目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

限定されし存在の行く末

 
 
其の規定されるということは、限定されし存在である生命にとっては大事なこととなるのである。

先にも述べさせて頂いたように、我々は限定されたものであるからこそ此の世に彷徨い出て来て居るのである。
其の逆に限定されないものは純粋な思念、精神性の極のものとなって即ち完全な観念体、或いは其の観念さえも超えたものとなって此の世界には出て来なくても良いものとなるのだろう。
其処で普遍性と精神の完全性とを獲得し、それこそ宇宙に溶け込んで仕舞うとでも言うのか、或いは老子的に其れを言えばタオの人となるとでも言うのか、兎に角そんな非限定の存在となるのであるから、元より其処には欲望などは何も無く、また感情も無く思念も無く、そうしたものを全て超えていって仕舞って居るので其れを神と呼ぼうが佛と呼ぼうが超人と呼ぼうが其れは自由なのである。

限定されし存在はエゴという領域に繋がれて居り、其処であーでもない、こうでもないと様々にエゴの実現を夢見て居るのであるが、畢竟其れは真理領域からするとすべからく次元の低い話なのであり、ゆえに此の世で生きて居る人間には本当は偉い、偉くないなどという差はなく皆一様に下品で卑しい、エゴに繋がれしドレイのようなものであるに過ぎないのだ。
宗教の中でも格の高い宗教はちゃんと此の事を見抜いて居て、人間はそのままではダメな奴らばかりだと宣うのであるが其の事こそは多分真実なのだろう。
逆に或る特定の人間が偉い、教祖様が一番偉い、などというヒエラルキーを形作って居るような思想や宗教にはロクなものは無いであろうから其処は余程に注意が必要である。

一方釈迦やキリストまたは神は基本的に生きて居ない存在なので、また原始仏教や初期のキリスト教は非常に人間存在に対して厳しく其の精神のあり方を律していくことを常に求めて居るので宗教としては最も信頼出来る教えなのだと考えられる。

さて現代社会が何故こんな袋小路のようなところに入り込んで仕舞ったのか?ということを多くのインテリ層の方々も考えて来られて居ることかとは思いますが、それでもなかなかすっきりとした答えは得られて居ないのではないだろうか。
其処は皆様色々と難しい事をネット上でも述べられて居るようですが、私の場合言いたいことは至極カンタン、其の大問題を齎したものの大きな原因の一つに宗教の役割の形骸化があるのではないかということなのである。

何故なら前回述べたように宗教とは人間の精神を規定する役割を本来担って居たものだったからなのである。
そして無論のこと其れは精神の縛りということでもあった訳なのである。
特に前近代の社会に於いては其の事が顕著に行われて居たのである。

勿論当時の人々はそんな縛りでもって縛られることが大嫌いなのであり、嗚呼、早く神や佛なんか要らない世の中にならんのかなあ、もしそうなったら自由になり何でも出来て楽しいだろうになあ。
食うや食わずでこんな農作業ばっかやらされてるのはもう金輪際嫌だわ、ワシはもっと綺麗な女房も欲しいし異国へも是非行ってみたい。
農作業の下手な出来の悪い息子にも是非学問を与えてやりたい。
学があれば多分こんなことばっかやっとらんでも、ええ生活が出来る筈だろうがね。
などと思って居た筈なのである。

そんなこんなで其の前近代の縛りの世界からの脱出が近代に於ける夢の生活を形作っていったのである。
そう、其れはひとつの夢だったのである、遥かな昔の封建時代から抱いて居た大きなひとつの夢の実現だった。
現在我々に当たり前に付与されて居る人権や平等という意識、そして自由ということがいかに大事なことであるかということが其処で初めて分かる。

だが、其の自由ということや人権、または平等ということは現在の社会に於いて今一度問い直されていかなければならないことでもあることだろう。
そしてつまるところは其れこそが人間とは元々そんなに尊いものだったのだろうかという問いの部分なのでもある。
なぜなら無制限に認めて仕舞う自由や人権、または平等ということは大衆を持ち上げ過ぎるといった難しい問題さえをも含んで居る。

人間は皆偉い、何でも出来る、だから俺の息子も偉い、むしろ学校の教師の方が悪い、それではこれから学校へ出向き教師を土下座させてやることにしよう。

おお、怖い。
教師にならなくてつくづく良かった、のかな?

私たちは常に自由なのだわ、高いレヴェルの教育を受ける権利があり、だから男も女も何もあるもんか、仕事も恋愛もバリバリやるぞー、 旅行もスポーツも何でもやるわよー、男には決して負けず金メダルもノーベル賞もみんなとっちゃうぞー。

まあ其処まで元気だと元々不元気な私などは気後れしてもう何も言えなくなって仕舞いますのです。

然し、当然のことながら前近代の世界観に於いては宗教的な縛り、枷のようなものが効いて居てここまで大衆や女性が元気だったということは無かったのだ。
だからこそ其処で私は考えるのである。
果たして大衆を、或いは女性を解放することは本当に良い世の中をつくることの為に不可欠のことであったのか否かということを。

何故なら人間存在は本質的に縛られて此の世に生まれ出て来て居る存在でもあるからなのである。
そうであるにも関わらず、近代社会は諸の其の縛りを一時的に解いて仕舞った訳なのである。
大衆に主導権を渡し、其れが民主化された進んだ社会として良いものであるように普通は思われて居る。
そして今大衆は自由であり、金さえあればまさしく何でも出来る世の中に生きて居る。

ところが人間存在の本質的な縛りの方は遥か昔からずっと変わることなく人間を縛り続けて来ても居る。
だからそんな自由で何でも出来る世の中、まるでパラダイスー無論金さえあればの話ですがーであるかのような世界の中、其処で個として何かがあり人間に対する本質的な縛りが露呈して来た時に、現代人は其処で底知れぬ恐怖を感じると共に初めて其の真実の闇の世界、本当の生の恐怖を与えられまるで金縛りにあったように身悶えすることさえ出来ず其の永遠の生の負の側面としての深淵と対峙していかなければならないのである。