目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

逆合理化の勧め


今世の中つまりは社会がどの位悪いものになって仕舞って居るのか、おそらくは多くの人々=大衆はそのことに気付けないか或はそのことを無視し続けている筈である。
実際こんなに忙しい社会ではとてもそこまで考え込んでいられないのが実情である。


生活に追われ仕事に追われはたまた家族や親せき或はパートナーのご機嫌を取るのに追われとても思考どころではない。


だが現代社会は何故こんなにも忙しくかつ生き辛いものになって仕舞って居るのだろうか。


わたくしはかってこの社会を徹底的に考えた末にひとつの結論に達した。


其れは合理主義が人間そのものを蝕んでいって仕舞うということであった。



こんな風に過労を生み人間を自殺にまで追い込むのは資本主義という合理的な利潤追求のシステムが齎す合理化の弊害である。


こんな風に女性しかも子供を性の奴隷の如く扱う男性の精神構造を生み出して居るのは合理化されし性の意識が齎す害毒である。



またこんな風に危険を承知で其の危険な行動をあえて行う所謂天命を知らぬ老人を生み出して居るのは利己主義という合理主義が齎す犯罪である。



そのやうな訳で、今現代社会は総利己主義化、総合理主義化されて行きつつある。


だがこんなのはまだ序の口で、この傾向は時の経過と共に和らぐどころか次第に加速化されていくことともなろう。


すると人間が、人間自身が破壊されていく方向に我々は向かわざるを得ない。



合理化は、其れも範囲を違えた合理化は畢竟そんな悲劇しか齎さないのである。


従って我々は個人レヴェルに於いてこの合理化の弊害、合理化が齎す破壊と闘わなければならぬ。


其の闘いとは、実は難しいことではない。



譬えて言えば部屋の蛍光灯が三本付いて居るのを一本にしておくというのと同じ部類でのカンタンな節約法なのである。


ところがこれこそが現代人にとって出来ないことそのものなのだ。


色んなものに縛られて居ない自称の詩人のわたくしなどは、そも自分の人生を人となど比較していないのであるし、かつ他人が持って居るもの、消費しているもの、憧れているものなどにはほとんど興味がない即ち関心さえない。


わたくしはわたくしの必要に応じて色んな物を買ったり、食べたり、或は愛したり憎んだりしているだけのことなのであり、其の個としてのパターンつまりは実存的価値のようなものは誰も奪い去ることなど出来ないのである。


従ってわたくしはどんな権威にもまた見栄や体裁、世間体といったものに元々煩わされないという部分を強く持っている。



なので普通この位の部屋なら三本蛍光灯は居るよねというのをあえて一本で済ませて仕舞うのである。


また車は居るよねと言ってもこんな都会ならば本当は車なんぞ要らないので車に乗るのを止めたのである。


結婚して子供が居て、なんてのも真理に照らし合わせると其れは謗法であり背徳の罪が生ずるので無論そんなものは持って居ないのである。



ところがそうした所謂社会的常識に従い世間体を取り繕うことばかりを考えて仕舞えば其れはもう蛍光灯も三本付けねばならなくもなろうし車にも乗らねばならないのだし家庭だって持って居なければならない。


なのでわたくしは常識的ではない。


でも至極潔癖である。



つまるところ、常識というのはかなりにふしだらなものなのである。
わたくしは其の常識のふしだらさが兎に角嫌いだ。


だからわたくしは常識的現代人ではない。
何せ自称詩人なので其れも当然のことである。



ところで、気付かれたこととは思うが、わたくしのやって居ることとは一種の合理化なのである。


合理主義の齎す美果に対する逆の合理化なのだ。
つまりは逆合理化。


逆合理化というのは、ある種の不健全さつまり非常識なところと常に繋がって居るのだがこの方が矢張りわたくしにとっては居心地が良いので努めてそうして来て居るのである。


其の逆合理化というのは、矢張り個のレヴェルであるかそれとも脱近代、脱合理主義といった思想の段階に於いて初めて成り立つものなのかもしれない。


何故なら全体主義化された近代的常識は普通個を呑み込んで仕舞う筈。


然し其の全体主義に屈せず闘い続けるのはまさに其の個の意識でもあるからなのだ。



合理化に対する闘争は謂わば人間の最終戦争なのだとも言える。


合理化は元々社会化された人間にとり必要なものであるからこそ其の適用範囲の策定、法秩序化することが常に難しいのだ。



でも皆様は感覚でもって其の範囲を捉えることが出来よう筈。


言うまでも無く性の合理化は×ですね。


特に中高生の娘さんをお持ちの親御さんにはこうした世間に於ける惨状を良く知って頂きたいのです。


今は昔と違い、中高生や女子大生でもいつ見知らぬ男の毒牙にかかるかしれたものではない社会なのです。


しかも戦後教育に於ける男女の平等性があろうことか性の平等、性の自由化に繋がる愚挙として蔓延しても居る。


これでは女という女はすべて汚されて仕舞う。


何故分からないのだこのおぞましき現実が、君、君、学校の先生達よ。



それから年寄りが随分利己主義ですね。


年寄りは年金をたんまり貰い高価な車を買い其れでもって暴走するから若い人が次々と轢き殺されたりもしますね。


兎に角大人しくはないですね。


昔の知恵ある年寄りとはまるで別物です。



また資本主義が末期化して居りますね。


なのでいまや塾やら大学などもCMばかり流して居りますね。


子供が少ないから、塾も大学も生徒さんを入れるのに必死なんですね。


それから金融資本主義が相変わらずお盛んで博打による虚のマネーの構築で皆さん忙しいばかりです。


でもそういうのはもう須らく逆合理化すべきなんじゃないですか?



虚の世間に踊らされることなく、確りと自己の精神の潔癖性を確立して考えておくことこそが必要です。


でないと皆自殺したり犯されたり轢き殺されたりして仕舞うんですね。


そんなことにならない為にも是非潔癖に生きていくべきです。



ちなみに潔癖さは精神つまり理性が生み出す性質のことです。


真に理性的になれば、人間は潔癖にもなれます。


然し理性を信じずただ本能の赴くままに行動していれば早晩人間は畜生道に堕ちついには地獄にも堕ちます。



無論のこと地獄に堕ちたくなければ、是非正しく理性を働かせた真に知恵ある人間になるべきです。