坂口先生のオモシロ授業 ~自滅する人類編 その 1~
ちなみにその2とその3もまことに面白いですよ。
そう言えば昔、丁度中学一年生の時に数学の名物先生に教えて頂いたことがありましたが其処では教科書には無いようなことを授業で平気に進められる為か其の頃から全く数学が分からなくなって仕舞いました。
其の先生は兎に角変わって居たので背広の背中の方をチョークで皆に落書きされたりしていたものです。
高校一年の頃にも大学院レヴェルの数学を我々文系クラスの生徒に教える変な先生が居られ今思えばこちらも厄介でした。
わたくしの経験からは理系の先生には理解し難い人が屡居られたので今でも何だか理系の先生が怖い部分さえあります。
尤も文系は文系でどこかおかしい先生も屡居られることとは思われるので理系が悪いと言って居るのでは元よりありませんのですが。
然し理系の先生の結論の出され方は矢張り凄いと思います。
この坂口先生のお考えなどもまさに凄いものです。
此の本はまだ一度読んだきりでー余りに凄い本なのでかなかなか読み返せないー内容もうろ覚えなのですが是非部分的に参考にさせて頂きわたくし自身の考えを以下に纏めてみます。
まず環境破壊や環境汚染について、わたくしのような文系人間と理系の人との其の捉え方はかなりに違うと申さねばなりません。
或は絶滅などに対する捉え方も可成に異なって居ることでしょう。
理系の方々は矢張り此の点については随分割り切った考え方をして居られるようです。
つまるところ、環境破壊や環境汚染はすでに太古から繰り返されて来て居る地球の歴史であり絶滅もまたそうした当たり前の生物の歴史そのものであるという捉え方がまず存して居ります。
文系思考は其れが言葉への愛なのか歴史への執着なのか文明への信心なのか、兎に角人間中心主義みたいなものが根っこにありましょうから醒めた目で人類を見つめら切れないところがありますが理系はそうしたゴタゴタでドロドロの部分をスッパリ切り離して冷静かつ客観的に人類を見つめて行くことが出来るのでもうどんなことでも言えて仕舞うのです。
だから其れは事実滅亡するのだから滅亡すると言って居るまでのことなのです。
決して根拠が無くそう言って居るのでは無く論理的帰結として滅亡せざるを得ない為にそう言って居るに過ぎないのであります。
逆に言うと文系ではたとへば文學的宗教的に世は滅ぶとか、或は女にフラれて目の前が真っ暗闇なので同じように世も滅ぶだとか、そうした主観的な世界解釈が必然として組み込まれて仕舞う訳ですが其の部分の曖昧さを心配することなくドーンと客観視された事実としての未来が結論として出て来るところが実に分かり易い。
そして究極的に言えばもはや人間は文學つまりフィクションとしての現在及び未来を生きていくことしか出来ないのです。
何故ならノンフィクションとしての現在及び未来はすでに閉ざされて居るからなのです。
要するに幻想を生きていく他はないのです。
真実と云うか事実をもし生きれば、途端に絶望の淵に突き落とされつつ歩まざるを得なくなるのです。
だから人間はもはや一刻も眞の領域を生きられないのです。
要するにどんなものでも良いから眞以外のもの、即ち本当の本当はどうでも良いような無価値なものを価値化してこそむしろようやく生きていくことが可能となる。
文明が其の無価値であり進歩が其の無価値であり資本主義が其の無価値であり国家がそして家族がさらにパートナーが皆其の無価値です。
そうした本質的には無価値なものを価値化して生きるということこそが人間の生そのものであり嘘であり虚でもある自己矛盾過程そのもののことです。
釈迦はかってそういうのはいけないと悟られ本質的価値を形作る為の生き方を法として示されたのです。
然しそういうのは其れこそ本当の本当のものである価値のことですね。
でも理系の価値というのはそういうのとはまた切り離された客観的価値のことです。
其の客観的価値が然し今破壊されかかって居る訳です。
其れで、其の客観的価値が須らく破壊されて仕舞うとどうなるのかということを論じた本が此の坂口先生の著作なのだろうとわたくしは理解して来て居ります。
其処から導き出される結論は最終的に人間をどうこうする訳でもないと思われるのですが結果的に人間を取り巻く環境世界は破壊し尽くされるということにあくまで客観的にはそうなるのです。
其れで環境が破壊されると人間は一体どうなるのかということですが其れはもう当然のことながら滅んで仕舞いましょうね。
人間は環境から食物を頂くつまり環境に依存して生を維持して居るのですから、其の環境自体がブチ壊れればおそらく何年も持たずに絶滅して仕舞うことでしょう。
つまるところ、人間はあの植物のように光エネルギーによる自己再生を行うことが出来ないのです。
でも植物だとしても、必要物としての炭酸ガスが無くなると光エネルギーによる自己再生を行うことが出来ないのです。
つまるところ生命とは自己以外の何かに依存して自己の容認ー自己複製=自己再生ーを行うものでしかあり得ないのです。
其れは神仏の自己矛盾過程であり、かつ精神即ち理性の自己矛盾過程であり、尚且つ限定であり虚であり嘘であるところの生命は謂わばそうして変なことをして居ないと生きられないのです。
対してそうした変なことをせずに在らしめることが出来るのは神仏だけです。
さて、其の植物ですが、これ等は死した後に積もり積もって化石燃料となり謂わば人間にとっての要物として蓄えられて来たのでした。
其れを掘り出して焚けば大きなエネルギーが得られた為我々はそうして300年にも亘り其れを焚き近代文明を継続させて参りました。
然し其れを行えば不要物で空が充たされるということに何故我々は気付けなかったのでしょうか。
まあ其処には何らかの根源的なエゴの追求、欲望の追求に於ける落とし穴みたいなものが用意されて居たと言うべきでしょう。
尚此の要物、不要物といった二元的対立は生きて居る限り避けられないものでもあるのですから、其の二元的構造の中に好んで住して居ればやがては何か大きな災厄に見舞われて仕舞うという訳です。
だから欲望の追求というのは、畢竟其れは二元的対立の拡大のことを意味します。
対して法の諭すように、二元的対立を消失せしめる生き方こそが本質として災厄を回避するということです。
ところが近代は欲望の自己増殖回路、または自己矛盾的な理性的展開の中で其の二元的対立を極限にまで拡げていって仕舞いました。
極限までいって仕舞ったものはもはや元へ戻らないということとなりましょう。
ゆえに其れでもってして破壊される。
大矛盾にこそしてやられるということです。
すると其のとばっちりを食って植物までやられて仕舞う可能性は大いにあります。
動物ばかりか、植物まで全てやられ地球は死の惑星となる可能性すらあります。
ところが、そうして地球が滅んでも再生していく可能性がないではない筈です。
勿論人間は、そして人間型の文明はおそらくは全滅することでしょう。
でも、最初に述べましたように地球の歴史とは破壊の歴史であり汚染の歴史でもあった訳です。
即ち良く云われるが如くに、酸素とは元々猛毒であり生命にとっての不要物とも考えられるものらしい。
其れが逆転して要物となって居るということは、生命のレヴェルに於いてはそうした逆転が屡起こり得るものであるらしい。
ゆえに今世紀の末に地球上の生態系が破壊されるにせよ其れが即地球の死に繋がるものであるかどうかは分からない訳です。
また精神の歴史の上で言えば、地球が滅んでもまず我々は此の生という牢獄から脱け出すことはかなわないことでしょう。
ということは我我はまた他の惑星で生まれ同じように欲望中心の生活を行いかつ其処で不要物に苛まれやがては滅亡していくことでしょう。
ですので生とは其の様に自己矛盾的な苦の集積であり無明の顕現であるところでの矛盾のことなのです。
なので基本的に生は厭離されていてしかるべきなのですが、其れでも尚我々の心が低級なところにあるが為につい其の苦の集積の世界へわざわざ生まれ直して来て仕舞うのです。
ちなみに一か月程前にさる密教系の修行者の方とメールでお話ししたことがあったのですが、其の折に其の方が強調されて居られたのが我々の心の持ち方に於ける矛盾ということについてでした。
つまり、生きるということ自体が苦なのですからそもそも苦を志向してはならない筈なのですが我々は其の苦であることを逆に楽と見て居る訳ですので其処でまた生きたいと強く願い生の上での諸の感覚的な満足や性的な満足、其の他あらゆる世俗的な欲望の成就を乞い願って仕舞うといった訳です。
だから其の心自体が矛盾なのです。
此の世で得られる感覚上精神上の満足の全てが実は虚であり嘘のことであり本質として其れは矛盾なのです。
なので我々は今という矛盾を生きて居るのだということとなりましょう。
常に或は永遠に、未来永劫に亘り其の事を繰り返していくということなのです。
ですので地球が其の我我の欲望の肥大化で壊れたとするならば其の後の我我も其の事に応じたより大きな苦を受けつつずっと存在していかねばならないということなのです。
そして仕舞いには地球が生命に適さない星となったのだとしても、まさに我我は他の星に転生され其処で同じように地獄乃至は餓鬼,、畜生道に墜ちた世界をずっと生きていかねばならないということなのです。
だから破壊とは、我我自身のことなのです。
また矛盾とは、生命自身のことです。
しかも其処で最大の矛盾を生きるものこそが我我人間なのだとも申せましょう。