目覚めよ!

文明批判と心の探求と

宗教とは?


宗教というものは結局人間の精神にとっての節度ということを教えるものなのである。
対する肉体の節度ということは、其れは余り奔放に肉体に関する諸の欲望を解放して仕舞うと病気になったりするということに自然となって仕舞うのであるから、実は元々歯止めがかかって居るものなのである。

ところが人間の精神に関しては歯止めがかかって居なかったのである。
其れに歯止めをかけるものは道徳や倫理観、または法律というものがある訳ですが、でも根本的に歯止めをかけるのはそうしたものではどうしても役不足なのであり、其れで人間存在は神という人間の精神を超越した存在を創り上げる他なかったのだろう。
精神というものは其の点で肉体の方ー物質としての人間存在ーよりももう一段階厄介なものなのである。
 
ところで宗教など要らないと思って居る人などは此の問題を一体どう解決するというのだろうか。
人間の精神には歯止めなど要らないとそう考えて居るのだろうか。
まあ合理主義者には其のように思われるのかもしれないのだが、其の合理主義ー機械論的な世界認識の世界ーには内省力が備わって居ないから其の問題にスッポリと嵌り込んで宗教の代わりに精神の方の歯止めをかけて呉れるなんてことはいきおい不可能なこととなる。
もしそうした知性力のようなもので精神の欲するところでの際限ない欲に歯止めをかけたいのであれば、合理主義の方だけでは元より其れは無理で人文科学や社会科学の方の知を其れに加え、つまりは統合されたより立派な知の領域のようなもので歯止めをかけてみれば或いは其のことに成功するのかもしれない。
ただし、此の世にはどうも知性力だけでは統御することの出来ない魔の領域とでも言うのか、そんなものが何かしら様々に生じて居るような気がしてならない。

そうした魔の領域が実際にあったからこそ人間は其れに対置する形で聖なる存在を創り出さなければならなかった筈だ。
そして宗教とは其の聖なる存在のことを考えていく観念の領域のことなのである。
 
現代の多くの日本人はそもそもそうした宗教の根本の意義のようなことに触れる機会がないからこそ其の事がほとんど分かって居ない。
逆に宗教なんて何だか危ないもの、悪いものだ位に思い込んで居る始末で、まあ其の事は例のオウム真理教が引き起こした事件であるとか、或いは他にも様々に宗教団体絡みの問題などがあり其れが日本人の宗教離れを加速させていく理由となって居るのかもしれない。
またつい最近なども、海外でイスラム過激派勢力による学校の襲撃事件などが何度も起こったりして居り、そうしたことも普通の日本人にはとても怖いことに感じられるのでますます宗教に対する関心が薄れるという傾向が助長されていくのかもしれない。

だが、本当の本当は、宗教的な根を持たないこと、或いはたとえば仏教徒だと言っては居ても実際には仏教のことなど何も知らないというような宗教としての形骸化、そうしたことが人間の精神にとって最も怖いことなのだ。

高度経済成長によって物質的には豊かになった筈の日本国は其の代わりに宗教的なものの根っこそのものを失いつつあるのかもしれない。
また戦後民主主義に於いてGHQ民主化の名のもとに日本の宗教観を意図的に破壊し、或いはインテリ層の奉じるマルクス・レーニン主義は其の唯物論的構造により宗教そのものを否定して仕舞った。

という訳でどうも日本の社会はすべからく宗教から離れていく道を自ら選んで来て仕舞ったのである。
もっとも其れも社会としての大枠でのことなのである。
中には個人レヴェルで宗教に深く関わって居られる方々も居られることだろう。

ちなみに私の場合は現在特定の宗教に関わって居る訳ではない。
ただ原始仏教が好きで其れを奉じて居るというだけのことなのである。
また思想の方も社会主義者ではなく共同体主義者であるに過ぎないのだ。
ただし国家という概念は最終的には無い方が良い。
確かにグローバル資本主義よりはグローバル共産主義の方が良いかとは思われますが、其れも自治の単位が小さくなるのであれば何主義であっても構わないので其処はどうぞご自由にといったところである。

しかも其の宗教や思想を理想論として持って居るということだけなのだ。
現実に世界の宗教がみな原始仏教化され、世界の統治システムが共同体レヴェルに移行されるものとは全く思って居ないのである。
即ち其れは理想だから、現実には実現しないことばかりなのである。
そうした理想論的な観念世界に夢を見て居るか遊んで居るというばかりでのものなのだ。

然し此れ等私の奉じる二つの考え方は、共に大きい方から小さい方へと向かう考え方のものなのだ。
あの上座部仏教などもかっては小乗仏教と云われていたのだったが、原始仏教も結局は其の小の方の仏教であることに変わりはない。
されど日本で盛んな大の方の仏教は釈迦自身が説いた仏教とはかなりに異なって居り、私も昔其れを勉強して居たことはあったのだったが今となってはそうした変わり果てし仏教には興味は無い。
 
今、世界の流れは大きく変わらなければならないことだろう。
近代以降の世界の欲望肥大路線は明らかに誤りである。
即ち近代の幻想が齎したところでの大きいことへの志向はもういけないことなのである。
何故なら大きいことは大きく何かを壊すが、小さいことは小さくしか何かを壊すことが出来ない。
 
だから小さい人間で良いのだし、小さいことだろう共同体に住んで居ればそのほうが良いのである。
無論のこと欲も小さいつまり少ない方が良い。
節度のある人間、節度ということを教えられた人間には其の事が可能となる。

然し節度の無い思想、節度の無い宗教、節度の無い欲望と云ったつまりは節度の無い精神には爆弾が一杯仕掛けられて居るのである。
だからアノ革命も爆弾なのだし、国威発揚の方も無論其の爆弾なのだし、世界広布を目的とする宗教なども其の爆弾で、近代ナショナリズムもまた其の爆弾の最もデカい奴なのである。

また其の小さい人間は統合された知性ー知識と知恵の統合ーに磨かれてすでに小欲知足の境地にある。
其の小さい人間が小さい地域に誇らしく住まうのである。
宗教は邪教の類、過激なものを除き、かつ世界公布を目指して居ないものに限り其のすべてを是としてみたい。

宗教は人間の精神に節度を与えるものであるからこそ絶対に必要なものである。
道徳や倫理観、或いは法律などよりもより大きなスケールで人間の精神を規定することが宗教の役割なのである。