目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

目覚めよ!-18



石原慎太郎 地球は滅びるだろう
産経新聞エッセイ[日本よ]より)
http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/717.html


『世界中の氷は溶け続け、NASAのハンセン教授の予測通り北極海の 氷も後十年わずかで消滅するだろう。』

『そして、今まで何度となく引用してきた、私が四十年前東京での講演で聞いた天才宇宙学者ホーキングの予言、「地球のように文明の進んだ 惑星は宿命として自然の循環が狂い、この地球もまた宇宙時間からすれば瞬間的に、地球時間からすればおよそ百年ほどでその生命体は消滅するだろう」という言葉が恐ろしい余韻で思いおこされる。』

『この今、欲望にかまけて実は幼稚化してしまった人類にはまだとてもその能力もなければ発想もありはしない。』以上より抜粋して引用



私は為政者としての石原 慎太郎氏を特に尊敬している訳ではないのだけれど、作家としての石原 慎太郎氏のことはそれなりに尊敬している。

その作家としての石原 慎太郎氏が上記で作家としての本音を述べて居る。

本来作家にとって大事なこととは真実を述べ伝えていくことであろう筈だ。

そのことを虚構の構図をとって行うか、それともエッセイや私小説などの形でよりストレートに出していくかという違いはあるにせよ、なんにしても最終的にはこの世に真実を述べ伝えていくことこそが本来の意味での作家の仕事ということになるのだろう。



またそのことは詩人でも全く同じことだ。

そこはピピピッと来るものが質として散文的であるか韻文的であるかという違いだけなのであって、詩人が世に伝えていかねばならないことも、すなわちこの世に真実を述べ伝えていくことに尽きている。

そしてここ最近は詩人としての私に感じられたことを私は屡ここで述べていた筈である。

それは多分一般には最も伝わりにくいことであったのかもしれない。


なぜなら誰もがそれを正確に感じ取れるというものでもないのだ。

現代に於ける真実の把握には一種の霊感力が必要である。

その霊感力を、明らかに作家としての石原 慎太郎氏は持って居られる。


この文章を読んで私にはそのことがはっきりと分かったのである。


もっとも霊感力などというとますます皆様から敬遠されて仕舞うのかもしれないので受信力とでも言い換えた方が良いのかもしれない。


その受信力を確かに石原 慎太郎氏は持っていた。

作家や詩人の受信力は画家や音楽家の受信力と並んで多分この世で最も優れたものである筈だ。

それも作家や詩人は文章、すなわち言葉でそれが表現出来るのだからより分かり易く表現することが出来よう筈だ。


だから作家や詩人はそうした能力を持った者として最終的には同じ様な結論に至ることが多い。

受信した真実の断片を羅列して自らの本心の部分と照らし合わせてみると結局そのような結論にならざるを得ないのである。


石原慎太郎箴言集 国家論
http://www.sensenfukoku.net/philosophy/nation/


ここからしても石原 慎太郎氏は私とは180度違い国家主義者であるようですが、そうしたイデオロギーの違いとは関係なく作家としての石原 慎太郎氏の時代認識は大体において常に正しいのである。

特に最初に貼り付けたエッセイでの欲望にかまけると実は人間は幼稚化するとい うくだりなどは特に鋭い。

何故ならすでに現代人は限りなく幼稚化して来て居るが、自身にはそのことは微塵も分からないのである。

それはアンテナを失ってしまったか、或はそれが盲目化されているのでもはや見ることも出来ず聞くことも出来ない、といったところなのだろう。


だからこんなことをいつも言っているのは作家か詩人だけなのである。

だがたとえ人には伝わらなくても私はそれを述べ続けなければならないのである。

同時に石原 慎太郎氏も、一方では為政者としての立派な肩書きを持ちながらまた一方ではこんなものまで書いて居られるのである。


だって本来ならば東京都知事ともあろう人がこんな破滅的な結論に至る文をこしらえる筈はないではないか。

たとえば凡庸の知事ならば、輝ける未来の東京、文明力でいやましに栄える東京の明日を皆で作りませう、とか何とか無責任なことを言っておけばそれでその場は済んでいって仕舞う筈だ。

然し、石原 慎太郎氏は東京都知事である前に真実を見つめる作家であった。



私は前々から石原 慎太郎氏のことを好きと嫌いの丁度境界あたりに置いていて、自分でもどちらなのかなかなか決めかねていたのだったがこの一文を読んで石原 慎太郎氏が好きになった。

こんな世の中では嫌なことを言う奴こそがむしろ本当のことを言っている奴だ。

そこで美辞麗句ばかりを連ねて文明力は偉いなどと考えている奴はおそらくは救いがたい阿呆なのである。


しかし、あのホーキング博士が、「地球のように文明の進んだ惑星は宿命として自然の循環が狂い、この地球もまた宇宙時間からすれば瞬間的に、地球時間からすればおよそ百年ほどでその生命体は消滅するだろう。」という予言をしていたとは初耳である。

いや、確か以前にそんなことを読んだこともあったように思うが残念ながらそこはスッカリ忘れて仕舞って居た。


尚、私は地球が滅びるということよりもそこでまず人間が滅びる可能性の方が高くそれは多分百年、二百年後といったそんなに遠くはない未来に起こり得ることであろうことを予感して来ても居る。

が、同時にそこで人間が滅ばないようにするためには一体なにをどうしていけば良いのかということを真摯に求め続けて来ているのだと言っていい。
.                                   2012/09/01(土)



石原慎太郎 無限の宇宙の中で
産経新聞エッセイ[日本よ]より)
http://yaplog.jp/kirinuki/archive/52


三週間くらい前に私は色々と石原 慎太郎氏が書かれた文章を読み、そこに様々な思いを巡らせていたのだった。

それらの文章が正しいことを言っているように思えて仕方がなかった。


-石原都知事が辞職表明 新党結成、衆院選立候補を検討-

そして再び石原 慎太郎氏のことを書こうとしていた矢先に大変なことになって仕舞った。

これは近い将来に石原党が出来るということであり、国政の場で齢八十の爺様が頑張るということでもあるらしい。


その齢八十の爺様があえてしゃしゃり出て頑張らなければならない程に今この国の政局は混迷の度を深めていて、そこには全く何が何やら分からないような日本国としての一種暗澹とした未来図が拡がっているばかりなのである。

そのひとつの理由として挙げられるのが為政者に志のようなものが欠けてすでに久しいということなのである。


国会議員はすでにサラリーマン化しており、それは当初はそうであった筈の名誉職から大きく転落して高額給付を受けるだけのただの一サラ リーマンとなり下がっているのである。

そのサラリーマンにとっては事の本質なんぞ問題では無いわけであり、 また少しでも変なことを言ったりやったりすれば即首になって仕舞うのであるから、兎に角なるべく自らが属する組織に自分を合わせて其処では決して事の本質を問わず自らの志を隠匿しておくほかはないのである。

左様にサラリーマンはその根の部分が馬鹿だからいつかは腐っていって仕舞うことと思われるがまさにそれが今現実に起こりつつあるということにもなる。


いや、現代人は実際にはサラリーマンではない人でもことごとく皆サラ リーマン化している。

現代文明を現に今推進している構成員である我々は全部現代文明という会社の社員でそれには逆らえない立場に追い込まれて来て居る。



石原慎太郎 金より先のものがあるはずなのに
産経新聞エッセイ[日本よ]よ り)
 http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/9121f96cd61ee467ec90da89d91b5ecf


『人間は誰しも目先の厄介に気をとられその収拾に腐心するが、もっと肝心な基本的なことには気づこうとはしない。それは人間の幼稚さと浅ましさの表示でしかない。』

 『我々が気をとられやすい目先の物事の最たるものとはなんといっても金、つまり経済であって、今日の世界的な不況、特にEU経済の混乱には世界中が周章狼狽(ろうばい)のありさまだが、確かに不況は失業や貧困をもたらし、人々の生活を破壊もしようが、異常をきたした気象の方がもっと根源的に人間の存在を脅かし経済をも破壊しかねないはずだ。』

『金、経済という目先の欲望が実は自らの存在を根底的に損なうという宇宙の摂理を私たちはいつ誰のために悟り直すことが出来るのだろうか。』以上より抜粋して引用


ここで石原 慎太郎氏が経済をあくまで目先の物事として捉えられている部分は大変興味深い。
実はこの私も経済の諸問題はすべからく目先の物事としてしか捉えられないのである。

金の力はあくまで人間自身が発明したものであるに過ぎないのである。

そんな自分勝手な発明品になぜ人間自身の生死や存続を委ねるようなことをしているのだろうか。

作家や詩人にとってはまずそのことが大きな疑問として浮かび上がって来るのである。

だから私もここで屡経済のシステムのことを槍玉にあげて来ていたのである。


『その代わりに当節、世界中の人間たちが腐心しているのは目先の金の問題でしかない。しかしその一方で通常化した異常気象は今後もさまざまな水害に加えて大陸型の農業を旱魃(かんばつ)によって破壊し、大きな災害をこの地上にもたらしつづけるに違いない。この地球で今現在、所詮は金の問題でしかない経済の不振について懊悩(おうのう)する人間は多くとも、自らの存在、自らの人生を救うために、氷が溶けて海に流出する水を防ごうとしている人々を私はほとんど知らない。』以上より抜粋して引用


ここで石原 慎太郎氏は文明にとっての本質論を述べておられるのである。

そこが為政者としての顔ではない、作家としての石原 慎太郎氏の素の顔の部分なのである。

作家は利害関係や諸々のしがらみからものを書く訳ではないのである。

そこでほんとうのことをほんとうのことばでもって述べていくのである。

だから作家は常に自由な存在である訳なのだが、同時にそこで事の本質 を常に見つめ続け真実を語らなければならない責務を担っている。


そのことが詩人でも全く同じことだと私は言って来ているのである。
                  2012/10/27(土)






石原慎太郎 異端な存在の意味
産経新聞エッセイ[日本よ]より)
 http://ameblo.jp/katteniooen/entry-11100054250.html
 
 
『既存の規格、既存の慣習に埋没していればことは安易に運ばれよう が、実は損なわれ失われるものも多大なのだ。それを如実に証すものが政治であり行政だ。国家の官僚たちが自負する彼らの美徳、継続性と一貫性なるものが保持されれば時代の変化に対応できる訳がない。戦後の日本を支えてきた者も官僚なら、それを駄目にしたのも継続性に溺れた官僚なのだ。』

『人間というのは本質的に保守的なもので、特に個人の強い自我が形成されてはいないこの国ではルーティン化した行政の被害者たる市民、国民はそのラディカルな変革を望みたがらぬが、しかし来るところまで来れば不満は爆発しよう。』

『異端に近い、しかし強い存在感を持つ人間の主張にある時点で多くの人々が共感を示すのは実は時代の転換の必然性を暗示している。私自身それを体験してきた。戦後擡頭(たいとう)してきた新しい世代の芸術は結果としてそれを忌避しようとした古い世代を凌ぎ、「怒れる若者たち」の新しい情念を代表して定着していった。歴史はそうした事例に充ち満ちている。』以上より抜粋して引用


だから、政治家は今皆サラリーマン化しているのだし官僚の方も元々サラリーマンに過ぎないのであるから政治も行政も皆雁字搦めのサラリーマン共がやっているのである。

ところが作家はそれ自体が異端な存在でありつまりはアウトサイダーということなのである。

そこは詩人でも全く同じことだ。

そのアウトサイダーでなければこんな上での発言のようなことは言えないのである。

サラリーマンでは変なことは何も言えないのである。


サラリーマンでは会社を首になって仕舞うので、そんなことはとても言えない。

首になると女房子供は養えないからとっても恐いんだ。

恐いから、言えない。

本質からは目を背け、真実を語るべき口には厳重に蓋をしておく。


そういうのが現代の庶民のほんとうの姿だ。

現代文明の社員である我々の馬鹿さ加減だ。


作家として元来アウトサイダーである筈の石原 慎太郎氏は老骨に鞭打って国政の場に再登場し、そしてそこで我々に一体どんな素顔を見せて下さるのだろうか。


ちなみに私は石原 慎太郎氏の政策上の決意はどんな状況に追い込まれようと揺らぐことがないと考えて居るのである。


なぜなら石原 慎太郎氏は事の本質を見つめる作家でもあるからなのだ。

金儲けや世間体、あるいは単なる権力欲のために国政の場にしゃしゃり出て行く筈はないのである。

そうした理念のもとに展開されることだろう石原 慎太郎氏の政策上の本質論を我は待望している。


ただし、そもそも作家が政治に携わる必要があるのだろうか?

その部分については疑問ないしは違和感を感じない訳でもないのだ。
           2012/10/27(土)