猫のしっぽ カエルの手 京都大原ベニシアの手作り暮らし 「祈りへの道」~熊野古道・高野山~ http://www.nhk.or.jp/venetia/past/past120302.html こちらは素晴らしい番組である。 ここでヴェニシアさんは日本の熊野の山を歩きながら地球の未来が平らかならんことを祈念されている。 ヴェニシアさんは元々英国貴族なのではあるが、そうした国籍や家柄を超えた一地球人という意識をしかとお持ちなのである。 だからこそ故郷からは遠く離れた日本の自然や宗教も良く理解なされているのである。 それこそ自然にそうしたことがお分りになる心をすでに持っておられる。 ここでヴェニシアさんが語られているところでの、心から祈ること、心の底から願うことの尊さは国籍や身分や寄って立つ宗教や思想、信条などといったことの違いによらず人間皆同じなのである。 ヴェニシアさんはそうした心でもって熊野古道を歩かれ、やがて無量光院という真言宗の寺に辿り着く。 高野山 無量光院 http://www.cypress.ne.jp/muryoko/ いや、その前には神社へも寄られ何と手を合わせて祈っておられるではないか。 無宗教的だとは言いながらキリスト教が好きで心の中に神を感ずるとも言われているヴェニシアさんが神社で立派に手を合わせて祈っておられるではないか。 そう拝むのではなく祈ることこそが宗教だ。 現代における自然の自己崩壊過程としての人間を日々生きざるを得ない我々に出来ることとは、宗教的な権威にかしずきそれを拝むことではなく全き善き地球の未来を祈ることだけなのである。 その無量光院でヴェニシアさんは何と勤行にも参加されている。 幾らかっての印度での放浪の経験と仏教への理解がその行いの根底にはあるにせよ、根はキリスト教徒である筈のヴェニシアさんが仏を前にして勤行にも参加されたのである。 また真言宗無量光院の御住職は何と以前からキリスト教やイスラム教と積極的に交流されているのだという。 謂わば宗教の枠をこえて現代という時代と、その時代におかれた仏教の立場を考えておられるからこそそうした方向性を持たれたことなのであろう。 ここからも分るように人間とは宗教の違いや思想の違いによって分け隔てられたりするべきものではない。 ものごとの分って居る人にはそれは分っているのであるし分っていない人にはずっと分らないというただそれだけのことなのである。 そして分っている人の場合にはそこで自然に祈りの気分が盛り上がって来る。 何宗や何教ということではなく心から祈りたいのか、それとも祈る必要などはないと思っているかの違いだけなのである。 なお、今祈りたくはない、あるいは祈る必要などはないと考えている人間はものごとが何も分っていない人間である。 現代という時代の把握がまるで出来ていない不感症の人間なのである。 さらに、この際現代の宗教関係者にも一言述べさせて頂きたい。 自分の宗教が常に一番だと思っているうちは現代人に宗教心など真の意味で根づかない。 現代に必要なのは祈りの心だけなのであり、それは宗教や宗派間の垣根をこえたところにはじめて成立するものなのである。 その祈りとは血も涙も無いグローバル資本主義や血も涙も無い科学万能主義に対する倫理観や道徳の実践として存在するものである。 その奇怪かつ醜悪な流れを諌める働きを持つものがその祈りの心そのものなのである。 地球への祈り ゆっくりと回る地球の上で 今日というすばらしい一日に感謝します 日々 呼吸する空気 飲み水 そして踏みしめるこの大地を 授かっているのですから 外界のすべては移り変わります 季節も 潮流も 太陽も 月も 永遠に続く天地の動きも すべての人がこの地球を愛し 大切にしますように 私たちの暮らしや繁栄や成長に 必要なものすべてを与えてくれるのが 地球なのですから written by Venetia Stanley-Smith 2012/03/16
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