目覚めよ!

文明批判と心の探求と

死は徐々に遠ざかる。でも本当は死の近辺ばかりだ。









「資本主義は、キリスト教的禁欲の精神から、意図せざる結果として生まれた。」

「禁欲は現世を改造し、現世の内部で成果をあげようと試みたが、そのために現世の外物はかって歴史にその比を見ないほど強力となり、ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。

「だが、この末人達にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで、すでに登りつめたと自惚れるであろうと。」

「聖書に記述されていないことを認めるわけにはいかない、我ここに立つ。それ以上のことは何も出来ない。神よ、助けたまえ。」




さて今まさに現代社会は複雑怪奇な矛盾の大帝国と化して来て居ります。

何せ根の方がそんな矛盾の大帝国なので、謂わばちょっとしたことで諸のぶち壊し即ち破壊が生じたりも致します。



ただし破壊されて困るのは既得権側の方で、逆にこれでいいとは金輪際思って居ないことだろう所謂怒れる人々の側からすればもうこんな矛盾帝国は存続しない方が良いのではないかとさえ思わせられる。


其の矛盾による破壊ということはあらゆる分野に及び特に今問題となるのは生自体の合理化による根本的な人間の破壊である。

たとえば性を合理化しつつあるので、今や男性が生きにくくなりつつあり、それでもって家族もクソも無い、所謂家庭の団欒も何も無い無味乾燥でもって幸薄き社会が到来しようとして来て居る。



この性が合理化された社会は最終的には人間をぶち壊していきます。

いや性どころか全てをブチ壊すのが近代といふ破壊の世紀の目的です。

地球も人間も全て破壊し其れで終わり、其の全的な消滅の果てに待つのは果たして何なのか?



されどまあ、しかる後にかのキリスト様が現れ此の世は天国となりましょうから其れでも良いのだと言えないこともない。

其れに実は仏教などではもっと徹底して居て、要するに覚者だけが救われて居る永続的な真理の世界が別にある訳なのでして、逆に我我は此の腐った世界に自らを縛り付けて居るほか無い低級な何かであるに過ぎない。



なので救われるも何も、そも此処ではハナから救われ様が無い訳なのでして、其れも其の救われ難い程度に応じて性地獄だの、莫迦地獄だの、マニア地獄だの、逆に頭の良い人々、所謂分かった方々に対しても増上慢地獄、即ち利口な為の地獄、何ものも信用しない地獄、それに哲學的な無間地獄などが常に待ち受けて居るのです。


さて宗教はさうした様々な苦に対し或は矛盾に対しどう対処すべきなのかということを我我に指し示して来て居た筈です。

そして其れは此の世の苦、矛盾に対する最終的な処方箋として機能する筈のものでした。

つまりは宗教的な次元に於いて人間は初めて苦乃至は矛盾を乗り越えることが可能だった。



ところが其の宗教の果たすべき役割である人間の自浄作用が今日では機能しなくなって来て居る。

それどころか宗教自体が矛盾化し通俗化、或は過激化して来ても居る。



廿世紀は脱宗教、即ち宗教の死の時代だと位置づけられましたが二十一世紀こそがむしろそうした時代となるのかもしれない。

なので今宗教はむしろ活発化して来て居ります。

宗教が滅ぶ前に色んな花々がむしろ咲き乱れて居るというやうな様相を呈して来て居ります。


宗教の根本はあくまで事実としての合理性だとわたくしは考えますが、大衆レヴェルでの不安な世相へのルサンチマンの発露、又は怒りのようなものを制御出来ず宗教へ走るといった形での非合理的な信仰、或は盲目的信仰の力が其処に働いて居るのではないか。

謂わば本能的に宗教を指向せざるを得ないところに差し掛かって居る、今我我は。



ですので理性の暴走である科学的倒錯の産物である狂気としての文明の営為をシラフでは見つめて居られない為必然的に宗教の部分で其れを見詰めざるを得ない。

必然として現代人の中に宗教を取り込んで其れ等の狂気と対峙せざるを得ないのである。



されど此の狂気を、とめどない破壊の為の儀式の数々を悪いことだと思って居る人など此の世界にはほとんど居ない。

何故なら洗脳されて仕舞って居るからです。

或は盲目化され切って居る。

だから怒りも何も、それどころかギモンすら生じないのであります。

ギモンが生じないのはいつの間にやら我我が莫迦になって仕舞ったからだ。




其の莫迦というのは所謂知能指数とは関係の無いバカさ加減のことである。

わたくしがいつもバカ、莫迦と云って居るのは其の種のバカさ加減のことであり単に頭が悪いということではない。



ところでマックス・ヴェーバーによる「宗教の合理化」過程での最終段階としての宗教の死はあり得るのだろうか、それとも宗教は結局死なないのだろうか。


たとえ本質として宗教は死ぬにせよ生き残る筈である。


何故なら合理的な世界観のみでは人間は救われないからなのである。




たとへば合理性が我我にどんな幸せを与えたというのだろう?



確かにかっては死に至る病であった諸の病気からは解放して呉れた。

また合理的な利潤の追求のシステムのお蔭で我我は今何でも買え、しかも其れがよりスピーディに行えるようになった。



また金さえあれば愛も買える。健康ばかりではなく愛さえも買える時代になった。


然し其のお蔭でまさに余分な負担を背負い込むことにもなった。


第一金が無いと人は人間以下の存在となって仕舞う。



金など無くとも人間の筈なのにそうではなく現代では金の無い人間程人間では無いのである。





さらに車に乗らない人間、或は飛行機に乗らない人間はもはや人間では無いのである。


然し我はもうどちらにも乗りたくはないのだ。



まさに山奥で詩人として静かに暮らすのが夢なので、こんなバカバカしい文明の常識なんぞに付き合っているヒマなどは無い。




第一其の文明の営為は、地球のことや宇宙の全体のこと、はたまた人間といふ不可解かつ危険な小宇宙のことなど何も考えて居ない思考であるに過ぎぬ。


そんな部分的でかつ小さい思考であるに過ぎない。


それに病気と言ったって、本質としての滅びる肉体と滅びる精神を永続化させることなどは出来ない。




よって病気には勝てない。


病気になれば死ぬほかはない。


また爺婆になればむしろ進んで山奥へ入り餓死すべきである。






近代の思考とはそうした反自然の思考そのものだ。


いや、元々文明とは、文化とは、反自然そのもののこと。


謂わば言葉といふもの自体、論理であり思考であるものそのものが反自然なのである。



何故なら自然は自らを分類したり考えたりすることはない。


またあえて詩を纏め上げたりすることもない。



だが自然界にも感興といふものはある。

其れが自然に湧き出る調べとなり此の世界の夜の部分をこそ貫く。


目には見えない世界、精霊の世界、植物の呼吸の音、そうした秘かな生の営みのみが論理以外の領域で完遂されていく。






反自然の思考は次第に速力を増す。


我我が数億年の歳月をかけて積み重ねて来た「中間の自然」としてのサイクルを無視し進むことだろう。



「中間の自然」?

そう我我は中間の存在だった。



もう長きに亘りそうだったのだ。



神でもなく自然でもない我我はそのやうに規定され続けて来た。


然し合理化は、其の倒錯としての近代の思想は其のバランスを壊していく。




だが母が子の健やかな成長を願うやうに、また穏やかであることが心を優しく包み込むやうに、其の願い自体には悪は潜んでいたりしないのである。


我我は生きること自体には抗えず、従ってあらゆる生の領域に於いて其の利己的な願いー欲の解放ーをこそ望む。



其の願い自体には問題が無いのだとしても、其の多くの至極真っ当な思いが集まり矛盾化することで世は破滅する。





元より誰しも病気にはなりたくはない。


然し我我の本質はすでに病におかされて居る。



我我自身が病気なので、このやうに破壊的な世界に縛り付けられて居る。



其の病気の自覚乃至は罪の自覚は、かえって自然に任せて病気になり苦しんで死んでみる方が良く分かるのである。


また急がないでも良いといふことでさえ、飛行機や車に乗らず徒歩で山の中を歩いて居るだけで良く分かって来る。



かように近代が描きし肉体の快楽の追求は、表層としての苦痛の放逐と同時に本質としての心の苦痛を抱え込むかの如くだ。





今此処には苦痛が無い。でも本当は苦痛だらけだ。



死は徐々に遠ざかる。でも本当は死の近辺ばかりだ。




其れも重要な部分が死ぬ。




たとへば地球、其れから規範、また諸の欲の制御しかり。



すでに我我は自己を律するだけの精神の力を失いつつある。


我我が回復させねばならないのはまさに此の点にこそあり、いつまでもより便利なものやより移動が速いものを追い求め生きていくべきではない。