目覚めよ!

文明批判と心の探求と

性は冥く罪深きもの



さてこの数箇月に亘り性の問題を捉え直して参りました。


性とは何かと考えれば畢竟其れは自己保存つまり自我の執着ということに結論づけられるのであります。

自己保存つまり本能の領域の顕現は生の上での快楽には繋がりましょうが同時に其れは苦に繋がります。

生きて居るということは其の不断の快楽の成就を「求める」ことであるのでそのこと自体による苦と其れが妨げられしことへの苦の二重苦が生ずるのです。


要するに限定である存在つまり世界に快楽の成就を「求める」ことは根源的な大矛盾とならざるを得ないことである。

平たく言えば誰もが金持ちでしかも美人に囲まれ酒池肉林の世界に住するというのは不可能なのであり其れを求めて生きること自体が矛盾なのです。



まず宗教に於いて何故性的な放逸が認められて居ないかということにつき以上の如き存在の限定性による苦の創出という極めて現実的な問題が浮上して参ります。

謂わば物理的にも性は規定されて仕舞うのです。

理論つまり理性的に規定される以前に、性つまり本能領域は物理的に規定され其処で多くの苦を生じさせるということなのです。



ならば有限では無く無限の世界ならば性は無制限に求められ得るのかという問いが生じましょうが其れはあり得ない話なので其れに対する答えは常にフィクションでしかあり得ないということとなります。

つまるところ現実的にはあくまで性は矛盾でしかあり得ないのであります。

しかも性=生ですので、生が矛盾でしかあり得ないのであります。




ですのでまずこの性の基本構造が矛盾であるという視点をわたくしは此の世の中に提示させて頂きます。

そういうことを言って居る人はまず居ないのであえて言わせて頂きますね。



さて、初期の仏教と初期のキリスト教では性に対する見方が非常に厳しく其れも現代人にとってはまさにビックリするようなことが延々と述べられて居る訳です。

特に仏教に於いては、性どころか他のあらゆる感覚上の満足につき厳しく戒められて居るのです。


性どころか花の香りを嗅ぐことさえタブーであり、勿論酒を飲む、タバコを吸う、筆記具に凝る、ゴルフにうつつを抜かす、ギャンブルに嵌る、他のあらゆる快楽の成就が×なのですから幾らパッパラパーの現代人でももうこれは何でなのかなあと考えない訳にはいかなくなります。


つまるところ、一度世俗的=本能領域での価値観を全否定してみて、其処で初めて得られる境地というものがあるものと思われます。

ところが生は欲望に対する解放の過程なので、逆にそうした極めて精神的な領域での生の否定が生きること即ち本能に対しては矛盾化して仕舞うということとなりましょう。



即ち元々矛盾化して居る生の過程に精神という潔癖すなわち神意を持ち込むと其れ自体もまさに矛盾化して仕舞うということなのですね。

だからこの辺りまで考えることの出来るインテリ=二乗の人々はこうした大矛盾に晒され屡発狂したり或は華厳の滝から飛び降りることにもなって仕舞います。



つまり、精神と物質、或は神意と本能は二元的な対立構造を保ちどちらに寄りかかっても結局矛盾化するようになって仕舞っています。

ならば其の矛盾、対立を乗り越えて行く術はあるのでしょうか?

今のわたくしは其れは元来無いとしても有る筈だと考えて来て居ります。



丁度神仏が存在しないにも関わらず存在して居るということと等しくあらしめることが出来よう筈。


欲望を解放するか、其れとも否定しかつ抑圧するかという生に於ける根本の問題も畢竟其の範囲でのことです。

其れ自体が二辺に分かたれて仕舞うのですから、元々矛盾化することを避けられないのが生=性=生命の本質なのです。


其の生の本質である矛盾をどう乗り越えるのかといった点で少しくやり方が違うのが仏教でありキリスト教でありまた他の宗教でのあり方なのです。




釈尊自身が説かれた法の内容は北伝の大乗仏教とは異なり特に潔癖でしかも厳密な生活上の規範を形作るものです。


スッタニパーダ

第二 小なる章 十四、ダンミカ 三九三節

『次に、在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。・・・・・・・』

三九七節

『ものごとを解った人は淫行を回避せよ。
燃えさかる炭火の坑を回避するように。
もし、不淫を修することができなければ、少なくとも他人の妻を犯してはならない。』



ここにもありますように兎に角淫行を行うなとの仰せです。


ただしこのように、不淫を修することができない人=凡夫の為の教えも随所に散りばめられて居ます。

即ち本来ならば仏教に於いてはSEXは全面的に禁止です。

其の理由は、SEXという自己保存を為すことによりより強固に自我を形作る即ち此の悪趣の世界により強固に自らを縛り付けて仕舞うからなのです。

つまるところ此の本能領域が是とされる世界で其れをそのままに履行していくとドンドン悪い方向=矛盾化した方向へとより強く自らを縛り付けていくこととなって仕舞います。



其れで、自然とはまさにそうした領域のことですが、彼等の場合は神的世界の一次的な分解の過程なので其処では精神の部分での浸食、即ち瑕疵性、錯誤性が最小限なのでありたとえ其れを繰り返して居るにせよ精神的矛盾、精神的葛藤に苦しむ立場には元々無いのであります。


だから自然とは神仏のようでいて其れそのものではなくどこか抜けて居る、謂わばそんな存在である訳です。

対して人間とは本領領域と精神の領域で共に矛盾化すべく欲望を抱えた存在のことです。


どちらがより救われて居るかと言えば其れはもう明らかに自然の方が救われて居り人間の方はより救い難い存在であることがここからも明らかなことでしょう。



ですが、其の劣って居るということは、飛躍の為のタネ=バネを宿して居るということでもまたあるんです。

そして人間とはつまりはそんなバカ、バカであるからこそ仏と連なったり神を信じたりすることが出来るのです。


当然のことながら神仏自体が神仏を求める必要などは無いのでしてね。

生つまり性は神仏の分解であり、即ち神仏の自己矛盾過程であり、自然は其の一次分解過程であり、人間とは其の二次分解の過程である。



だから元々神仏、或はタオ、即ち全的な存在への希求ということは人間にとっての本能的指向でもある訳です。

それも精神的な意味での本能的指向です。




さて、其れでは性の意義=生の意義につきさらに考えを進めてまいりましょう。

性即ち生は矛盾化する行為である為性を肯定すれば即矛盾化し生という牢獄に繋がれて仕舞うことは避けられない訳です。

思うに現代文明は今明らかにこうした領域に繋がれて居ると申さねばなりません。



合理主義の世界観は世界を全肯定し其の全肯定した世界を合理的に切り刻み自我化することで欲望の内側に現実を引き摺り込むのです。

ゆえに性もまた合理的にふしだらなものにしていかねばならないということです。

ですが其れを行うことで性は次第に意味を失い最終的には其の意味さえもが破壊され尽くします。

性=生をよきもの、自らの手のうちにあるものとして考える思想は其の破壊から免れることは出来ないのです。



では性は否定してしかるべきなのでしょうか。

逆に性=生を悪しきもの、自らが忌避すべきものとして捉えもう華厳の滝から飛び降りて仕舞うべきなのでしょうか。

仏教は、特に初期の仏教は自殺を否定して居る訳ではありませんが否定の方に傾いて居るのは性であり生の方です。



勿論死ぬのが良いと言って居るのでは無いのですが強欲に捉われ生きることよりはまだマシだといったところなのでしょう。

そうした感覚こそが仏教の大乗化で失われた感覚の最たる部分ではないかとわたくしは思うのです。



ですので死と交わったところでの生の感覚、死と交わったところでの性の感覚というものがまず必要であろうとそう思うのです。

現代人は性を或は生を快楽の道具即ち欲望の解放の場位にしか思って居りませんが謂わば其れは合理主義による洗脳です。


性が或は生が厳粛なものでなくして一体どこに厳粛なものがあるというのでしょうか。

現代人の精神から失われていくものとはこの生の上での厳粛なもののことです。



厳しいもの、厳粛なもの、そうした要素が様々に絡み合うことで初めて人間の生が美しいものに変わります。

自然と比したところでの人間の生は常に醜く、そして暗い=冥いものである。

本能と精神という二重の不具性を抱えて生きる人間にとりそうした規定こそが自らを美しく保つ為の唯一の方策です。


たとえばあの啓蒙思想は、近代を迎え爆発的に増えた人間を社会的に規定する為に創られたものですが其れは社会的に人間を美しく存立させる為の思想でもあった訳です。

もっとも近代思想としての其の啓蒙主義は自己矛盾化して近代主義の齎す堕落の展開へと繋がる訳ですが其れが必要不可欠なものであったことは疑うべくもない。


其の後人間の社会にはそうした切迫したものの持つ美しい精神性のようなものが急速に失われていったのではなかったか。



謂わばどうしても要るもの、其れこそが美しいものなのです。

しかるに性のAV化は美しいものだと果たして言えるものなのでしょうか。

商品化され陳列される欲望としての性のあり方が人間の精神のあり方を逆に蝕んで来て居るのではないでしょうか。



性をそして生を美しきものとして保つ為には努力が必要であるようにわたくしは考えます。

元より現代に於ける其の努力とはかって釈尊がそしてイエスキリストが述べたが如くに厳しいものである必要はない。

が、たとえばムスリムの方々が現実的に守って居られる性に対する潔癖性位はどうしても要るもの、そうした努力こそが宗教上の真理と現実とのバランスに於いてどうしても要る類のものなのでしょう。



宗教が弱体化せし現実主義、いや現世主義、合理的な物質的欲望に支配されし世界観に於いては性つまり生そのものが商品化され浪費され人間が貶められていきます。

そんな人間が何処へ墜ちるのかと言えば其れは地獄道畜生道へと墜ちるに決まって居ります。

本能をより合理的に欲望の道具として扱う合理主義的な性または生の解釈こそは世界を破滅の淵へと追い込むであろう謗法者であり仏敵なのです。


または反キリストであり悪魔のことでもあります。


ですので精神のあり方を清浄に保ちこうした合理主義の齎す退廃に身を委ねることなく歩んでいくことが今我々に課せられし唯一の課題なのでもある。



歴史上文明の退廃は、必ずや過度の欲望の追求から引き起こされます。

古代ローマは広くなり過ぎた帝国に於ける様々な矛盾と飽食や不道徳な快楽の追求の為に滅んだのだとも言えます。


現代人はおそらくは誰もがそんなことは全くしていない、其れは歴史の上でのことで私たちは至極まっとうな暮らしをしているとそう思い込んでいることでしょうが神仏の立場から見た退廃と人間が自ら判断する常識、良識とは自ずから異なるものなのです。



従って謂わば、

性の乱れは心の乱れ。

性の乱れこそが破滅への契機。

なのです。


性または生は決して合理主義では規定し得ないだろう厳粛なものを多く孕んでいます。

そして其れは事実なのです。

事実性は冥いものであり、白日の下に晒せるようなものでは決してない。


其れはこの冥い場所へ我我迷える命を産み落とす為の負としての装置なのです。

そんなものをさもよきものであるが如く世間で言いふらされていること自体が明らかな誤りです。