目覚めよ!

文明批判と心の探求と

今の日本が抱える性の問題-Ⅰ


今日本の性意識に於ける問題点は、個の自由と云う名の元に急速に展開された性の自由化そのものにある。


其の自由化は社会的かつ観念的な誤謬から齎されて居るもので個の意識が伴って居るものではない。


然し此の自由化についてはよくよく注意を払った上で考えていかねばならない。


何故なら其れは自由では無く不自由を齎す自由のあり方なのだから。



性とは実は人間にとって自由な領域のものではない。


歴史的に近代以前には性の解放が成らなかったのも性を限定しておかねば性が暴走することが必定のゆえあえてさうさせないやうにして居たのである。



人間の性は其のやうに解放出来ない性質のものだった。


ちなみに最近の研究では太古の昔から人間は一夫一婦制であったことが分かって来たそうだ。


つまり人間はサルのやうで居てサルとは違いむしろ当たり前に一夫一婦制を貫いて来たものらしい。
ーサルでも一夫一婦制を貫くタイプがまたあるにせよー



だから解放出来ないんだ。


根本の性質がそうなのだからこそ不特定多数の相手と交わることは許されず一人だけの父ちゃんや母ちゃんとだけ愛し合わなければならない。



キリスト教の説くところでの夫婦間の愛情と云うものはまさにそんなところから引き継がれて来たものだろう。


そうした限定の思想が逆に一神教としての普遍の思想に連なっていくことだろう。



ところが此処日本では性は特殊な環境にあった。



即ち性は隠すものでも何でもなくむしろ目出度いものでありー酒と同じでー生の豊かさの象徴でもあった。


そして歴史的にも性は部分的に解放されて居たのものと見做すべきである。


日本人は真面目で潔癖度の高い民族であるにも関わらず何故こうも性的な逸脱に走り易いのだろうか。



つまりは其れが生への信仰の存在である。


特に仏教が根付くまでの日本には生に疑いを抱かないことだろう素朴な信仰に貫かれて居た筈だ。


そして神々も人間と同じようにSEXをし人間と同じように喜怒哀楽を表しまた失敗も屡するわでかのギリシャ神話に登場する神々と同じで実におおらかな神様達である。


そしてとどのつまりは其処で性=生である。

よって性つまり生を祀り上げて居るのである。




だから理性による性の解釈ではない訳だ。


でも仏教は理性的だ。


ところが大乗仏教が常に理性的だとは必ずしも言えない訳だ。



要するに日本人はかねてよりむしろ性でこそ解放されて来て居たのだ。


幕藩体制の頃でさえおそらくはそうだったことだろう。



お分かりだろうか、古来より日本人にとり性は好ましいものであり隠すべきものでも制限するべきものでもなかった。


むしろ近代化により性は部分的に隠さねばならないものとなったのだろう。


無論のことコレはキリスト教の考え方が輸入されたからである。



さて、そうであるならば昨今の性の乱れ、性的逸脱の増加の流れはどう解釈すれば良いのだろうか。

其れは結局、宗教が性を規定出来ないと云う日本に於ける性のあり方の特殊性に由来するものだろう。



つまるところ、大乗仏教は性を限定し得なかったのだ。

元来性は豊穣なる生の象徴としての神様の行いであり忌み嫌うべきものではないのである。

逆に信仰の対象ですらあった。



ただしそんな大らかな性のあり方と現在の性のあり方は質的にまるで異なるものだ。

かっての性のあり方に於ける性的逸脱は其の多くが笑って済ませられる範囲のものだった筈。


然し近代以降の我が国での性的逸脱は人間を破壊する方向へしか進まない。

つまり肉体の破壊であり精神の破壊に直結するだろう大問題なのである。



何故そうなるのか?

其の大らかな性の土壌に合理化された性がはびこっていくー培養されて仕舞うーからだ。

だからアブノーマルな性の営みが放置され易い環境が性に於ける自己矛盾領域として抱え込まれて仕舞う。



だからいざ援助交際が始まると歯止めが効かなくなる。

いざ不倫が是認されると同様にこちらも歯止めが効かなくなる。


ところがキリスト教圏ではそのやうなことにはならない。

キリスト教の齎す倫理規定が即其処に歯止めを齎すからだ。


確かに欧米圏では性が自由化され一方では過激な性表現の世界が現出していやう。

だが此処日本程バラエティーに富みかつ背徳的な性表現が氾濫して居る国もない。



私は何故そのやうなことになるのかと云う事をずっとこれまで考え続けて来て居た。

潔癖である筈の民族が何故性に関してはこうもふしだらな状況に陥り易いのか。


一言で言うと、日本人は誰も性が悪いことだなんて思っていやしないと云うことなのだ。


だから酒の席で女は尻を撫でられても良かったのだしエロオジサンに卑猥な言葉でもってからかわれたりしても平気だったのだ。



第一日本の大乗仏教諸派は性を否定して居ない。

日本のお寺は神社とも並置されて居り性を否定したら其の神仏習合が壊れるのであるしまるで自然に於ける性の営みが清浄であるが如くにある意味で性を信仰して居たのである。



が、現在に於ける性の問題は合理化による性の破壊の問題でありそんな大らかな話では元より無く其れは日本人そのものを破壊するに至らしめる大問題だ。



突き詰めれば畢竟其れも此処日本に於ける近代の超克の問題である。


即ち性に於ける近代化が成らぬままに欧米流の合理主義的な自由な性の環境が現出したのである。



謂わば性が目出度いままに合理化されていくのである。

すると其処でどんなことが起こるか。

君の姉ちゃんや妹が性の合理化の餌食となりもうレイプされ回されて仕舞うのである。



ですから、欧米ではちゃんと性には歯止めがかかって居る、たとへ部分的には背徳の限りを尽くしていやうがどうしやうがレイプ動画の垂れ流しなどは無いよ、絶対に無い。

ですが日本ではまさに歯止めの効かない状況が現出している、其れも小学生女子まで巻き込んでもうやりたい放題である。

おそらくはそんなエロ動画の蔓延を視てとった外国人は決まって不思議に思う筈だろう。

何故あの真面目な日本人に限ってこんなことが許されて居るのだろうか。



其の善なる背徳、善なる性の悪魔の出現こそが現在の日本の性に於ける自己矛盾状況を端的に表していやう。

そう日本の性とは、今其の善なる悪魔としての加速過程にこそある。



そして此処日本では宗教的に性を抑制する手段がない。

だから歯止めが効かないんだ、要するに。

そればかりか近代主義に於ける平等観が女の性を解放しつつある。

いや、女の性を野放しにしつつある。



だからこそ女子高生が20時に男の家へ平気で入っていったりする。

そんなものは我我が高校生の頃は考えられないことだった。

と云うか、其の頃女の子はそんな夜遅く出歩かなかった。

とは言え中には確かに同級生で妊娠して学校を休んで居る子は居たのだったが。



でも今はさうした常識としての自制心がグズグズになって仕舞って居る虞が大きくある。

まず教育、コレがなって居ない。


学校つまりは日教組、其れから家庭の教育が共になって居ない、嗚呼、もはやグズグズだ、自由だ平等だとの誤った教育で女子生徒と云う女子生徒が皆淫売窟の餌食だ。

さらに女子生徒に手を出す鬼畜教師が増えて居るとのことだ。



だが、私は教師を批判して居るのではない、そんな風潮の奥に潜む社会としての非を糾弾して居るのだ。

其れは合理主義の暴走でありかつ女の体の奥底に潜む合理性との結託である。


其の合理性の結託が社会としての大らかな性の土壌の中に矛盾化し仇花を咲かせて居る。

そうまるで花々が咲き乱れるやうに其の毒花が咲き乱れて仕舞って居る。


姉ちゃんが妹がどうかそんな世界に引き込まれませんやうに。

さう願ひ続けること程情けない現実はない。