目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

個を破壊するやうでは矢張り社会は悪い


利己主義化、矛盾化する社会の問題は個に於ける問題とはまた別の所にある。

即ち社会が悪いということである。


社会が悪いということにして、それでもって自己の生活を守ることに関しては其れが認められて居る。

少なくとも民主的な社会に於いては。



ただし社会を構成するものは個としての一人一人である。

其の個としての反省、省察を抜きにして社会が悪いことを攻め立ててはならない。


自己省察、つまりは反省を自ら進んで行う限りに於いて社会の矛盾を指摘、糾弾し得るのだ。



なので日頃から何も考えて居ない、つまりパッパラパーの状態で自己を正当化し周りばかり責め立てて居る奴は莫迦そのものである。

対する利口というものは自分を客観的に見詰められる、自己の客体化を行う事の出来る能力の保持者のことを云う。



其の社会が悪いというのは、根本のところでは矛盾を制御する為の近代の考えが自ら矛盾化し破壊を引き起こす部分にこそ存する。



たとへば、

人間は偉いので諸権利に守られ快適かつ幸福に生きていくべきだ。


という大前提としての考えが其処に生ずる。

すると、其の大前提の為に頑張らないといけないので毎日夜遅くまで残業し働く。


然し其の結果生活が壊れ家族はバラバラとなり過労死する場合などもあり得る。


そこまでいかなくとも兎に角余裕がなくたまの休みにもただ寝て居るばかりで旅行ひとつも行けずまさにSEXをするやうな心理的余裕も無い。



また人間は偉いので東大または京大位へは行かなければならず其れで小学生の頃から進学塾へ通い深夜まで勉強しておかねばならない。


尤も我は其れを拒否し中学、高校と文學や藝術に親しんで居たので国公立大學へは行けなかった。

兎に角勉強していないので理数系は何も分からずおまけに英語は50点も取れれば良い方なのでかのN大学の入学試験では問題が英語で書いてあり往生したと言うか問題自体が全く分からず多分零点だったのではあるまいか。


其れでも国語や社会は元々出来たので其の後塾の先生になったのである。

然し塾の先生の頃は23時位まで社会科の中間テスト対策とかやっていて、こんなんで本当に人間らしい生活なのだろうかと自問自答する日々が続いた。

こんな無理に子供に知識を詰め込んで、しかもギリギリの生活、ギリギリの睡眠や休息の中に追い込んで本当に人間らしい生活だと言えるのだろうか。




兎に角今の社会がおかしく感じられるのは社会の大前提としての思想の部分の根本的誤謬の部分が噴出して来て居るからなのだろう。<中学教諭残業増>部活、授業増加響く「電通だけじゃない」

勿論廿世紀にも其の噴出は続いて居た訳であるが、其の根本矛盾の部分は拡大、拡張しつつあり其れが今世紀に入りもはやニッチもサッチも行かなくなったと捉えるべきなのだろう。







いや、もう全く素晴らしいご意見を展開されて居られます。




国民の生活を守るのは本来国民国家としての義務であり責務である筈ですが其の国民国家自体が矛盾化して居るので現在個としての最低の権利ー即ち結婚して真っ当な家庭を築き幸せに生きることーでさえ保証されて居る訳ではない。

逆に国家としての矛盾、様々な社会制度上の腐敗が個としての生活自体を圧迫するに至って居る。

特に弱者に於いて其の構造が成り立って居る。

尚弱者とは、沢山税金を取られて居る独り者の高齢男性や根が真面目で日頃から宗教活動に勤しんでいるというのに常に貧乏な人々のことを云う。



こうした人々を社会は絶対に救うべきである。


そして何より過酷な労働環境に晒されて居る人々も弱者だ。

従って今や教師は其の弱者なのである。


其れから塾の先生なども弱者だ。

何故なら競争が激し過ぎるから兎に角大変なのである、今の塾や大學やらは。



其れから男性は今や皆弱者である。

今や男性こそがか弱くまさにフニャフニャの存在である。



近代的な圧迫、其れも大前提としての人間が偉い、即ち人間中心の思想が実は全てを矛盾化させ破壊の方へと導いて仕舞って居る。



けだしもし教師が破壊されるとなると、其の教え子である子供も破壊されよう。

尤も其の前に其の子の親である三十代、四十代の奴等もすでに破壊されて居るのではあるが。

此の親共の破壊を齎したのは戦後民主主義によるまさに訳の分からない左翼教育による。




然し個の生活と労働環境を守るには其の近代主義の方へと摺り寄る以外にはない。

という訳で、近代主義の前提としての誤った思想こそが延々と巡る矛盾の体系を自ら生み出ししかも其処から逃れ出る術の無い状態を創り出して居る。



つまるところは、近代主義の檻、檻の中でのこと。

憲法の順守とは云いますが、其の憲法というのは本質的には国民国家としての檻、檻そのもののこと。

憲法は順守されるべき→では憲法が守るべきものは国家なのかそれとも国民ー個ーなのか?其処ではそも一体何を守りたいのだ。本当の本当は国民国家の存立の為に個が制限される、制約を受けるのが憲法たるものの基本構造だ。

即ち公共の福祉に反さない限り個の諸権利は認められ得る。



然し、生活とは公共の福祉に存するものなのではないか。

また個に於けるレジャーとは、ノーマルな意味でのSEXとは、はたまた子供らしい遊びの世界ースマフォなどの変なものを使わない遊びのこと、たとへばメンコとかおはじきなどの昔ながらの遊びーとは公共の福祉に存するものなのではないか。


其れから弱者である独身男性の生存権もまた公共の福祉に存するものなのではないか。



だから生活も労働も、本当は皆公共の福祉に存するものなのである。

まさに公共の福祉に反するものではなく公共の福祉に存するものなのである。



たとへば其のSEXひとつ、レジャーひとつにしてさえもが、実は国家を、そして天皇制と美しい国土、即ち 兎 ひし 彼 の 山 、小鮒 りし 彼 の 川といふ部分をこそ、永続的に在らしめる原動力なのである。



また其の労働環境ひとつ、労働時間ひとつが、 実は国家を、そして天皇制と美しい国土、即ち兎追ひし彼の 山 、小鮒釣りし彼の川の部分をこそ、永続的に在らしめる原動力なのである。




なので憲法解釈 に於いては公共の福祉に反しない限りといふ其の限定の文言を今一度吟味咀嚼しつまりはよくよく考え其処でより大きく捉え直さねばならない。


国民国家に於ける国家の存続の成否は当然ながら個の存続と幸福の成立如何といふことにこそ委ねられて居る。

然し個が圧殺され国家乃至は体制ひいては組織の存続のみが優先されるようでは実は全くの本末転倒なのである。



そうではなく国家や組織に於ける其の構成員としての個に於ける最低限度の生活の保障、即ち生活上の余裕の保証、或は未来の保証、心理的保証を国家及び国に連なる組織の人間は第一義的に捉え直さねばならない。


従って破壊ではなく建設をこそ、憲法は乃至は国家はまず考えていかなければならぬ。

表面的に即ち物質的に富むことを優先し諸の破壊を生み出したことは、実定法の段階で、また経済や科学技術の次元では解決不能であることが自明である。



何故なら其れ等は精神以外の世界での出来事だったのだから。

今国家がまず考えるべきこととはたとへばカジノをどこかに創り金まみれ、酒まみれ女まみれで世をふしだら化し破壊することではなく正しく宗教に帰依し健全な性道徳へと導き金やモノなどはもう要らない、人助けをしよう、お父さん、お母さんを大事にし日本の美しい国土を愛するやうな美しい精神を保つ日本人を教育することである。


が、其処ではくれぐれも社会を全体主義化していてはならない。

国家や組織の為になら喜んで死ぬやうなキチ○×人間を生み出して仕舞ってはもはや何の為にもならない。

それでは憲法の為にも国家の為にもならないといふことだ。



だからそういうのは破壊。

個の破壊でもってして逆に国が滅びそうになったことが先の戦争での日本国の犯した最大の過ち。



ただし、近代社会では個の生存権、諸の権利はあくまで公共の福祉に反しない限りに於いて実現されるのである。


だからモンスター保護者やモンスター生徒というのは本来実現して居てはいけないのである。

またモンスター宗教というのもあってはならないのである。

宗教は儲け過ぎてはならず、はびこり過ぎてもならずで、むしろ率先して集団自決する位の控えめな気持ちを常に保っておかねばならない。




要するに全てはバランスである。

均衡、平衡感覚、まさに其の縁起としての現実的なバランスの保持の仕方こそが大事。


第一釈迦の悟った真理にも其の事が真っ先に出て来て居りましょう。



ゆえに憲法または国家がバランスを失い自己矛盾化していてはならないのだ。


自己矛盾化されし破壊を齎すやうな憲法または国家はまさに名ばかりの憲法であり国家である。

そうした意味で今社会が悪いからわたくしは社会が悪いとストレートに述べて居るばかりなのである。