ところでマックス・ヴェーバーによる「宗教の合理化」過程での最終段階としての宗教の死はあり得るのだろうか、それとも宗教は結局死なないのだろうか。
たとえ本質として宗教は死ぬにせよ生き残る筈である。
何故なら合理的な世界観のみでは人間は救われないからなのである。
たとへば合理性が我我にどんな幸せを与えたというのだろう?
確かにかっては死に至る病であった諸の病気からは解放して呉れた。
また合理的な利潤の追求のシステムのお蔭で我我は今何でも買え、しかも其れがよりスピーディに行えるようになった。
また金さえあれば愛も買える。健康ばかりではなく愛さえも買える時代になった。
然し其のお蔭でまさに余分な負担を背負い込むことにもなった。
第一金が無いと人は人間以下の存在となって仕舞う。
金など無くとも人間の筈なのにそうではなく現代では金の無い人間程人間では無いのである。
さらに車に乗らない人間、或は飛行機に乗らない人間はもはや人間では無いのである。
然し我はもうどちらにも乗りたくはないのだ。
まさに山奥で詩人として静かに暮らすのが夢なので、こんなバカバカしい文明の常識なんぞに付き合っているヒマなどは無い。
第一其の文明の営為は、地球のことや宇宙の全体のこと、はたまた人間といふ不可解かつ危険な小宇宙のことなど何も考えて居ない思考であるに過ぎぬ。
そんな部分的でかつ小さい思考であるに過ぎない。
それに病気と言ったって、本質としての滅びる肉体と滅びる精神を永続化させることなどは出来ない。
よって病気には勝てない。
病気になれば死ぬほかはない。
また爺婆になればむしろ進んで山奥へ入り餓死すべきである。
近代の思考とはそうした反自然の思考そのものだ。
いや、元々文明とは、文化とは、反自然そのもののこと。
謂わば言葉といふもの自体、論理であり思考であるものそのものが反自然なのである。
何故なら自然は自らを分類したり考えたりすることはない。
またあえて詩を纏め上げたりすることもない。
だが自然界にも感興といふものはある。
其れが自然に湧き出る調べとなり此の世界の夜の部分をこそ貫く。
目には見えない世界、精霊の世界、植物の呼吸の音、そうした秘かな生の営みのみが論理以外の領域で完遂されていく。
反自然の思考は次第に速力を増す。
我我が数億年の歳月をかけて積み重ねて来た「中間の自然」としてのサイクルを無視し進むことだろう。
「中間の自然」?
そう我我は中間の存在だった。
もう長きに亘りそうだったのだ。
神でもなく自然でもない我我はそのやうに規定され続けて来た。
然し合理化は、其の倒錯としての近代の思想は其のバランスを壊していく。
だが母が子の健やかな成長を願うやうに、また穏やかであることが心を優しく包み込むやうに、其の願い自体には悪は潜んでいたりしないのである。
我我は生きること自体には抗えず、従ってあらゆる生の領域に於いて其の利己的な願いー欲の解放ーをこそ望む。
其の願い自体には問題が無いのだとしても、其の多くの至極真っ当な思いが集まり矛盾化することで世は破滅する。
元より誰しも病気にはなりたくはない。
然し我我の本質はすでに病におかされて居る。
我我自身が病気なので、このやうに破壊的な世界に縛り付けられて居る。
其の病気の自覚乃至は罪の自覚は、かえって自然に任せて病気になり苦しんで死んでみる方が良く分かるのである。
また急がないでも良いといふことでさえ、飛行機や車に乗らず徒歩で山の中を歩いて居るだけで良く分かって来る。
かように近代が描きし肉体の快楽の追求は、表層としての苦痛の放逐と同時に本質としての心の苦痛を抱え込むかの如くだ。
今此処には苦痛が無い。でも本当は苦痛だらけだ。
死は徐々に遠ざかる。でも本当は死の近辺ばかりだ。
其れも重要な部分が死ぬ。
たとへば地球、其れから規範、また諸の欲の制御しかり。
すでに我我は自己を律するだけの精神の力を失いつつある。
我我が回復させねばならないのはまさに此の点にこそあり、いつまでもより便利なものやより移動が速いものを追い求め生きていくべきではない。