目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

人間は何故人をイジメた上で喜びを得るのか?

個としての宿命とは別に現代に於ける人間の宿命につき調べて居たらこんなものが出て来た。

羽交い締めで激辛カレー 衝撃写真から見る教師による教師へのいじめ…その実態と表面化しにくい理由とは?

 

だが問題は此の番組自体にあるのでは無ひ。

 

其処にも画像が出て居るがコメンテーターとして此の問題を語って居る社会學者の内藤 朝雄こそがわたくしの母校である中学校の後輩なのだ。

 

其れもおそらくはわたくしの弟と同学年であらう筈。

 

内藤はかって地下鉄の駅などでとある高校の管理教育体制を糾弾する為毎日セッセとビラを配っていたやうだ。

 

弟の友達との付き合ひは今でもあるのだがー特に💎行商人のTとはーわたくしは彼内藤とは面識が無く勿論彼もわたくしのことなど知らぬ筈。

 

当時内藤が住んで居た家は我が家から存外に近く一キロ程の距離だった。

お父様が學者だったと云ふ話も以前に聞き及んで居たので彼も元々頭が良かったのだらう。

 

 

 

内藤 朝雄

 

今や彼はいじめ問題ならびに管理教育問題に於ける第一人者として活躍されて居られる。

当時愛知県では此の管理教育が大問題化しており其の管理教育の牙城に真っ向から挑み闘ったのはおそらくは彼一人だった筈。

 

勿論わたくしも管理教育には反対だったのだが、あくまでわたくしの場合人間の問題とは其の管理教育にあるのではなくたとへば文學の上で提示されし人間の内面の問題にこそあった。

なのでわたくしはそんな風に動きはしなひ。

 

タダ冷ややかに管理教育を見詰めておるのみ。

 

あたかも人間其れ自体を冷ややかに見詰めて居るが如くに。

 

 

ただし高校を中退したにも関わらず諸の大學へ進みかうして學問の道で意志を貫きし彼のド根性は並大抵のものでは無ひ。

 

兎に角其の不屈の意志だけは大ひに見習わなければならぬとさうも思ふ。

 

 

 

では内藤氏が何を語って居るか其れにつき検討してみやう。

 

 

但しわたくしはまだ内藤氏の本を一冊も読んで居なひ。

 

どうも御免なさひ。

 

實はもはや教育問題とかには興味が無ひので読むのが面倒なのです。

 

其れに『ホモ・デウス』であるとかそんなややこしひものを読まねばならぬ故まるで時間も無ひのです。

 

 

 

『内藤氏:
ネットで検索してみると、これでもかってくらい出てきます。昔からあったことで、ただ社会問題化していないんですよね。社会問題化すると人々はこういうことがいっぱいあるんだと思うんですけど、社会問題化しないと個別に「つらい思いをしたな」と闇から闇へ葬られてしまう。だから改善しないんです。

 

内藤氏:
本当におかしいです。本来ならば、いじめという言葉を使わず、これは“犯罪”です。刑事罰を受けるようなことだと思いますね。社会で許されないことが学校で許されてしまうことが多く、学校でこういうことが起きると弱い人が泣き寝入りしてしまうんです。

 

<教師間のいじめが表面化しない理由>
・被害者でもいじめの事実を認めることに抵抗がある教師が多く、教師間でのいじめの存在は表面化しにくい
・さらに教育評論家の尾木直樹氏によると…スクールカウンセラーなどは短期契約が多いので、継続して雇ってもらおうと消極的な対応をする人が多いという


内藤氏:
閉鎖的で外部からの監視があまりない、そういう集団はどこでも権力が腐敗します。会社でも軍隊でも学校でも、どこでも起きます。ただし会社などと違うのは、学校では先生は尊敬に値する人々であり、人格的に信頼できるという思い込みが広まっているところ。実は、大部分の大人は普通の人で、学校の教員も変わらないのですが、その認識がない。なぜか学校の教員だけが特別扱いされ、社会のチェック機能から解除されてしまう。こういった問題は社会のどこでも起きることですが、学校の場合はさらにプラスアルファでひどくなりやすいところがあります。』ー以上より引用ー

 

 

 

確かに教師による教師へのイジメは昔からあったことだらう。

 

ところで人間は還暦ともなればまたは古稀にでも至れば其れで大人になれ争わなくなるやうな人格が形成されるのだらうか。

 

いや其れは違ふ。

 

わたくしは六十代、七十代の人々が反目し合って居る様を組織の上で現に今見て居ります。

其の様やまるで幼稚園児並の本能的展開なのです。

 

また、女は女でたとへ女であることは終わったにせよ観念欲はどこまでも残りませうから要するに婆様方も皆本能的展開の内のものです。

 

 

が、稀に真に理性的な紳士淑女の方々もまた居られませう。

わたくしはさうした人々をのみ尊敬致します。

 

但しわたくしに限ればまるで紳士などでは無ひのだが。

 

 

閉鎖的な環境では権力が腐敗し易ひといった部分はまさに其の通りでのことです。

 

権力と云ふものは社会的に規定される欲望の形態ですのでまた特に社会構造がデカくなればなる程に其処で腐敗の度が進み其処での破壊力なども増して来やう。

たとへば教師は人格的に信頼出来ると云ふ前提でもって要するに其の肩書に安心して教師と云ふ価値自体の絶対化を世間は行ふ訳だ。

 

価値自体の絶対化によりたとへ其の価値自体が間違って居ても其れが正しひのだと云ふ倒錯の価値観が生じある意味でとても安心な戦時中並びに戦後の価値観が形作られて来た。

 

尚此の部分は少しややこしひのですが、要するに戦前にせよ戦後にせよ其の価値自体の絶対化に寄りかかり我我国民乃至大衆はある種安定した社会構造を経て来た訳です。

 

ではあるのですが、此の事件が象徴するが如くに其の安心の構造が實は壊れても来て居る。

 

其れは価値観の転換ー戦前と戦後に於けるーから生じたものではなくもっともっと根本のところでの人間の心の矛盾から炙り出されて来たものだらう。

 

 

尚、内藤氏の其の聖職意識への批判ですが、其れはあくまで彼の實体験から醸成されしものでありつまりは多分に彼はアノ高校時代の学校管理体制へのたった一人での闘ひをいまだに引き摺って居やう。

 

また内藤氏が其の頃高校の教師に何を言われ何をされたのかは存じませぬが、其れでも結局は其の教師共は今や皆とっくに引退し其れどころかおそらくは半数程がもはや此の世の人ではありませぬ。

 

で、問題はそんな過ぎ去りし過去の恨みつらみにあるのではなく社会とはまた文明とはさらに人間とは一体何かと云ふことだ。

 

特に其の人間の心とは何か、人間の心が生み出す抽象的な領域としての社会=文明が一体何者でまた其れが何処へ向かおうかとして居るかと云ふことだ。

 

 

『加害教師について取材。40代の女性教師が卒業文集に載せたメッセージを手に入れた。


「置かれた場所で咲きなさい これからの人生で自分が希望する環境にいつもいられる訳ではありません。自分が置かれた場所に、不平不満を言うのではなく、そこで精一杯 自分なりの花を咲かせましょう。これは、先生の大好きな言葉です。がんばってね」』ー以上より引用ー

 

 

全く仰る通りです。

尤も社会に対して文句を付けますので所詮わたくしは悪ひ子ですが。

 

ちなみに最近わたくしが大ひに気になるのは、たとへば淫行などで逮捕される教師に女性が混じって来たことです。

 

ですので、男性教師が淫行で逮捕されること其のこと自体には特に疑問は感じられぬ。

 

第一大乗仏教の僧侶であるにせよ大昔から男性の性欲処理は一面で凄まじひものが御座りました。

 

ところが、淫行で逮捕されるほどに女を図に乗らせて居ては金輪際いけなひことだ。

 

 

いや、確かに女でも利口は居ます。

 

其れは認めます。

 

が、其れでも決して女は信用出来ぬ。

 

何故なら奴等は二枚舌だからです。

 

つまりは二面性としての心の保持者である。

 

即ち顔は菩薩でもって心は夜叉と云ふ言葉通りに。

 

 

どだい其の矛盾の受け容れの仕方がスムーズ過ぎる。

余りに楽に何でもスンナリと其の子宮へと取り込んで仕舞ふ故とっても恐ひ。

 

と云ふことは女其れ自身が矛盾其のものであると云ふことだ。

矛盾の無ひものなど此の世には御座らぬがより矛盾が少なひであらうものはあり其れは男性としての観念的構造です。

 

 

其れも知識などでは無く、あくまで観念的構造のことです。

其れが一種潔癖なのだと言ふて居ります。

 

其の思考、心としての構造に裏表が無ひと言ふことだ。

 

 

但し諸価値は必ずや二面化致します。

其の二面化せし価値=現世利益を矛盾無く受け容れることの出来るものは観念ではなく子宮其のものなのだ。

 

 

所謂世界でもってひとつだけの花を咲かせる、嗚呼何て美しく素敵な概念なのだらう。

 

何ですが実際には爺も婆も皆畜生道をば日々邁進してもおる訳だ。

 

 

内藤氏が現在現代社会をどう捉へられて居るものか其の著作物をいまだ読んで居らぬわたくしには分かりません。

 

然し社会は今岐路に立って居ることでせう。

 

其れは本能的になり過ぎたー大衆社会の行き詰まりによりー権力行使の低俗化であり幼稚化の問題さへをも孕んで居やう。

 

実際何故社会的な次元がこうも低俗化ししかも幼稚化していくのだらう。

ー但し個が低俗化して居るとは述べて居らぬ。個はむしろ高等化していく。-

 

其れは教師と云ふ単独の職種に突き付けられし問題では無く人間全体、文明人自体がむしろ抱へて居やう問題です。

 

 

さて人間は何故人をイジメた上で喜びを得るのか?

 

逆に捉へれば其れは他己としての犠牲の上に自己の優越性を常に確保して居たいからです。

 

即ち他を足蹴にすることでしか自己の優越性を確かめることが出来なひ。

 

 

然し其れはまさに自己本位であり理性的に未成熟な行為であるに過ぎぬ。

即ち自らの卑小さを其の倒錯せし優越感により確かめて居るだけのこと。

 

其れに理性は必ずしも肩書に宿る訳では無ひ。

 

然し其れは宿って居ます、おそらくは誰もがさうは見ない処にのみしかと。

 

動物をも含めて他を足蹴にすることでしか喜びを得られぬものであるならば其の喜び自体が顛倒せしものであり其れは真の生の喜びにはほど遠ひものだ。

 

現代社会が価値観の多様を謳ひながらも自己本位へと堕ちていくのはむしろ必然としての精神的堕落の態であり即ちこれ以上無く自らー社会ーの救われやうの無さを其処に如実に示すものでもまたあることだらう。