性が制御し難いものであることは明らかで、何故かと言うに其れは生そのもののことだからなのである。
性=生なので、性を否定することは即生の否定に繋がり、生きて在る限り誰しも生きて居たいのに決まって居り誰もわざわざ生きて居たくはないなどとは思って居ない。
勿論根源的にそうだということなのである。
たとへば金が無く病気なので死にたいとかそういうのとは訳が違うのである。
生きるものはただ生きて居たいとそう思うばかりだということである。
ところがそういうのこそが煩悩であり無明であると仏教は諭す。
と言うよりも其処に過分な欲望を持ち続けることを禁じるのである。
ただし仏教は初期の純粋な釈迦自身の教説からは離れがちだと来て居る。
時間が経ち時代が移り変わるので其れが様々に意訳され訳の分からない様相を呈して来て居るのである。
だから仏教自体にー特に大乗仏教自体にーけじめのようなものが元々欠けて居る。
然しこのけじめということこそが大事だ。
資本主義の爛熟と何でもありの合理的な近代主義はこのけじめの無さをこそ生んだ。
神が死に絶え性がそして生が極限にまで肯定されるある意味でかたわの世界を生み出しつつあるのである。
現代の文明世界を通底する悪趣とはまさにこのけじめの無さなのである。
所謂ふしだらさであり、非純粋性であり、馬鹿であり、低次元さであるところの其のけじめの無さ。
では性即ち生きて居ることは否定されるべきことなのであろうか。
いや、生きて居ること自体は誰も否定など出来やしないのである。
尤も即身仏というものがあり、是などは其の生の否定そのものかとも一見思われるのだが、其れも勉強してみなければ其の真意は明らかにならず単なる否定にはとどまらないものである可能性もまたある。
然し、ひとつだけ言えることは真理の世界とはカンタンつまりタンジュンではないということなのである。
勿論私たちにとってカンタンなのは生きることである。
そして女の尻を追い続けることである。
女の尻を追い続けるからこそ家族が生まれ郷土がそして国家が形成され文明が存続していく訳である。
なので女の尻を追い続けることこそが人類の繁栄を齎す訳だからそんなものを否定など出来る筈がない。
ところがそのままに其れを続けていくとやがて過分な欲の追求の方向へと舵が切られていくことが往々にしてある。
そしてそうした過分な欲の追求が文明をしてソドム化、ローマ化し滅びへと連なる大悪趣の世界を造り上げていくのである。
タガが外れた欲望はそんな美しくはない世界、死の世界、退廃と悪徳に彩られし地獄の様を必ずや現出せしめるのである。
ところが当の本人達は元より感度が低いのでそんなことになるとはまるで思ったりしていないのである。
所謂衆愚的に大衆というものは愚かで感度が低い。
なのでタガが外れた状態で女の尻を追いかけ続けて居るとやがて文明は滅びる。
神仏の罰が其処に下り文明自身が殺されて仕舞うのだよ。
性の肯定即ち生の肯定は、元より上品なものではない。
上品なのはむしろ性の否定ならびに生の否定に傾きしものの方だろう。
そして其れを理性と呼ぶことさえ出来よう。
何故なら本能は死を怖がるからなのである。
まるで火を怖がるように、死と死に付随するあらゆる要素を排斥しようとする。
つまるところ、理性的であるものは本能とは反対のものである死の領域までをも見据えていくことが出来る。
何?現代が理性的かって?
いえいえ、この自然科学が拵えし文明世界が理性的なものである筈などがない。
だから原始的退行だ、理性の原始的退行が引き起こされて居る。
其の原理により科学的なものの先でむしろ本能=煩悩が強化されていく訳である。
なので理性的である筈の教師が野獣と化し、やれ人権だ、平等だと叫ばれる割に女性という女性の性の部分が汚されていくのである。
嗚呼、いやらしい。
もうこんな盗撮でAVでもってして淫らな世界など沢山だ。
特にわたくしのやうに清廉潔白な精神の貴族は実際もう我慢がならないので御座います。
ところがそんな我も結局はAV化する。
なんとなれば我もまた性つまり生に深く捉えられし囚人である。
つまるところ現状では理性による性の統御、つまりは生の統御が行われて居ない。
何故そうなるのかと言えば、合理主義が欲望を無限に解放していくからなのである。
そうすればする程に、生つまり性は乱れ自己矛盾化していく。
性を合理化するようでいて実際には其の性を快楽の道具となして仕舞うのである。
君等、文明よ、現状をしかと見よ。
この惨状をどう釈明するというのか。
このやうにふしだらな性の営みを是認すれば神仏の怒りにて女といふ女の体が破壊され人類は滅ぶ。
このやうにふしだらな性の合理化を推進すれば性病の蔓延により人類は滅ぶ。
さて元より理性とは歯止めである。
では何故人間にだけ理性が必要なのか?
何故なら人間には元々歯止めが無かったからなのである。
所謂自然状態では其の歯止めが効かない。-啓蒙思想ー
然し高度に社会化されない人間には理性の強い働きは必要ではなかった。
都市化されし文明に於いて初めて理性の強い働きが必要とされるようになったのだ。
なので近代以降、文明は理性の従僕となった。
然し其の理性もまた自己矛盾化せざるを得ない。
だが、本領としての理性が試されて居るのもまさに今この時なのだ。
理性は死を客体視し、其ればかりか生を客体視し、同時に性を客体化することさえ可能なのだ。
しかしながら現状では要するに理性が、其の理性が自己矛盾化して仕舞う程に不純である。
不純な理性こそが教師の性的堕落を齎し、不純な理性こそが聖職者の性的堕落を齎し、不純な理性こそが生を楽園化し性をAV化するに及んだのである。
不純な理性即ち合理主義が、生の客体視を妨げ、同時に性の客体化を妨げ、かつ死の客体視を妨げて居るのである。
先にも述べたように、健全な生とは否定と肯定の融合体のようなものだ。
また健全な性の営みとはまた然りなのである。
健全とは統御するということである。
統御無きところに健全は無い。
謂わば二元的対立そのものが健全な生の上での推進力なのである。
二元的対立を統御するものこそが理性である。
理性は考える。
考えないと文明は成らないので考えざるを得ないのである。
考えない理性は楽で、考える理性は常に苦しい。
では悟りに達する為には其の理性を捨て去った方が良いことであろう。
其れは其の通りなのだが、文明は悟りへの道ではなく虚の構築であるに過ぎない。
虚の構築を如何にして理性的に成し遂げるかというそうしたことなのである。
理性の自己矛盾化をあくまで理性的に解決していかざるを得ないのである。
資本主義に於ける諸矛盾、性の合理化、地球環境の破壊、未来への絶望感、こうしたものの根底に横たわるのは全て理性の自己矛盾領域である。
ゆえに今理性自身をどう統御していくかという最大の難問が人類に突き付けられて居る。
言うまでも無く理性は自然界に於いては顕現しない。
自然界に於ける理性は冥落しゆえに彼等はより本能的に生きられ考えなくても済むので楽である。
ー全く考えていないという訳ではなく其の思考のレヴェルが低いということー
ところが人間は日々こうして考えていかざるを得ない。
其れも文明を継続する為には考えていかざるを得ないのである。
理性により性に対し生に対し否定を齎すことさえもが可能だ。
其れは自然界では決して成し得ないことなのである。
ところが我々には其れが可能だ。
否定即ち批判することが可能なのである。
自己に対して、そして本能に対しての批判が可能である。
矢張り其れは一種の高等なまたは特別な能力なのであろう。
ただし其れは神仏の能力の分解であるに過ぎない。
だから己が何か高等なものであるなどと過信していてはならない。
逆に自然界よりも低級なので是非理性による統御が必要とされるのであろう。
そしてこの理性の働きこそが人間としての本質を規定している。
即ち人間は考える葦であり、考えない葦では無いのである。
考えるからこそ、上品になれる。
だからわたくしなんぞは至極上品なのである。
もう生まれつきそうなので困って仕舞うのだが兎に角どうしようもなく貴族でね、精神の上での。
逆に盗撮などで逮捕される奴は矢張り最終的には考えて居ないのだし理性的でもない。
理性は冷たいのでもう金輪際女の尻を追い続けたりはしない。
理性は元々冷たいものだ、だから理性の大元である神仏も元々冷たい。
理性とは自省であり自制であるところでの批判のことである。
性を或は生自体を批判し得る能力のことである。
この虚の構築としての人間の生の領域を形作るもののことだ。
従って理性的であろうと欲するならばまず疑うことだ。
近代主義としての常識が性に於ける快楽を是認するとしてもだ、本当に頭の良い人つまりは理性的な人、世界を全体的に俯瞰し得る人などはそんなソドム的な快楽には背を向け無関心だ。
つまりバカだけがこの性の罠に引っかかり性地獄へと堕ちるのである。
だが我は墜ちてない。
ソドムが嫌いだからそもそもお前等みたいな低級な奴等とは違う。
こうして理性は自己を神格化して仕舞う癖はあるが少なくとも性地獄へ墜ちることからは免れ得る。
もはやどうやっても地獄へは墜ちない我ながらひとつだけ墜ちて居るのが観念地獄だ。
でも其れで本望だ、同じ地獄でも声聞、縁覚の墜ちる地獄はまだしも高級だ。
其の高級百貨店としての観念地獄に堕ち色んな作家や詩人、画家や宗教家が救われないでいるがそんなものは全く結構だ。
この最低の世の中と刺し違える覚悟で其処に墜ちるのであるからして全て想定内である。