目覚めよ!

文明批判と心の探求と

幸せの黄色い小鳥を探して




教師は教師らしく行動し淫行を行うことをもう止めよう。


たまりにたまった日頃のストレスから身を護る為には1.飲酒及び喫煙2.観念的飛躍3.ゴルフなどに於ける放蕩でこそ身を護るべきだ。


ただし飲酒は本当は余りおススメすることが出来ない。


然し淫行を行うことよりはまだマシである。



観念的飛躍とは精神的領域の探求のことであり、教師たる者は元々そちらの方面も得意な者も多いゆえそちらの方を主に追及し其処で現実を忘れ憂さを晴らすというただそれだけのことなのである。


たとへば中世のことなど研究してもよろしいのであるし、或は共産党一党独裁につきトコトン勉強してみるのもよかろう。


または絵画、文學、宗教など、学ぶべきことは山程あり従ってそちらの方さえ向けば淫行に興じて居る暇などはどこにも無いのである。



兎に角下の方のことは教師にとって多大なリスクを負うことであることをしかと認識し、しかも軽はずみなひとつの行動が社会、家族、親戚、生徒さん方に多大なるご迷惑をおかけする行為であることを確りと考えておかねばならぬ。


元々観念化の比率の高い教師は下の方の欲の抜き方が不器用だからこういうことにもなる。


なので適法の範囲で其れを抜いて来ることこそが肝要である。



そしてゴルフをやり精力を其処に注ぎ込む。


すると淫行を行う暇も金もなくなる。


ゴルフに打ち込み全てを忘れ家庭を放棄し同時に犯罪も放棄せよ。


ゴルフ場で死ぬことを常に願い毎日練習場へ通いただ一心不乱に球を打ち続けよ。


さすればもうどこからも淫行を行う気力と体力が出て来なくなろう。



だから昨今の教師はそういうのが出来ないから結局変な領域へと走って仕舞うのだ。



或はマニアになれ。


ガンダムでも城でも万年筆でも仏教でももう何でも良いからマニアになり下ネタから自身を遠ざけるのである。


下ネタつまり男性及び女性に対する性的暴行は法治国家では違法とされて居る為何か代わりのものを見つけ其れに埋没することで其れへの執心を忘れるほかないのだ。







尚淫行をしないわたくしは相変わらず学術上の精神探求の為にポンペイ展へ行ってまいりました。


ポンペイの壁画を観つつ、火山の爆発で滅んだ街ポンペイ、或は羅馬という文明世界のことに思いを馳せて参りました。


ところでポンペイというのはまず滅びのことです。
或はローマ帝国自体が其の滅びなのであります。


其の滅びは美しいかどうかということも観念の上にありましたのですが、其処では滅びは美醜以前に日常のことであったということに気付き愕然としたのでした。


即ち滅びとは日常を壊されることなのです。



羅馬世界が如何に退廃の気風に覆われていったものであるにせよ、細かなところでの庶民の生活はむしろ至極まっとうなものであり素朴なものでもあった訳です。


そうした日常が神の意図=自然の意図によりある日突然に破壊されて仕舞うといった其の不条理への緊迫した精神を其処から汲み取ることが出来ました。


然し其れは何も伊太利亜つまり西洋の文明に限らず日本人ならば誰でも知って居ることなのです。


いや、正確には誰でも知って居たというそういうことです。



厳密には合理主義により浸食された現在の日本人の精神性に其の滅びの美学、或は滅びへのルサンチマンのようなものが息づいて居る訳ではない。


要するに一億総パッパラパーになって居る日本人の精神性にそうした感性の余地は無いと見るべきなのかもしれない。



されど勉強にはなりましょうからポンペイ展など訪れ西欧の文化文明の息吹に直に触れてみることもまた大事なことなのかもしれない。


西欧の文明、特に近代以降の文明の本質は虚ですが、其の虚が如何にして構築されるに至りまた其の途上で如何にして滅んでいったのかということを是非お勉強してみて下さい。



尚、売店の方では高価な図録なども売って居りますが図録は買えば買う程部屋の中を其れに占拠され其の割に十年に一度位しか見なくなりましょうからむしろ買わない方が利口です。


最近わたくしは五枚程絵葉書を買って来ることが多いです。


されど今回は其の買った絵葉書の中にー幸せのー黄色い鳥の壁画のものが入って居なかった。



其れはー小鳥ーと題されたもので花の咲く庭に佇む一羽の黄色い鳥が描かれしものである。


実物を観て、まさしく其の鳥こそがポンペイの鳥であり羅馬帝国の日常を象徴する鳥であるように思えた。


即ち文明の退廃とはかけ離れた羅馬市民の日常でのささやかな安らぎの具現化なのであった。



性の上での倒錯や退廃、飽食と倦怠、そうした諸の背徳の要素を含むにせよ其の現実としての羅馬の生活の姿は確かに人間の温度を保って居た。


其れでわたくしは其の鳥こそが幸せの黄色い鳥なのだとそう感じた。


しかも滅びゆく幸せの黄色い鳥なのである。



其の絵葉書がどうしても欲しくなり、本日わたくしはまた博物館へと走った。


何せ自転車で20分で行けるのでいつでも行けるところなのである。



黄色い鳥の絵葉書は無かったが、ポートレートのようなもので異形のものがあり其れを一枚購った。


其れが今目の前にあるが、矢張りこれはどう見ても幸せの黄色い小鳥である。


しかしながら其れは滅びの小鳥でもある。



翻り考えるに、現代の文明に於ける幸せの小鳥とは一体何なのであろうか。


家電や便利な生活がそれだとは勿論考えられないのである。


かのポンペイにしても、所謂ふしだらな羅馬的退廃や文化文明の驕りがそうだとは到底考えられないのである。


すると結局滅びこそが其の幸福を明確に示すものなのだろうか。



そうではなく、この小鳥こそがあくまで人間の幸福そのものを規定するものなのである。


自然との適切な距離を築き尚且つ自然を受け容れ其の美しさに詠じ入る其の心の余裕こそが人間としての余裕なのである。


逆に言えば其れ以上のものを欲すれば人間或は文明には何も残らないということなのだろう。



ゆえに我は今この一羽の小鳥だけを見つめて居る。


其れはポンペイの壁画に描かれし神々の姿でもなく、神話なのでもない。


其の黄色い鳥が指し示して居る自然と交わったところでのささやかな日常の光景こそが人間の幸せの象徴そのものなのだ。