目覚めよ!

文明批判と心の探求と

カアーンカアーンと教会の鐘の音が


此の聖なる日に十字架を謗るつもりなど毛頭御座らぬ。
されど近代はキリスト教から生まれキリスト教と共に終焉を迎へることであらう。

だからと云ってキリスト教自体が悪いとは言えぬ。
何故ならむしろキリスト教が文明を存続させて来た。

こんな風にわたくしは長い時間を経てキリスト教を受容するに至ったのだ。
さあ其れではこれから教会へ出向こう。カトリック南山教会の紹介

寒いが自転車で突っ走りかの南山教会へ行くのだ。
南山教会の辺りは大金持ちが多く住んで居り確かトヨタ自動車の会長さんー元会長さんのことか、未確認の情報ながら噂では確かーの大邸宅が御座る。

大金持ちの家を横目で見つつ南山教会のツリーを見て来たいところながら確かカトリックにはクリスマス前夜祭なるものは無かったやうな。
其れももはや覚えが無い。

いずれにせよ是非宝蔵寺ー家のすぐ近くにある曹洞宗の寺ーへ行き座禅を組むべきなのにこんな他宗教のしかもクリスマスだなんてもはやおまへは頭がおかしひのではないか。
いいや、さうではない。

若き日の父は南山へは毎日通って居たのだ。
其れも独逸系のカトリック?なので戦時中でもまだしも良かったさうなのだ。

鬼畜米英とは違ひ何せ同盟国なんで。
それにわたくしは幼き頃教会へ英語を習わされに行かされて居た。

が、いまだに英語力はゼロだ。



わたくしの勤務する病院は高台にありお昼の12時になると時折教会の鐘の音が聞こえる。

兎に角この辺りは教会が多い。
何せ山の手なんでね、基本的に。

其の山の手の台地の南端にわたくしの自宅がある。
山の手の台地の南端になればなる程レヴェルが落ちて行くが他の区の人々から見ればまさにウチが其の山の手なのさ。



嗚呼、マリア様。
此の哀れな悩める一仏教徒を御救ひ下され!

此の際かのキアヌ・リーヴス氏と共に救って下され。

でも何だか冷え込んで来たので教会へ行くのは止めて何かを食おう。


教会はまた行けばよい。

だから仏教徒は教会へ行く義務など無い。

さうして何かを食ひつつ今宵はキリスト教の矛盾につき深ーく考えてみるつもりだ。





泣くマリヤ様









尚以下は数年前にわたくしが書いたものだ。




「たとえ世界の終末が明日であっても私はリンゴの樹を植える」


1.『世界名言大辞典』で人名索引を調べると、“いかなるときでも、人間のなさねばならないことは、世界の終焉が明白であっても、自分は今日、リンゴの樹を植えることだ。(最後の瞬間を支えるものは希望)―ゲオルギ「第二のチャンス」”という記載があるそうだ。
2.『第二のチャンス』には、物語の最後の場面で“ピラはおどおどとした彼女の美しい眼を見、マルチン・ルッターの言葉を思い出す。(中略) ピラは云う。「Und wenn Morgen Weltuntergang ware,ich werde am heutige Tage doch Apfelbaumen pflantzen.」 (中略) ピラはドイツ語を訳しはじめる。「たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える・・・・・・」”とあるそうだ。
3.徳善義和著『マルチン・ルター 生涯と信仰』によると、“これはマルチン・ルターの言葉だと言われて、あちらこちらに引用されるのですけれども、この言葉がどこにあるのかと何人かの方に尋ねられた機会に、私が何回かにわたってかなり大捜索をして探してみましたけれども、見つかりません。その後、高名な学者に伺ってみても、やはりルターの言葉ではないということのようですけれども、ルターの信仰の気持ちをよく表していますから、それでマルチン・ルターの言葉ということになってしまったと思うのです。それは、「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」という言葉です。”とあるそうだ。




とは言え世界の終末は明日来るという訳では無く徐々に徐々に其れは顕在化して来るのであろう。


ただし近代は紛れもなく其の世界の終末の時代、即ち人類史にとっての最終かつ最後の時代であろうことはもはや疑うべくもない。


だがそれでも人間はリンゴの樹を植え続けなければならないことだろう。

たとえ植えたリンゴの木もろとも明日にでも世界が滅び去るのだとしても。



さて「希望」という言葉は如何にも都合の良いもので、たとへば最後には希望さえあれば何とかなろう、だから希望を失ってはいけないんだ、などと巷間良く使われて居る言葉なのであろうが、どうも真の希望とは逆に絶望、または悲観の絶頂に於いて垣間見えるものであるようにわたくしには思われてならない。



第一キリスト教徒にとっての希望とは此の悪魔に支配されし腐った世からの解放なのである。

信仰により此の罪にまみれし世から救われ新たな命を神より授けられることなのである。

従って、其処では滅亡とは再生の為の必須の条件である。



だからまず一度世は滅び去る必要が是非あるのだ。

尚仏教に於いても此の世は腐った世の中である。

否、そうした腐った世界に縛り付けれし己の心の内なる不毛と錯覚こそが過ちであるとそう諭すのである。



だからキリスト教では人間の外側の破壊、滅亡が内的な問題と関わって居るのであろうが、仏教に於いては其れはあくまで関わっては居ないこととなると結果的には言える。

仏教に於いては其の教えの対象となる本質は外側にはなく自らの内側にこそある。



つまるところ、この腐って居るやうに見える世界に自らを縛り付けて居るのは誰あろう、この自分自身なのである。

左様に仏教に於ける内省の度には元来深いものがある。





「たとえ世界の終末が明日であっても私はリンゴの樹を植える」


とそうあのルターが言ったのかどうかは判然としないが、もし言ったのだとすれば元々禁断の木であるリンゴの木を植えるということからも当時の教会を批判し啓蒙していく旨の意が多分に其処には込められていたのであろう。



キリスト教といふ宗教思想はかように厄介なところを多分に含んで居り、第一近代といふ破壊の時代を招いた張本人こそがおそらくは其のキリスト教自身であったことだろう。

即ち近代とはキリスト教の自己矛盾過程として世に現出せしめたなにものかなのである。



やがて啓蒙思想を経て近代主義は確固たるものとなりのみならず其れは普遍化されるに及んだ。

従って近代はもはや普遍化して居り、それこそ此の地球上の草木一本、石ころひとつに至るまで全て近代の原理を擁して居ることであろう。



だから今やどこの未開の村へ行っても其処に生まれた若者は皆近代を志向したがるのだ。

其処でもってたとへばタオイズムなどを奉じ脱近代だ!などと言って居る輩など一人も居らぬ筈だ。



だから兎に角皆金が欲しいわ、家電が欲しいわ、車も欲しいわ、おまけに豪邸も欲しいわで全く望みが現金なことこの上ない。

未開の村の村長さんとしての名誉などは要らぬから兎に角金を呉れ!なのであり、大自然に囲まれし豊かな未開の村の自然を顧みることなく兎に角家電を呉れ!車も呉れ!全部呉れ!なのである。




だが君たちが得ようとして居るものの本質とは狂であり虚であるところでのものである。

我々文明人が狂ったようになり頑張って手に入れたものとは虚の幸せに過ぎないものであった。



金が、車が、そして豪邸が何を我々に呉れたかと云えば其れは僅かな便利さと引き換えにした虚ろな心であった。



左様に近代は我々に自我の分裂を促す。

主体である虚の自分が客体である真の自我を常に監視し飼育せしめるやうなシステムをいつの間にかつくり上げていったのだ。



我々は主体的であるようで居てしかし空っぽな己を抱えつつ此の不安な時代を生きて行かざるを得ない。

しかもますます其の近代のシステムは強化されていくことだろう。



事実変な犯罪ばかり起こるようにはなるわ、下ネタの方での犯罪が兎に角多いわ、大企業に居ても明日の生活の保障などどこにも無いわ、しかも寺からも下ネタで逮捕者が出るわで全く何が何だか分からんまさに何でもありの社会になってしもうた。


また其処で消費税など上げたら弱者は皆のたれ死ぬというのに何故か政府は貧乏所帯から兎に角金をむしり取りたがる。


そのやうな無体な行いは畢竟須らく心なき近代の原理の齎すところである。




結局キリスト教は近代を生みそして不安かつ不安定な現代の社会を生んだ。

即ち宗教の自己矛盾過程こそが現代の精神の破壊を齎して居るのだ。




おお、神よ、何と。

コレは一体如何なることなのか。



腐った世界で人間を生かし最後には絶滅させて全部創り変えようとそう思っていなさった其のアナタ様が。

そうなる前にご自身を滅ぼし地球の破壊者へと人間を変えていってしまわれたのだ。


神よ、尽きることなきこの信仰の体現よ、おんみは我等が下司の欲情を、この欲と不安とにまみれし我らの現在をどうお裁きになるというのか。




うんにゃ、もう神は死んだだよ。

かのニーチェが百年も前にそう言ってただよ。




勿論キリスト教には宗教改革が是非必須であった。

宗教に限らず長きに亘り構築されし組織は硬直化しそして腐敗する。

だから其れが必然としての改革を呼び込むのである。



そればかりか資本主義にも勿論改革が必要であった。

修正資本主義などでは埒が明かぬ場合には無論のこと革命こそが必要であった。



然し改革とは、或は革命とは綱渡りの仕事でもまたあった。

なんとなれば改革は、そして革命は本質的な変化を社会に齎す。



キリスト教の改革派の中からやがて自己を道徳的、規範的に律する清教徒の流れが成立したとされて居る。



Wikipedia-市民革命




ここで重要なことは、キリスト教の改革の流れとしてのプロテスタンティズムからまさに市民革命の流れへと繋がる近代的な主体論理、自己を客体視しつつ管理するという近代市民としての構造が成立して来て居ることにこそある。


ということは、近代主義に連なる諸要素は実はキリスト教から内発的に派生、発生していたものだったのである。

つまるところ何とかのキリスト教自身が市民革命を生み近代主義を確立しても居たのであった。



ところがキリスト教自身は自由かつ平等でおまけに豊かになった大衆から次第にソッポを向かれる羽目に陥っていったのである。

なんとなれば人間は誰しも腹がくちくしてしかも物質的に豊かで大事に思う子や妻に囲まれて居ればもう其れで何も言う事などないのだから。

普通人間といふものは其の位に低級だといふことなのである。




其れをあえて子や妻まで捨ててまで自分の宗教など創ろうといふ人の気がしれない。

そういうのはもう釈迦やキリストだけで沢山なんだ、俺は至極俗物なんで、こうして飲む打つ買うのが大好きでしかもおまけに子煩悩なのさ。

どうだ、あったかいだろー、人間味に溢れているだろー、へっへっへっへー。



だから其れを否定することなどは出来ないが、兎に角もう少し頭を使って考えてもみろよ。

今日わたくしが申したが如くに、かのプロテスタンティズムからこそ、近代への流れは生じていったのである。



そして自由の達成が、人権の確立が、そして金回りの良さが、人間をして大自然に囲まれし未開の村の未開人から文明人へと押し上げていったのじゃ。


否、押し下げていったのである。


すると、いきおい人間は傲慢にもなろう。

それでいつしか神仏を軽んずるやうになり、おまけに性は自由化だーなどと喚いてつひ文明自体をAV化するに及んだのじゃ。



嗚呼、神よ、おんみはいましいずこにおわしますのですか?

我は見ての通りで只のアホな仏教詩人なのでは御座いますが、其れでも此の世の乱れ、まさにまさに其の淫行が延々と繰り拡げられて居るやうな世界の現状に限りない違和感を感ずる者なのでも御座います。




キリスト教に於ける自己矛盾の闇はかようにはかりしれぬほどに深い。

人間の精神を規定し人間をして地獄の底から救い出す為の宗教としての機能が矛盾化して逆に神を殺すことに繋がっていったのである。

しかも其れは歴史の必然としての過程だったのである。



嗚呼、そうか、だからこそまさに「たとえ世界の終末が明日であっても私はリンゴの樹を植える」のである。

キリスト教の自己矛盾過程としての近代の成立に対して、元より神は寛容であり其れを良いとも悪いとも仰ってはいないのである。

いや、結局良いとも悪いとも言えないのである。

何故なら全ては身から出たサビだったのだから。


即ち近代というのは、其の須らくがキリスト教の矛盾としての身から出たサビだったのじゃ。