目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

目覚めよ!-13

 
 
本日はEテレ、またはオンデマンドで放送されているスーパープレゼンテーションの原版のTEDというプレゼンテーション番組の動画をリンクしておきます。


シェリー・タークル 「つながっていても孤独?」
http://www.ted.com/talks/sherry_turkle_alone_together.html
TED日本語 - シェリー・タークル: つながっていても孤独?
 
素晴らしい、まさしく質の高いプレゼンテーションである。
以前私がここで書いたMIT教授の心理学者シェリー・タークル女史のもの。
テクノロジーの進歩が人間心理に危険な影響を及ぼし続けていることを彼女は警告している。
元々テクノロジーの推進派だったタークル女史がそのような警告を発して居ること自体に大きな意味がある。

ただしここでタークル女史はテクノロジーの未来について否定的な見解を述べられて居る訳ではない。
それでも彼女は、電子機器で繋がっている現代人は本質的には孤独であり、実はそのように一人で居られない人ほど真の意味での孤独に陥っていくことをはっきりとここで述べられて居る。

その点が分かるのであれば、おそらく彼女には東洋の思想や宗教にも充分に親しめることだろう心理的な素地があると言っても良いのかもしれない。
 
 

スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」
http://www.ted.com/talks/lang/ja/susan_cain_the_power_of_introverts.html

以前に視て感動したプレゼンテーションである。
その時にこれまで私が考えていたことを代弁して呉れて居る気がしたものだ。

尚私の場合今日は時間が無く再び視られないのだが、細かな内容はともかく兎に角世の趨勢とは逆のことをはっきり言ってのけた彼女の勇気には素直に拍手を送りたい。
私には前々からここでどうしてもひとつ述べておきたいことがあり、そのことがここでの彼女のような考え方、立場から出発するものであったのだ。


ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」
http://www.ted.com/talks/lang/ja/ken_robinson_says_schools_kill_creativity.html

これも以前に見たものだったがまさに示唆に富んだプレゼンテーションとなっている。
私が昔塾の講師をしていたときに感じたのだったが、本来ならば小中学生は皆一人一人が異なる個性を持っていて創造性の方も随分豊かだったのだ。
 
其の個性や創造性の芽を摘んで仕舞って居るのは、実は教育の方なのではあるまいか。
教育とはまた因果な商売で、国々での社会の体制に従う良い子を育てあげるのが其の大枠での目的であり目標なのであるからして、其の基準に適合しない個性の発露や奔放な創造性をむしろ抑え込んでいかなければそも其の人間の基準化、平準化は達成されないこととなって仕舞うのである。
 
其れでもって教育とは人間を無理矢理に型に嵌め込んでいく作業でもあることで、特に初等教育中等教育に於いては其の基準化の流れが往々にして甚だしくなることがある。また無論のこと学校に於いても、塾に於いてもいずれもそのようなこととなる。


尚このプレゼンは日本人にはなかなか理解し難い部分もあるかとは思えますが、これもまた言いにくいことを正面切って語っている素晴らしい提案なのだと言える。



アル・ゴア 「気候危機の回避」
http://www.ted.com/talks/lang/ja/al_gore_on_averting_climate_crisis.html

米国の元副大統領のアル・ゴア氏の環境問題に対する取り組み方は真摯なもので其の試みは世界的にも広く知られたものとなっている。

そしてこちらでのプレゼンテーションもその内容はなかなか立派なものだ。環境問題に疎い方には特にオススメのプレゼンである。



ハンス・ロスリング:地球規模の人口増加について
http://www.ted.com/talks/lang/ja/hans_rosling_on_global_population_growth.html

本日初めて視聴したが非常に面白いプレゼンテーションだった。
この人の言って居るように未来に於いてこううまく事が運ぶものかどうか分からないのだが、それでも何にせよ人口増加の問題は大問題であるにも関わらず意外に関心の薄いテーマで一種の盲点のようなところのある問題なのでこうして真正面から取り上げられること自体に大きな意義があると言える。

私はそれこそ中学生の頃から人口問題を大きく取り上げて来ているのでこのプレゼンテーションは特に興味深く視聴出来た。ー中学三年生の折に社会科の夏休みの課題に対して、私は此の人口問題と食糧危機の問題を組み合わせて考察したものを提出した。其れが高評価を受け、皆の前で担任の先生ー恩師の社会科の先生。三年前に亡くなったが、京都大学卒のインテリ先生であった。ーにより発表された。


現代文明の問題とは結局欧米近代の文明のあり方の問題に収斂されていく。

その欧米の人々がここまで考え抜き、そしてプレゼンの内容の一部に反社会的なものを含みながらもこのように堂々と主張している様を見ると、個人的に現代の欧米社会もまだまだ捨てたものではないなという感じを抱くことが出来た。

つまり現代文明もまだ捨てたものではないということなのだ。

地球温暖化の影響で将来カタストロフィーに至るかもしれない現代の文明ながら、こうして懸命になって提案をしている外人さん達を見るにつけ少しずつこちらの考え方も変わって来る。


ただ、日本人はこの種の問題に関しては真面目に関心を持って居る人自体が珍しい位なので、そこをあえてここにこれらを貼り付けることで皆様に対しての問題提起を私はしているつもりなのである。


ニール・ハービソン:「僕は色を聴いている」
http://www.ted.com/talks/lang/ja/neil_harbisson_i_listen_to_color.html

尚こちらもまさに面白そうな論題である。




スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」
http://ted.babblebuzz.com/archives/1225_%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%82%b6%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%82%b1%e3%82%a4%e3%83%b3-%e3%80%8c%e5%86%85%e5%90%91%e7%9a%84%e3%81%aa%e4%ba%ba%e3%81%8c%e7%a7%98%e3%82%81%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e5%8a%9b%e3%80%8d/

改めて視聴してみましたが矢張りこれは大変優れた提案だと言える。

こうした頭の良い女性はまさに私好みなので個人的には是非交際を申込みたいところなのだが残念ながら彼女にはすでに旦那様が居られるとのことである。



さて二元論という考え方があり、これが21世紀型の文明のあり方を考える上で重要なテーマのひとつとなって居る。

Wikipedia-二元論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96

だが今回問題にするのは此のWikipediaの下の方に示されて居るような、哲学的な意味に於ける近代的な精神と物質に於ける二元論の超克の問題などではない。

古代印度に於いて宇宙のあらゆる二元的対立が梵我一如の思想として一元論に還元された部分や、また古代中国に於いて二元的対立という概念自体を認めずむしろ調和すべきものとして捉えられていた思想こそが重要 なのである。

それで、上のスーザン・ケインさんという弁護士さんのプレゼンではむしろその東洋思想に近い内容のことがそこに語られて居るのである。

そして私は何より其のことに驚いたのである。

何故なら近代以降の人間は近代的な自我意識を常に持ち自立して考えることの出来る人でなければならない訳だ。

そうした精神の自立性つまり理性的な部分を近代社会が我々に求め続けて来たのだと言える。


だが実はそうした要求とは一種偏向した、また多分に狭量なものの考え方のことである。

近代型の思考方法では常に自然と人間との対立構造が顕にされそれが避けられない問題となって来るからなのだ。


ゆえに私のようなポスト・モダン的な思想を持つ者はこの近代以降の二元論的な対立構造を批判していくことが多いのだ。


さて、この世界には逆向き、つまり正反対の性質を持ったものが無数に存在している。

男と女、バカと利口、僧侶と俗人、営業マンと作家、商店街とアマゾン、マクドナルドハンバーガーと納豆、猫と犬、光と闇、硬と軟、筆とペン、 肥満と痩せぎす、氷と炎、現実と理想、メルセデス・ベンツと通勤用自転車、右翼と左翼、石原慎太郎日教組、詩人と投資家、オカマと男勝りの姉御、その他諸々。


そうしたものをどう捉えていくかという部分に実は文明の根本問題が潜んでいると考えられるのである。

で、近代文明の一番の問題点はそうした二元的対立を引き起こすような目的完遂の為の能力の優劣論に終始している部分である。

またそこでは物事を二元的に分割してしまうからこそ事の全体性を見失って仕舞いがちなのである。

そして実はこれ、近代科学の分析的手法と全く同じような構造を持ち合わせて居る。

一部分を拡大しかつ拡張解釈することで何かが真に分かるとそのように考えて仕舞って居ることが。


然し一部分の分析に終始していてはたとえば大きな視野を見失って仕舞うことにもなる。

ならば大きな視野とは一体どこから生じて来るものなのだろうか?

結局それは内面性の深みの部分から生まれて来るものなのだろう。


たとえば仏陀はかって森の中で徹底的に自らの内面を見つめ続けやがて悟りを開かれたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3

またたとえばイエス・キリストはかって荒野に赴き悪魔と闘ったとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E9%87%8E%E3%81%AE%E8%AA%98%E6%83%91

この悪魔とは、私の解釈に限れば明らかに人間の内面に巣喰うであろう悪魔のことだろう。


仏陀も悪魔の誘惑を受けたがそれもあくまで内面での上でのことだった筈だ。

そして仏陀もイエスも、共にその悪魔の誘惑に打ち克って居る。

そうして完全なる内面的な勝利をそこに収めたのである。

だからこそ彼らは共に人類を導くに足るほどの大きな視野を其処に得ることが出来たのである。


ゆえに内向的な力というものは、現代人が考えて居るほどみすぼらしいものでもなくまた地味なものなのでもない。

実はそれこそが真理を把握するには必須の力なのである。

逆に、外向的な力というものはむしろ人間存在の表面的な力のことを言うのである。


たとえばいかにも話し上手で社交的であったり、または商売に長けていたり、あるいは女性を口説くのが上手かったりと、たしかにそうした外交性の力は現実を生き抜く上での現実的で実効力のある力ではある。

しかしそれはあくまでも表面上の力であることを現代人は是非学んでおく必要があるのだ。

たとえばワシは投資が上手で大金持ちになったぜとか、オレはあの女優を口説き落としたぜ、ヘッヘッヘッーとか、そうした力については本当は取るに足らないような表面的な力であるばかりなのだ。               2013/03/13