目覚めよ!

文明批判と心の探求と

「心配するな、大丈夫、なんとかなる。」 一休 宗純



すべからくが二辺に分かたれる生は、其処に矛盾的推進を行って行く他はない。




即ち其処では善人とは悪人のことであり、生を生み出す子宮力は悪そのものであり命そのもの即ち善そのもののことでもある。


暴力は防衛の力即ち愛の力でもまたあり、我が子を愛する心は殺戮を行う力のことでもまたある。


死は生であり、生こそが死である。





また仏とは魔そのものであり、天使とは悪魔そのものである。







  
性善説」 孟子
  人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ

性悪説」 荀子
  人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ



このどちらの概念も論理的には成り立つ訳です。



然し、どちらも人間の一側面を言い表したものであるに過ぎない。


言語或は概念は、其の様に限定的にのみ示されるものである。





即ち観念には限界があり、其の観念に寄りかかり真理を言い表すことは出来ないということです。


真理と規定した筈の其の観念がすでに限定であり限界であるということなのです。





ですから本質として此の世は虚妄の世界とならざるを得ない。


此の世には真理を指し示すことは出来ないということです。



真理だと示した途端に其の概念が矛盾化し虚妄即ち嘘となって仕舞いますので。




其処を是が真理だと幻想しつつかつそう信じ込んで居ることこそが生の素の姿だということにもなる。


即ち生とは幻想です。


そして生とは信心です。


もっとも狂信と言った方が良いのかもしれない。





実際常人は常人なりに生を信じていく訳なのであり、知識人は知識人なりに生を信じていく訳なのであり、また子宮力に代表されし本能の力はほぼ忠実に其の生への信心を履行していきます。


信ずるものが何であれ、其の様に生とは信心なのです。




何故なら今貴方は自分の生の構築の道程や家族や仕事、或は属して居ることだろう組織や共同体乃至は国家のことをいちいち疑ったりして居る訳ではありませんね?

其の疑えないことだろう何か、生へ対する確定した信念こそが生への信心であり信仰なのです。




ではお前はそうではないのかとそう問われれば勿論わたくしも其の意味での信心はあります。

然し其の信心を核にして観念の世界を構築して居る訳ではない。


むしろそういう確定的な部分を解体しつつ謂わば詩的で直観的な感受の世界を大事にしつつ精神を構築して来て居る。





其れが詩と現実は違うということです。


現実はあくまで信心、信仰なのでそれこそ其処で宗教を論じることなど出来ないということです。



より純粋な意味で宗教を論ずる為には生へ対する確定した信念、信心、信仰が其処に無いということこそが前提となりましょう。


ましてや特定の団体への関与や特定の信仰のバイアスなどがあってはならないのです。





藝術に信仰があるかないかという問題はまた一種難しい話ですが大の方ではあり小の方ではないというのがわたくしの考え方です。


藝術は生への信心が無いとそも成り立たない世界のようにも思うのです。


それこそ悲観や否定をも含め生を表現することこそが藝術の上での意義です。





表現するということは信心と云うかむしろ愛のようなものです。


其の愛のようなものが無ければそも表現には至らない訳です。


だから此の世が本当の本当に嫌いで、また本当の本当に人間が嫌いで一言も口をききたくないのならそも其処で表現する必要などはない訳です。



小の方ではないというのは、ストレートな生への愛や信仰を疑い自己流に其れを再構築し世に示すことこそが藝術の上での観念的な屈折でありレトリックになる、即ち其の部分では生への信念や信心をわざわざ解体して示す必要があるのです。







愛もしくは狂信のようなもの、そうした幻想に寄りかかり我々生命は今を生きて居ります。


其の無明の愛、無明の信心こそが生を成り立たせて居るであろう何か根本的な瑕疵であり負債なのです。



或は生を成り立たせて居るであろう何か根本的な期待であり希望でもある。






其の様な二元性を好むと云うか其れを信心して居るという様のことです。


そして其の信心自体も二元性を孕むということなのです。



だからそういうのは、矛盾的推進そのものだと言って居るのです。






突き詰めれば、生命とは矛盾です。

矛盾だからこそ様々な問題が其処に生じて参ります。






大矛盾を抱えつつ歩む文明、貧困や病気や様々な特殊性又は通俗性と闘わなくてはならない我々の現在。


実際笑うに笑えない問題が山積みなのですが何故か笑えて来て仕舞います。





余りに矛盾の闇が濃く深い様、其の二辺の対立の様が濃厚なので精神が其れに追い付かずつい笑って仕舞う訳ですね。


本当は笑い飛ばす位に胆が据わって居ればよろしいのでしょうが、そうではなくすべからくが解決不可能なので其の現実に精神が追い付かずつい笑って仕舞う訳です。






ところで其の矛盾というのは合理性にとっての矛盾だということなのでしょう。


従って合理性に従わなければ矛盾を矛盾として認識しかつ其処で矛盾を苦として捉える必要もなくなることとなります。


合理性に捉われるということは観念に捉われるということですので、其の観念を滅して自らアホ化すれば苦を感ずることはなくなるということです。



実際其の方が楽なのかもしれません。


考えるということこそが実は苦なのであります。





ただ、元々何も考えて居ないアホと観念を滅して自らアホ化することはまた別物の筈です。


元々何も考えて居ないアホは矛盾というものが此の世に蔓延して居るなどとは全く思って居ない。


本能というのが其のアホの最たる例ですが此の領域ではいつまで経っても成仏出来ないということにもなって居ります。




まさに其の様や心理的に仏の世界とはほど遠いところを生きて居るということです。






つまり本能は幸せではあるが、つまり観念的に苦を感じて居る訳では無いが全体的には其れは紛れもない苦であるとも申せましょう。



対して観念的に苦しみ抜いた上で観念を滅して自らアホ化することは仏の世界へと一歩近づいていくことなのです。


イヤでも其の様になって仕舞うことである、まさにイヤでも仏の世界が自分の心の中に生じて来よう。






以前から述べて居りますが、分かたれることでこそ虚の世界=現象界=存在が生じるのです。


虚の世界はまた二辺に分かたれ、其処に両義性を生じますので其処では概念=言葉による本質の規定は不可能となります。






つまるところ、人間は性善であり性悪でもあるどちらつかずのものにならざるを得ない。


生自体も善とも悪ともつかぬ虚の現象である。


ただし分かたれることと分かたれていないことを概念的に規定するならば分かたれること自体が悪であり瑕疵であり負債であり対して分かたれていないことは悪でもなく瑕疵なく負債なきことである。


即ち大元では悪であり負であり矛盾そのものである現象=虚を生きるのが生命なので其れは性悪なのですが、いざ現実的に生を規定するとなれば信心=煩悩にとっての二辺の世界である、即ち此の善とも悪ともつかぬ、また性善であり性悪でもあるどちらつかずのものにならざるを得ない。


見方を違える、どの次元で本質を捉えるかという点に於いて言葉=概念の限界が露呈され生の意味がどちらつかずのもの、即ちバラバラのものになって仕舞うのです。





ですのでそも観念=概念によって此の世界の本質を規定することが出来なくなる。


或は本質自体が崩壊して仕舞う、本質的なものの希求が望めないのが逆に此の世界の本質なのである。


謂わば本質の自己矛盾過程こそが此の世界の本質である。


つまるところ本質そのものが時間と云う劣化により解体されて行かざるを得ない。



そうなるとニヒリズムの世界ということになりましょうが、実は其処にも常に逃げ道はあり其れは東洋の思想の方にこそ示されて居るものです。






「心配するな、大丈夫、なんとかなる。」

一休禅師が亡くなる直前に弟子たちに託した手紙に書かれて居た言葉だそうです。


此の世に於いて概念的規定は最終的には論理の破綻を招き矛盾へ陥って仕舞うのですから、其の論理的な矛盾を突き破る為にはこの様なある種の楽観的な達観の世界がどうしても必要となるのです。


ただし、此の楽観的達観は何も考えずに生み出されし結論ではない。

おそらくは考えに考えた結果出て来た楽観主義なのでしょう。




「有漏路より無漏路に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

ー人生は(煩悩溢れる)この世から、来世までのほんの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことない。ー





論理による真理探究は必然として矛盾化します。

本質の自己矛盾過程こそが此の世界の本質なのですから、真理は論理即ち概念では決して指し示すことが出来ないのである。




禅は何よりこうした論理的矛盾の世界を真正面から捉えていく世界観を形作って居る。


ゆえに禅こそは観念ー精神ーに於ける最終的な格闘の立場です。





矢張り禅は素晴らしいですね。

わたくしは最近オンデマンドの方で永平寺の修行僧の修行の内容をまとめた番組を視る機会がありましたが流石に心が引き締まる思いでもって其れを視て居りました。




其れと禅というのは一種清潔ですね。

潔癖と云うか何と云うか兎に角精神性の高さから齎される精神の美しさが何より体現されて居る感じが致します。



そうは云えわたくしの部屋は今グチャグチャでいかにも汚いですね。

ひどく神経質な癖に母親の血の影響なのか余り掃除をしないので流石にこれではヤバい。

二十歳位まで自分の部屋を病的なまでに掃除して居たのでしたが今思えば此の時は完全に病気でした。

兎に角滅茶苦茶に綺麗な部屋に住んで居りましたがどうも人間味の全く無い恐いような部屋だったように覚えて居ます。



壁なども皆真っ白に塗って仕舞って。



然し今は時間が無いので掃除することが出来ない。





言うまでもなく禅宗では掃除こそが修行であり食事をすることなども修行としての一環です。

即ち禅宗は其の意味で実践的な仏教なのだと思われます。




尚禅定を組むというのは、実はわたくしの場合ほとんどしないのであります。


わたくしの場合は普通に生きて居るだけでいつも哲学をして居るのでしょうから、其処であえて禅定という形をとらずとも常に瞑想して居るような状態にあり従って其れが周りの人々には理解されず其処でむしろ変な人だと思われて居ることが多いようです。




ただしこの五月には山の中で是非禅定を組んで来るつもりです。

是非一晩位はやろうと思って居りましたが、真っ暗な山の中ではどうしてもお化けや野生動物の類が怖いので其れはとても無理なことだと思われます。


棚山の大きな松脂岩ー船程もあるーの上で必ずやもの凄い禅定を組んで参ります。