ーハイデガーが「過去を受け止めて未来へ駆ける」と言っても、具体的に「どういう生き方をすればいいのか」までは分からないでしょう。
もちろんハイデガーの関心の中心はあくまで「存在」です。なので、こういった「人間学」というか「人生論」のところで内容の薄さを批判しても仕方ないかもしれません。ーハイデガー(3)死を分析する | 哲学・教養入門ブログ (tetsugaku-life.com)よりー
其の具體的にどう生きるのかと云う事はむしろ各個人での課題であり選択でせう。
人間の価値観ー認識ーはまさに様様なので其れをどう整えて行くかに就いてはあくまで個個人による認識の選択如何に掛かって居ます。
問題はハイデガーがむしろ「過去」に拘って居ることです。
例えば其の無制限に「自由」を重視する思想、また単なる唯物的進歩主義ではむしろ過去のことは顧みず未来にだけ価値を置いて居るものです。
つまりはまさに其れが現存在と云う自由意志により達成される進歩による新たなる価値の實現なのだ。
ですが其処であえて立ち止まりよーく考えてみて下され。
よーく考え且つ見てみたところ實は有るのは今だけでありしかも其の今とは過去ー歴史ーから連綿と続く現在のことだけだった。
湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく
湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく | 株式会社コンパス・ポイント(広告・フーガブックス・Chinoma) (compass-point.jp)より
かって詩人ヴァレリーがさうして喝破したが如くにー本来的にはー人間は前向きにて未来へ入るのでは無くむしろ後ろ向きにて其れを受け容れて行くのである。
其れがいつの間にか前向きに其れも壱種臭い笑顔を浮かべつつ「もう地球には住めやしないからみんなで火星へ移住するのだ!」などとキチ外みたいなことを特に米國の科学者などが言い始めたのだった。
いや實際に火星へコロニーを創り其処で暮らす積もりで御座らう。
でもお前等気は確かか!
お前等の頭がオカシイのでありもう我なんぞはキチ外どころか物凄くまともではないか。
要するに其の「過去」を見詰めないと人類の気は容易に狂うのだ。
お前等其の火星でもってどう飯食ったり寝たりすると云うのだ?
はああー、もう御話にも何にもなりはしない。
もう早う、山へいこ。
山でもってションベンでも是非して来やう。
ーハイデガーによれば本意的時間性においては、その時間化はまず未来への<先駆>として生起し、そこから過去が<反復>され、そして現在は<瞬間>として生きられる。ここでは未来が優越し、三つの時間契機が緊密に結びついている。
一方、非本来的時間性においては、未来の次元は漠然とした<期待>のうちで開かれ、過去はすでに過ぎ去ったものとして<忘却>され、現在は現に眼前にある事物への<現前>として生起する。過去はもはやないものとみなされ、あるのは眼前の事物との交渉だけである、当然<現在>だけが突出し、時間の三つの契機は弛緩した結びつきしかもたない。(中略)
ハイデガーは、この本来的時間性と非本来的時間性をまったく異質なものとか、相互に対立し合うものと考えているわけではなく、非本来的時間性を本性的時間性の欠如態、その頽落的ヴァリエーションと見ているのであり、したがって本来的時間性こそが時間の根源的現象だと主張する。ー『ハイデガーの思想』木田元、岩波新書より
さても其の「本意的時間性」なる概念は實に面白い。
対する「非本来的時間性」とは所謂現代文明が推進する時間軸としての展開なのであらう。
其れでもって非本来的時間性は本性的時間性の欠如態、その頽落的ヴァリエーションなのだとするハイデガーの思索はまさに御見事なものと言う他は無い。
其の現行の文明形態がむしろ錯誤的、誤謬的に建設されたものでまさに頽落的なものだと言う見方こそが嚆矢のものである。
個人的にわたくしは文明による価値を信じて居らずむしろ常に否定的に其れを扱うのだがまさに其の意味では此のハイデガーの思索とも大いに重なり得るのではないか。
其の時間化が未来への先駆として成されないと「現在=今」だけが突出し其れこそ過去から學ぶことも無ければ未来を見据えて「現在=今」を正さうとする気分もまた生まれない訳だ。
さうしていつも、
「今だけ金だけ自分だけ」だ。
此の悪い現代文明に於ける価値観はおそらくは神の瞋りか佛の諫めによりおそらくは五拾年以内に滅ぼされることであらう。
いや是非さうなって欲しいよ、ほんたうのところがさうだよ。
そんな訳で皆様は此のハイデガーの哲學によりほぼ完璧に現代文明が抱える問題点が炙り出されて居る事に驚かれたのではなからうか。
いや其れは僕自身がまさにさうで、矢張り知性は過去に於いてすでにあらゆる答えを出して呉れて居たのだとさう思い至った次第である。
であればもはや我我に取りやるべきことはすでに明白です。
つまりは其れが本来的自己であり本来的時間である眞我の形成の為にこそ其の知能を使えと云うことでせう。
だから僕はもう山へ逃げて行き其処でションベンなどを垂れつつ観念修行に勤しむ積もりで居ります。
ちなみに僕にはもう其の眞我がしかと出来て居ります。
ええっ?其れはまた変なお人だな。
いやだから変人で無いと其れが出来ないのだよ、またコレが…。
哲學詩人さん、其れはさうと病み上がりなのだからどうか足元に気をつけてガレ場にて転び谷へと落ちぬやうにね。
其れは其れはどうも有難う御座ります。
でも御心配は御無用。
むしろ自分の馬鹿を治すことだけに是非皆様専念されて下さりませ。
しっかしほんたうにお前は口の悪い野郎だな。
いつもそんなんでは罰が当たるぞよ、バチが。
ばーか、罰が当たるのはあくまでお前等の方だ。
それじゃあサヨナラ、山でもし死んだらもう弐度と出て来ませんので…。
左様に人間は過去を見詰め其処から學ぶことで初めてまともになれる。
と我は今改めて其の眞理に気付きより壱層過去への御勉強の旅路を進めて居かうとさう決意した次第である。