目覚めよ!

文明批判と心の探求と

メラメラと燃え盛る焔でもって元気にならう


このまま進んだら文明は或は人類はどうなりますか?
と云う事を多角的な視点から論じていくことが元より此のブログの目的なのだ。


しかも其の危惧、危機感の持ちように関しては一切妥協して居ないつもりだ。


其れこそ愛やらしがらみやらを排除する形で其れは行われて来た。
何故なら誰しも世界に対する愛着があり其れを抜きにして言葉を紡ぐことなど普通あり得ない。


また社会に属して居る以上其の社会をコテンパンに打ちのめす訳にもいかないことだらう。


然しわたくしは一度是非其れをやりたかったのだ。
是非やらずばならなかった。


どんなものにも+の面と-の面があり其の双方を見なければ正しき認識に至ることは出来ない。
其の両義性こそが現象界の本質的特性であり同時に限界を指し示すものだ。


其の限界をわたくしは述べることにして来たつもりだ。
また其の限界は哀しひかな凡俗の人々には越えられない。



だから宗教こそが其の限界を指し示し同時に二元的対立を克服する力を其処に提示するものだ。


其の超克の場面は畢竟其れは精神の次元でしか成らない。
精神のありかをまさぐりまさに其れに関与していかずばあらゆるものは唯物化しつまりは物質的次元に堕する。


重要なことは我我自身がさうして文明がさうした限定と云う牢獄に実は閉じ込められたものだと云う事だ。


其のことに気付けない我我は今まさに此の現在を欲望のままに謳歌しやうとするが其れこそがまず間違ひだ。



間違ひばかりなので我我はまさに幼稚園児並の心的段階にありだからバカだバカだと自称詩人に言われても実は其の通りのことだったので誰も反論したりは出来なひのだ。


まあどんな反論でも受けますがそんなことにイチイチ関わりあって居ては全くの時間の無駄なのであへてさういうのは無視しつつ歩んで参りましたのですが。



クリスマスケーキ 大量廃棄の実態 一日500kgがブタのエサに 家庭ゴミにはホールの半分が捨てられ

うわあ如何にも勿体ないでせう、これでは。

目の前での知人の男逮捕に激高か…20歳女子大生 職質中に警官の腹等複数回蹴った疑いで逮捕

だからもう女を野放しにしてはいけません。

21世紀とは即ち破壊の時代なので諸価値に於ける基準が変わりかっては普通にあったものが貴重となり逆に貴重なものが屑と化したりしていくことでせう。



残念ながら宗教的価値は或は地に落ちるのかもしれない。

だが逆に宗教的価値がむしろ大きくクローズアップされ人々は其れにのみ頼るやうになるのかもしれない。


ロボット司祭とかさういうのが未来の教会には居て何だか気持ち悪く目が光ったりしてさういうのに我我はひれ伏して祈りを捧げたりするのやもしれぬ。


仏教は残念ながらやがて滅ぶ可能性が高い。
されど仏法自体が滅ぶ訳ではない。


何故お寺がいけないかと云うと、檀家制度はもはや如何にも時代遅れであるからです。


其れと社会がお寺を圧迫して居ます。
合理主義に傾き過ぎた資本主義が庶民にとってお布施をなかなか出せない状況を固定化して仕舞ふ。


だから着る、食う、住む、だけでもう手一杯でもはや一銭も坊主などには出せぬ。


お寺にカネを出す位なら誰しも趣味やら旅行やらに残った金を使いたひ。


なので全ては社会が悪ひ。



ズバリ社会がお寺を滅ぼします。



さらに時代が進めば無論そんなこと位では済まなくなる。


高級な食材や素材は皆無くなります。


コレは金持ちが其れを買ひ占めるからです。


そして金持ちは宇宙にさへ出掛けるやうになる。


されどたとへ宇宙に出るにせよ心の穢れた金持ちは皆地獄に堕ちます。



地獄へ行くか天国に昇るか。
ただソレだけの違ひなのです。



お寺はこれから次第に商人化ー現世利益化ーし盛んに金儲けに勤しむこととなりませう。


キリスト教は滅びずロボット司祭が必ずや出現することでせう。


キリスト教とは其れ即ち終末論ですので其の通りに終末観は推進され此の世の終わりを迎へることでせう。


其の後に誰が復活しどうなるのかは分かりません。


天国や極楽に行くのは或いはキリスト教徒と浄土宗系の信徒だけになるのやもしれぬ。


尤も禅僧は其の前に解脱してもうこの世には居りませぬ。


密教系の僧侶は懸命に護摩を焚き国家の安泰と二元の統一につき祈る。



尚、此の護摩のパワーはまさしく素晴らしひものです。


わたくしは此の十月に興正寺にて大護摩を見て参りましたがまさにコレこそが最高の経験でした。


拝火教と云うのがありませうが其れと密教護摩には何か深い因縁がありさうです。




火は何か神聖なものであると同時に悪魔としての破壊者のやうでもある。
実際何でも焼き尽くします。


ですがお日様を見るとエネルギーを与えられやう。


尚わたくしは日光浴が好きで其れをしないと何やら全てがうち沈んでいく気がしてなりません。
だから必然的に夏が大好きです。


お日様は火の化け物で言うなれば命の源です。


所詮わたくしは陰性なので其の火としてのパワーがどうしても必要なのだ。


其の善なる火、燃え盛る焔の中にこそわたくしが求めて居るものがある。


かうして陰気=理性=闇で陽気=本能=火です。


かうしてくらーいものは必然的に火のメラメラを求めてやまぬ。


かくの如しにくらーいわたくしはまさに火のメラメラを求めてやまぬ。



何せ世界は燃えて居りますからね。
どんなに冷静に世を論じていようと其れとは無関係に燃え盛って居るのが煩悩の焔のことです。


だから火=煩悩です。


わたくしは妙に知的な部分がありまるで月夜の晩のやうに常に理性のみが青光りして居りますので実は社会やら人間やらのゴタゴタが嫌ひで燃え盛る欲望なども実は大嫌ひだ。


だが矢張りと言うべきか逆を向かずばなるまひ。



其の青光りから灼熱の恋の焔の世界へと。


羽搏くのだ、今こそ羽搏け!


いや、でも何処からもパワーが湧きません。


此の青光りの理性が邪魔をしてそんな酒池肉林の世界へはとても行くことなど出来ませぬ。



だから火から拝借するのだ、其のパワーを。


即ち生とはパワーである。


愚かな人間はパワーにのみ惹かれさうして永遠に解脱は出来ぬのだが。



左様生とは矛盾的な燃焼のパワーのことだ。


一見我我は燃えて居ないやうに見えやうが実は燃えて御座る。


さうか我我は実はお日様の化身であった!


まさかあの大日如来の化身だったのか!



其の大護摩壇から大日如来の御堂まではずっと階段が続いて居て其処を登るのは大変なんだ。


燃え盛る焔よ、其の焔よ、嗚呼まさに紅蓮の焔よ。


おおまさに我と君等の懊悩を焼き尽くす紅蓮の火焔よ。



あれ、あんなところに立派な御坊様が。
どう見ても美しひ特別な御坊様が。


然し其れを見てはならぬ。
興正寺の御坊様に惹かれたりしてはならぬ。



あれ、あんなところに美しひご婦人が。


其れも着物姿で何とも妖艶な。


何処かの水商売の人だらうか。


高級クラブとかさういうところの。



尚、以上は創作ではなくわたくしの心象スケッチなのでまさにノンフィクションの散文詩である。


わたくしは男性と女性のどちらにも惹かれると云うことが此処で良くお分かりになられることであらう。



また人間嫌いの癖に人間に惹かれることが実は多い。


ところが自然の中に一人だけで一年間居なさいと言われれば苦も無く其れをやり遂げることが出来やう。


サア愈々分からん、自分でも兎に角自分が分からん。




さらに仏教では「善悪不二(善悪一如)」という考え方があり、仏の立場からすれば、別の物ではないという立場をとっており(『広辞苑』)、近世の心学における善玉悪玉にもみられる(悪玉から善玉に戻る)。以上より引用


善悪に関しては確かにわたくしも仏教的な立場を貫く。


其れは二元なので同じものだったものが分かれたものであるに過ぎない。


しかも善悪の立場は相対的なものであるに過ぎない。



事実ある立場では善と規定されるものが別の立場では悪と見做されたりもする。


たとへば男女の差もさうした意味での相対論に過ぎぬことであらう。


が、近年に至りさういうのともまた違ふ考え方に至りつつある。



或いは其れはキリスト教の影響なのやもしれぬ。


其れ以上に実人生上の経験から、どうしても悪ひ奴は悪く善き人は善ひと云う結論に至りつつもある。


其の違ふ、と云う部分こそが大事でならば一体其処で何が違ふのかと云う事につき考え込んで居る最中なのだ。



其の同質と異質の部分の違ひ、コレこそが実は大きな部分だ。


翻り思ふに、わたくしは一体何だらうと思ふこと頻りである。


かように両性具有的で共感覚者として生きるわたくしとは一体何者なのか。



ヘッ、ヤッパリ一番見えないのが自分自身なのであり兎に角一番理解し難く信用ならなひのが自分自身なのだ。


最終的には全てが自分との闘ひであり社会など存在して居ない可能性すらある。


即ち我が感ずるところに社会や女は生ずる。


我が一人で山に籠れば社会や女は皆消滅する。



我が認識するから其処に外側が生成される。


認識して居ない間ー寝たり死んだりした場合にはーは外側は何も無い。



尚コレは哲學で云う独我論と云うもので実は論理的に此の考え方を否定することなど出来ないものなのだ。

ジョージ・バークリー


かようにバークリーは聖職者だ。


ただしわたくしは其の主観的観念性そのものを実体としては捉へて居ない。


此の世界はあくまで現象であるに過ぎず現象とは虚妄であり錯誤であるとさう捉へて来て居る。


ただし其れに対置されるべき実体としての神仏の叡智そのものも厳密には観念の所産であるに過ぎぬ、


かように観念には限界があるのでむしろ其の限度を知ることこそが理性の本質だとさう捉へて来て居るのである。



兎に角眠って居る時に母ちゃんや子、また車やビルディング、はたまた山や川や海が有ると云う事を証明出来る人など何処にも居ない。


だから眠りとは死の疑似体験なのだ。


あー、また余計に眠れなくなりさうだ。



ただし眠れなくても朝は来る。


ところで何故朝は来るのだ?


ところで何故女は女なのだ?



さう心配するな。
我が思ひ込んで居るやうにはなかなか世が滅びることはない。


それでは皆様良ひ御年を!