目覚めよ!

文明批判と心の探求と

詩聖タゴールの詩-2

 
 
詩集 ギタンジャリ(GITANJALI)
ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)
訳:高良とみ 
http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html

 
 
90


死が お前の扉を 叩く時
お前は 何をささげるのか?
おお 私はそのお客の前に
わたしの生命をみたした器を ささげましょう――
決して 空手では かえしません。

わたしの秋の日と 夏の夜の
甘いぶどうのとり入れと
いそがしい生涯の すべての収穫と 落穂とを
その前に 並べてささげましょう。
私の生涯が終って 死がわたしの扉を 叩くとき。


91

おお お前 生の最後の完成 死よ
わたしの死よ わたしに来て 囁いてくれ!
わたしは来る日も 来る日も お前を待ちうけ 見張っていた
お前のために 世の苦しみも 喜びも 堪えて来た。
わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は
いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。
お前の眼からくる 最後の一べつによって
わたしのいのちは お前のものとなるだろう。
花は編まれ 花環は 花婿のために 用意された。
結婚の式がすめば 花嫁は家をあとにし
夜のしじまに ただ一人 花婿に逢うであろう。


ー上記より抜粋して引用ー


これらの詩句を読む限り、タゴールは死を決して忌み嫌うべきものとして捉えて居なかったことだろう。


死が訪れるとき、私の人生の上での収穫と収穫ではなかったもののそのすべてをその前に全部並べて捧げるとも語って居る。


そして何と、死の完成ーそれが即ち生の完成でもあるーのために自分はその死の為の花嫁となるとまで語られて居る。


何という度量の深い生の解釈なのだろうか。


これを読むと、生の成功の側面ばかりを追い求めて生き、そして死にはほとんど興味がなくしかし実際にそれが自らに課せられて来るとまさに怖くて怖くて仕方がないといった典型的な現代人の心理が何とも浅はかで低級で情けないものに見えてきて仕方がない。


死と自ら進んで結婚するのだという、この言葉の持つ重さと広さ、それこそが現代人の心のあり方から失われて仕舞ったところでの正常な人間としての宗教的な心性の発現なのではあるまいか。




わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は

いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。



ということはわたしにとっての生の上での+は最終的に全的な-に向かって全部秘かに流れ込んでいっていたのである。


其の事を知って居る詩人は、死つまり究極のマイナスを形作るのは生のすべての喜びの流れの必然であるゆえ決して厭いはしない、むしろ其れを積極的に完成させるために生きていく、ということだろうと思われる。



いずれにせよこの認識はもはやすでに一般性を超越して仕舞って居り限りなく聖の方に近いものであろうことは疑うべくもないところだ。


人間は心理的に深みのある体験を繰り返すとこのように一般性を離れた認識を獲得することが出来る。


そして其れは誰もが出来ることではないのだ。


死と結婚したいという程に柔軟化されかつ研ぎ澄まされた詩人の内面というものは、人間にとって無限に恐ろしい筈の死の世界をむしろ待ちわびているようでさえある。