目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

倒錯の性解釈こそが人類を破滅させる


何度も述べさせて頂いて居りますが、男性と女性は元来全く違うものであることこそが事実です。

そして男女にはそれぞれに役割というものが御座います。



其の役割とはまさに神仏が我々人間の役割として定められて居るものです。

ゆえに其の役割を無視するやうな愚かな行為をしていること自体が現代社会が罪深い社会であることの証左なのであります。

たとへばキリスト教でもイスラム教でも或は仏教でも、男と女は同じー全くに平等ーでどちらに固定された役割がある訳では無い、などとは全く言っては居りませぬ。

宗教では概ね男女の性差による役割の分担というものを確りと認めて居るので御座います。



それも其の筈で、伝統的な世界宗教ともなれば皆大昔に成立したものばかりですから、それこそ男女の役割分担などといった低いレヴェルでの話ではなくズバリ言って男尊女卑の世界観であることが事実です。

尚この男尊女卑の世界観ですが、個人的にはこれこそが人間の社会を長持ちさせる考えではないかとそう思うので御座います。




何故なら女はバカだからなのです。

無論のことバカなので子が産めます。

しかもたとえ知性がある女でも馬鹿だということです。



そしてバカなので生きられるのです。

ただし、中には生をそして性を心の底から悩むことの出来る立派な女性も極少数ながら存在して居ります。



でも基本はあくまでバカなので、かって釈尊は説法の対象としての女を考えて居られませんでした。

確かに女人成仏とかそうした男女平等的な要素が仏教にも其の後は生じましょうがあくまで当初の仏教に女性を排斥する要素が多くあったこともまた確かなのであります。

さらにキリスト教に於いても女性は真理探究などといった精神的な要素を其処に求められて居た訳ではなかった。

それどころかイエスは実の母ちゃんであるマリアさんのことを実に醒めた目で見つめコレはタダの女であるなどとも考えていたようです。




さらに釈尊の女嫌いも相当なものでしょうね。

何しろ妻をそして子を捨てて出家なされたのですから、そして其の後はもう二度と女には触りたくなかったんですね。

なんとなれば女に触ると自己保存欲がムラムラとわき起こり此の世の馬鹿さ加減と確り結合して仕舞うことが必定です。

実際に女と結合すると子が生まれ其れが自己保存の具体化となり、其のゆえにむしろ永遠に真理の世界と決別して仕舞う訳です。



ですので女というのは此の悪趣の世界との結合ということの象徴でもまたあるのですね。

で、仏教でもキリスト教でも此の悪い世の中へ子孫を残すということはひとつの犯罪行為であるということと基本的にはなりましょう。

あくまで本質的には。



ですので僧侶や神父は基本的にSEXをしないのであります。

いや、別にSEXはしても良いのであろうが、子孫を残してはいけないのです。

もっとも宗派によっては其れを禁じて居ない場合もあり、かつ子孫を残したにせよ其の子が神を信じて居たり仏に帰依しているのであれば良いとも考えられますがあくまで本質はそうです。



もっとも今のバカ寺の若き僧侶などは恋人に婚約指輪を贈る為に寺の宝である何かを売ろうとしてあの鑑定団に出て来たりもして居る位ですから其処は仏教も随分俗化されて居り僧侶が結婚してはいけないなんて捉えられて居ないのが実情です。


特に日本の仏教はまさに何でもありの似非仏教ですから、SEXは絶対にしてはいけないなんていう仏教徒としての基本的な戒律を守って居る坊さんなどまず居りません。

だから仏教というのは釈尊が説いた原始仏教こそが本物であり中国や日本に伝わった大乗仏教は事実としてかなりに不純化したものになって仕舞って居ります。




其れで、わたくしが何が言いたいのかと云えば、先に女はバカだとまさしくひどいことを言いましたが、其れは体の仕組みのことを指してそういったのであり女には知性は無いとそう言ったのでは御座いません。

つまるところバカ正直に此の世に命を産み落としやがる、とそう申して居るだけなので御座います。

其れを喜々として行うところがバカ正直である、とそう申して居るだけなので御座います。



第一見ての通りに女は真面目でしょう。

何に対してかと言えば生きるということに対して真面目ですね。

兎に角生きるということの諸に対しての真面目ですね。


ただ其の代わりに生きないということに関しては不真面目です。

心と体が其の様に元々規定されて居るということです。



ところが男は生きることに対して一種不真面目でしょう。

たとへば人生の不可解さに悩み疲れて華厳の滝から飛び降りたり、或はかの三島先生のやうに割腹自決をなさったりでもう本当に其れでは一体何の為の人生なのやら分からないようなところさえあります。


然し、そうした精神的な行為というものは逆にある意味で生に対して至極生真面目なのではないでしょうか。

つまり精神的に死ぬことが可能なのが男性なのでありましょう。

其の不真面目な生真面目、の部分が女性には元来欠けたところなのであります。



逆に言えば男性には本能的に生きるのに生真面目な部分が元来欠けて居るのでしょう。

だから男性は屡観念的に苦しみます。

そうなる比率が高いということでしょうか。



そんな訳で女性は元来生命として安定して居ます。

なんとなれば其の観念さえもが肉体即ち生きるという行為の中に含まれて居るー埋没して居るーのでありましょうから。



なので男女は本質的に全く違うものです。

其れを同じだなどと考える近代の思想はまさに誤りであることだろう倒錯の思想です。




だから其れがもし同じだというのなら、女性でもドンドン華厳の滝から真っ逆さまに落ちておしまい、また女性でもドンドン自衛隊へ突っ込み割腹自決をしてみるべきである。

同じだというのなら、割腹も戦闘も全部同じにやってみてみろや。

其れから釈迦やキリスト並に立派な宗教の開祖になってみてみろや。





そして今やフリーセックスというキ○ガイ思想が社会を根本から破壊しようとして来て居ります。

ところが実は現代の不幸を生み出して居る其の根本の悪とはこのフリーセックス思想のことです。




無論のことジェンダーフリーまたはジェンダーレスの思想こそが其のフリーセックス思想に繋がって居ります。

フリーセックスの危険性はわたくしが以前に科学的事実として此処に示した通りです。

男性が様々なところにタネを蒔くのは是は自然の摂理であり危なくも何ともないことでありましょうが、女性が様々な遺伝子に汚されるのは是はもう人類破滅への大きな一歩であると申せましょう。



しかるに近代という時代、乃至は近代という思想は此の破滅へ向かって進むのが兎に角お好きなようです。


其れも好き好んで自ら飛び込んでいくのだと申せましょう。

従って現状とは、この男も女もないジェンダーレスが是とされる現状とは倒錯の一語に尽きるのであります。




   
読売新聞2月20日朝刊の社説は、「日本青少年研究所」が公開した4カ国対象の意識調査において、「女は女らしくすべきだ」を肯定した日本の生徒が少なかった事などにもとづき、「教育界で流行している『ジェンダーフリー』思想の影響を見て取ることができる。」とし、その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している。」と結論づけた[30]



しっかし、女が女らしくしないで一体どうするというのだろうか。

其れも日本人だけがこうも突出して女らしくしないでいいと洗脳されて居るのであれば、これはもう日本人の精神の中身の破壊ということが火を見るよりも明らかである。

ただし、わたくしはありきたりに戦後日本の教育体制として布かれた左派の思想が暴走してこうなって居るのだとは考えて居ない。

そうではなく今や右派までもが近代の倒錯思想にしてやられて仕舞って居るのである。




なので右左の区別なくこのままでは日本人の精神の破壊は避けられない。


尚、SEXというのは、まさに其れは宗教の根本問題なのである。

SEX即ち生殖とは、基本的に悪だと考えた方が神や仏の世界には入っていき易いのが事実である。


対して近代主義が掲げる生自体を否定しない即ち悪だとは考えない思想は当然のことながら神仏を否定する考え方とならざるを得ない。


で、生自体を否定しないから性も自由であり性差も無くまさに何でもあり、なのである。


つまるところそうした考え方こそが人間中心主義に傾いた思想そのものであろう。






此の現在の防衛相ーなんと我と同い年じゃーの言って居られることに全部が全部反対だという訳ではない。


だが、どう考えてもおかしいのではないだろうか。



今やかの東京都知事も、そして防衛大臣も女性なのである。


いや、確かに女性でも有能な人は屡居られる。



然し、女は基本的に腹ー子宮ーで考えるということを矢張り忘れて居てはいけないのではないだろうか。



でもいざ有事にでもなれば、警察や自衛隊といった組織であれば上層の指揮系統の部分に女性は決して据えないだろう筈なのである。


つまり分とでも言うべき役割の分担ということは必ずある。




しかも其れは三千年も、二千年も、千年も前からしかとあったのである。


ところが近代は其の役割の分担を撤廃しようとさえして居る。




だから其れは左翼思想ばかりではなく右翼だろうが何だろうが皆其の倒錯の近代思想の推進者なのである。


もっとも左に比べればまだしも右の方がマシなのであろうが。






ですので兎に角組織のトップに女を据えることは本来ならば望ましいことではない。


なのに兎に角現代社会は組織のトップに女を据えたがる。



それに今何より危惧されるのは、言いたいことの言い放題で例のトランプ氏が自滅し初の女性大統領が米国で誕生しそうなことである。


いざそうなったらもうお終いだよ、といった感じが強くしてならない現在のわたくしである。





そうした倒錯の思想に洗脳されず性差或は男女の体のつくりの違い、役割の違いを事実として認めた上で生の意味を深く考えることこそが大事です。


近代以降、特に戦後の人間はこれらのことに関してもはや出来なくなって来て居るのです。



其れは何故かと云うに、要するに近代主義が生み出した享楽主義に踊らされて居る結果ですな。


かって宗教や文學即ち藝術が悩みに悩んだところでの生の意味を今一度問い直す必要があります。




合理思想は性を物質化しかつ玩具化ー享楽の道具と化すーします。


さらに男女の性差や役割を否定し、其処からの帰結としての女性上位社会を構築しようとしています。



然し事実としての女は、観念的には決して飛べないことだろう子宮思考に縛られて居ります。


だから有事には其の本質が露呈し右往左往するだけに終わって仕舞う可能性なども大いにあり得ます。




ですので其の現代社会の行いがどんなに不合理なこととなって居るのかということです。


合理的に推進することだろう近代主義の履行が、実は極めて不合理な現実を描き出して来て居る。



そしてやがては其の不合理な現実の集積に立ち往生し、まさににっちもさっちもいかなくなり文明は滅びる可能性が高くなることだろう。