現代社会での様々な矛盾は、結局欲望の制御の不均衡、個々の人間の個別的意志の低級さにより齎されて居るものである。
即ち欲望の持ち方が低級である。
そして逆に高級とは其の低級な欲望を積み重ねより大きく此の世で開花させることを否定する者のことを云うのである。
即ち蜘蛛の糸が垂れて居るとつい其れにしがみつこうとする其の人間の心根こそが低級であり馬鹿である。
高級な者ほど求めないのであり、そして常に悩んで居る。
悩む者は理性を生きて居るのであり、悩まぬ者は本能をこそ生きて居よう。
たとえば資本主義というのは、これはもう本能の権化そのものなのでありそれも極め付けの強欲者である。
其の資本主義は愈々極大した矛盾を抱えるに至り、其れで多くの企業が国家の経済的な力を超えるに至ったそうであるがならば必然的に弱小国家より一企業の金の力の方が大きいということになろうがこれはもうどう考えてもバランスを欠く社会の仕組みである。
大金持ちが富を独占するに至る資本主義の根本矛盾は今むしろひどくなって来て居り、かのアダムスミスが述べたが如き資本主義への内省の要素など元々其処には求め得なかったのだと申すほかは無い。
そしてそうした矛盾の根底にあるものとは畢竟人間の心の底に潜む欲望の業火の問題なのである。
従って社会を治すには、これはもう欲望の制御即ち宗教の次元での人間理解につき考えていくしかない。
メラメラと燃える其の欲望の火は、尽きることがなくだから何処へ行ってもそのままに燃え続ける。
たとえ今度はコリン星かどこかに生まれ変わるのだとしても人として生まれし者は同じことを繰り返すばかりなのだ。
ところで今、魚の値段の高騰が続いて居るそうである。
特に養殖魚の値段の高騰が著しいものらしい。
世界中で魚が食べられるようになった為、結局は値上がりするのである。
サンマを焼いて食うのは此処日本国では当たり前の庶民の生活の一場面であった筈だがそのうちにサンマは一尾一万円位になりもはや庶民の口には入らなくなる可能性すらある。
尚わたくしは野菜が好きな人間で、其れも生まれつきにそうなので肉や魚などほとんど食わなかったのだが今は違う。
このバカバカしい欲望世界を生き抜く為に其の高貴な性質を捻じ曲げられて仕舞ったからなのだ。
最近はブリが好きで特にブリ寿司に嵌って居るのだが其れを食べるのは何と年に一回である。
普通の寿司はサポーレという高級スーパーに売って居るものを千円~千五百円で買って来るが是が安くて旨い。
人類が魚を普通に食えるのはあと五十年位かとも思えるが兎に角それまでに是非食っておくべきである。
欲望の檻の中で人類は自滅することが必至なのであるから今のうちに兎に角食い尽しておけということである。
未来を考えない限りは。
逆に子孫のある方、そうした方々はなるべく自分は食べないで子孫に食料を残しておくべきである。
まあいますぐにどうこうなるという訳でもないのだが人類の未来は必然的に暗くなぜそうなるのかと言えば結局欲望を統御出来ないからなのである。
それもこうした諸の細かな欲が積み重なり全体として統御出来なくなるという訳だ。
つまるところ破滅は我我自身が準備して居るのである。
たとえばかの全体主義を生み出したのは所謂常識に従った単なる俗情である。
其の俗情が積み重なり、様々な問題を引き起こした。
然し今、所謂常識に従った単なる俗情が未来の破壊を準備して居る。
豊かであること、自由であること、平等であること、人間には人権があり其れは常に守られなければならないことが逆に人間の未来を根こそぎ奪うのである。
誰もが心地良いものには疑問をさしはさまない。
然し、其の心地良きものこそが本当の破壊者なのだ。
ゆえに心地良きものに全的に委任してはならない。
耳に痛いことを言う者、嫌らしいことを云う者、また其の考えをこそ尊ばなくてはならぬ。
然し余り哲學ばかりしているのもどうかとは思うのでたまにはブリ寿司でも食って息抜きをすることだけは許されて居よう。
されど欲望の統御とは、観念の統御である。
肉体的欲望を観念的に抑えることは出来得る。
観念とは精神としての虚構の過程で、肉体とは物質としての虚構の過程である。
この物質と精神の関わり方の問題が、結局人類の数千年の歴史に於いて解決に至らなかった二元的対立の問題なのである。
即ち食うということ、或はSEXすることを自然はほぼ野放しでひとつの完結した系として仕立て上げて来て居た。
ところが人間に進化ー退化?-した自然は其の完結した楽園を追われることとなって仕舞った。
元より完結した楽園には神など居ない。
また仏すら其処には居ない。
何故なら自身が神であり仏でもあるからなのだ。
こうして人間は神仏と切り離された自己矛盾の過程を歩まざるを得なくなった。
然し勿論そのままでは歩めないので自分たちの神仏を発明し其れに帰依することで何とか精神の平穏を保って来たのである。
精神は其の虚としての神仏と連なる限りに於いては常に抑制され謙虚であり続けることが出来た。
即ち其れは其れこそがひとつの精神による完結系でもあった。
自然という本能に統御されし完結系と等しい意志を結果的に持ち得る完結系である。
しかしながら、近代は其の完結した意志を放棄するに及んだ。
其処で謂わば虚の為の虚、虚の為の現在の満足を掲げあえて不安定な世界へ飛び込んで行ったのである。
言うまでもなく不安定とは、破壊のことである。
破壊こそが、近代的な幸福を形作る。
つまるところ、君等、人間よ、アナタ方が求める幸福こそが破壊に繋がり最終的に其れは未来をも破壊するに至るのだ。
という基本構造にてもはや我我の未来の本質的破壊は免れない。
ではあるのだが「それでもなお理性の力を信じたい」という部分が何処かにあって、其れでこんな面倒臭い作業をあえて自らに課して来て居るのである。
ただし、其の理性とは合理主義のことではない。
理性というものには、本来ならば全体性というものがある。
わたくしが希求してやまぬ理性による統御とはもっと大きな理性によるもののことである。
たとえばブリ寿司に使う其のブリに魚粉ではなく獣粉を混ぜ養殖すると肉っぽいブリとなりコレが案外美味いそうなのである。
或いはブリステーキなどには其の方が良いのやもしれぬ。
だがそんな獣じみたブリを人間が勝手に作って仕舞い其れでよいものなのだろうか。
確かに獣ブリは一度食ってみたいところながら、其れは外人女を一度位抱いてみたいというのと同じような低級な欲望の発露なのではあるまいか。
理性は、其れも大いなる理性は其のブリステーキを、或は淫行を許さないのである。
大いなる理性による統御は、人間に未来を与えるものであり現在を生きる為のものではない。
資本主義に於ける大矛盾もまた然り。
金持ちが百億円を女に注ぎ込んでもそんなものは空しいばかりだ。
ところが千円位しか女に注ぎ込めないというのもこれまた空しいというか悲惨だ。
でも千円をブリ寿司に注ぎ込むか、それとも女に注ぎ込むかで今少し悩んで仕舞ったわたくしのことを金輪際君は笑えないのだぞ。
だから君の其の近代に対する過剰な期待が、其の安楽と便利と自己保全に関するあらゆる欲の巣窟がつまり俗情が、其の欲望こそがこうして此の大矛盾の世を駆動させる元凶でありかつ根本の破壊衝動なのだ。
即ち破壊とは欲望である。
欲望とは俗情である。
ゆえに皆もっと理性を信じるべきだ。
理性が無いから、其れがそも壊れて居るから東大や慶応大で問題が起き教師が淫行魔となり障害者が虐殺されるのだ。
確かに金持ちにはなりたい。
最低一億円は欲しい。
一億円あれば楽にはなれる。
でも楽になるとこんな詩人で居られなくなりそうだ。
万年筆やスーパーカーを買いまくり或は女を漁りまくり早死にして仕舞うような気がしないでもない。
対して今で良いかと言えばとても良いとは言えないのだが人類は皆そうした幻想の申し子である。
即ち幻想に捉われし馬鹿なので生きて居る。
ゆえに生に高級なものなど何一つとしてない。
其れを高級なものとして何かを祀り上げて仕舞うからこそおかしくなる。
高級なものとは、神仏以外にはない。
君もわたくしも全然高級品ではなくタダの星屑である。
星屑とはまたお上品な表現だ!
いや、この手の表現が実は得意なのですが最近近代が壊れかかっている為か世知辛くこんな美しい表現が出来なくて困って居りました。
地獄は星屑の戸を蹴破りやがてなだれ込んで来る。
こんな欲望の地獄はあるのだ。
其れは夢幻ではない。
そしてあらゆる俗情を懲らしめる為には神仏の門を敲くほかはない。
西洋の精神は生の方法をまさぐって来た。
他方で東洋の精神は生の意味を問うて来た。
観念即ち理性を統御するのは、生の意味の方である。
統御なき理性は自然への反逆に繋がる。
統御なき理性は人間自身を破壊する。
統御なき理性は空しい。
酒も女もそしてあらゆる贅沢が空しいように其れは空しい。
真の解放が観念には無い。
されど虚の解放だけは観念に許されて居る。
破壊から離れ未来を築くのは理性の力のみである。