目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

近代とは合理化による宗教の自己矛盾過程である


元より「理性によって納得できること」「正しい論理にかなっているさま」=合理化である。
またマックス・ヴェーバーによると合理化とは「さまざまの要素を矛盾なく、ある目的にしたがって整合すること」だとしている。


従って文明とは此の合理化の産物である。

何故なら文明とは人類の幸福という目的に対し為される論理的で理性的かつ整合的な行為なのである。


文明とは其のやうに無駄を省き幸福を実現する為の営為である。


あくまで本来ならば。



だが現実には論理的でもなく理性的でもない行いが屡文明世界には再現されていく。


たとへば戦争などしてはイカンと誰しもがそう思うのであるが実際には常に戦争は起こり得る。

また全体主義イカン、個の抑圧はイカンと、また不平等はイカン、搾取はイカンとそんなことは百も承知なのに屡全体主義は成立し個は抑圧され不平等は世にはびこり力のある者による搾取でもってして骨の髄まで搾り取られる。


というのが此の下品な世界の基本構造であり、理想とやらにはほど遠い世の実相である。


第一弱者でさえもが威張り過ぎて居る。

かっては弱者だった立場の者が今はもう大威張りである。



女だってかっては諸の掟に縛られて居たというのに、今やカンタンにホストに貢ぐことが出来るやうになりおまけに色情狂のやうな女ばかりになって仕舞った。


そんなアホな女の一体何処が良いというのか。


女はまず女としてのたしなみの部分をこそ徹底して勉強しなくてどうする?


ならば是非女中奉公でもやってみるべきだ。


其処で掃除、洗濯、育児、夫の下の世話などを徹底的に学び生涯それらに縛り付けられていろ。


其れが其れこそが真の女としての幸せだ。




だから無駄を省き幸福を実現する為の営為は須らく矛盾化する。


だから此の女を解放しよう、もっともっと楽にさせてあげようという思想こそが実は女そのものを破壊する。


また是非良い子に育てよう、飢餓など経験させることなく、そればかりか高い教育を受けさせ、まさに末は博士か大臣かで、大事に大事に扱いそしてあたたかく見守ろう。


ところがそういう子に限って、ついコレクターになったり、利己主義化し家庭が持てなくなったり、社会をトコトン批判するやうな悪い子になって仕舞う。


まるで我のやうに。



要するに過保護は人間を本質的にダメにする。




ところが教師は今教育を行うことが出来ない。

なんとなれば今は子供を叩くことすら出来ない。


それどころか生徒様のご機嫌を常に窺い父兄様方のドレイになって居なければ教師としての評価が悪くなる。


自分の通知表がオール1になると無論のこと教師としては失格なのでもう他の仕事にでもシフトしていかざるを得ない。



そうこうするうちにもう教師を目指す人が居なくなるやうな気がしないでもない。


そんな訳でもう何が何だか分からないやうな様相を呈して来て居る人間界、文明世界である。




分からないというのは、これは矢張りニヒリズムということなのではないか。


ニヒリズムに陥った社会は、其処でどう考えても何が何だか分からなくなる。




合理化とは「さまざまの要素を矛盾なく、ある目的にしたがって整合すること」だというのに、何故そんな風に矛盾化し非合理領域に結び付けられて仕舞うのか。


矛盾の解決法そのものである筈の合理化が逆に矛盾の巣窟となりしかも其の矛盾を極大化していくのは何故か?




其れは矢張り合理化の範囲を、其の適正な範囲を考えなかったことに由来するのではないだろうか。


しかもおそらくは大きな範囲での合理化が諸の破壊を加速するのである。



大きな範囲での合理化とはたとへば、女性の合理化、即ち性の合理化。

または生の合理化。



コレが女性の破壊と生の破壊に直結する愚挙であることは火を見るよりも明らかだ。


第一生は合理化など出来ない。


何故なら此の世は地獄であるのだから。



其の地獄を合理化し、天国つまりはパラダイスに変えて仕舞った近代に於ける思想の罪はまさに死罪に相当するものである。


つまりは近代思想そのものが此の死罪としての罪を背負うに至った。


だから近代よお前はもう本当に悪い奴だ。


謂わば死んでも治らない位に悪い奴でしかも馬鹿である。


莫迦は死んでも治らないのでまさに近代は死んでも治らない。


つまりは永遠に死罪でもってしておまけに永遠に莫迦だといふことである。




次に考えなければならないのが、宗教の合理化である。


何故なら近代とは宗教の合理化の過程である。


其れも最後の合理化の過程であり、謂わば合理化としての最終段階である。


宗教そのものの合理化が其処に於いて為され、宗教そのものが解体され変質していくのが近代に於ける合理化の本質である。




尚、宗教とは元々合理化の過程である。


普通宗教は非合理領域のもので合理領域とは無縁だとそう捉えられもするが其れは誤った考えだ。


何故なら宗教は人間をして論理化する過程である。


まさに其れは「さまざまの要素を矛盾なく、ある目的にしたがって整合すること」なのである。



なので煎じ詰めれば宗教=文明である。


宗教こそが文明で、文明こそが宗教なのだ。


即ち宗教の無い文明は存在し得ない。



宗教があって初めて文明なのであり、文明があれば宗教が必然としてある。


そうした関係なのだ。




文明は必然として合理化の道を歩むが、同時に宗教も其処で合理化の道を歩む。



最終的に宗教は合理化という檻に閉じ込められて仕舞うが、其れが宗教の死を意味しかつ合理化の終焉をも意味することとなる。



個人的に21世紀こそが此の宗教の死を齎す世紀なのではないかと考える。




科学技術という近代の神話が其の必然としての宗教の死を後押しする。


其れから平等や自由や人権といった近代の概念ー近代主義ーが須らく其の宗教の死を後押しする。



けだし宗教が死ぬと、我我生身の人間は其処でもはやもたない。


宗教が死んじまったので、もはやあらゆることが自由である。



ホストにしこたま貢ぐこと、ギャンブルに嵌ること、マニ屋になり家庭を持たないこと、大人を大人と思わないやうな悪い子に育つこと、これらの全てが本質的に自由である。



然し其れで心が晴晴として軽いかと言えば決してそうではなく、我我21世紀を生きる人間の心の中身は常にモヤモヤだ。


まるでかの中華人民共和国のひどい大気汚染のやうにドス黒くしかもモヤモヤである。




なので宗教を殺してはいけない。


宗教をバカにするな。



宗教とは文明のことである。


また文明とは宗教である。


従って神社やお寺、または教会などを常に大事にしておくべきだ。



ならば我我の近所のお寺にでも是非出向き、進んで其処の掃除洗濯を願い出るやうでなくてはならない。


下らぬ仕事なんぞはなるべく早く辞めて仕舞い、そのやうな心の功徳を積むことを第一義に据えるべきである。



其れから小学校や中学校の校門の辺りでビラを配ろう。


其処に「お父さん、お母さんは偉い。先生はもっと偉い。でももっと偉いのは神社でありお寺である。何か分からないことがあったら毎日神主さんやお坊様のところへ聞きにいきなさい。また其れを一生続けなさい。」


とでもハッキリ書いておくべきだ。





ただし宗教に於ける合理化の度合いは様々である。


どだい宗教に於ける合理化とは顕在化したものではなかったのだ。


かの近代合理主義のやうには。



かのマックス・ヴェーバーも其の点は踏まえて居り、其処では「プロテスタンティズム」に於ける合理化を極として考えたが東洋起源の宗教に関して合理化が著しく行われたなどとはしていない。


ただし其の中でも原始仏教だけは合理性が高いと考えられて居たようだ。



事実原始仏教ほど合理的でかつ論理的な教義はない。


ちなみに学識豊かな方で、大乗仏教に於けるある種の非合理的要素になじめない方には是非原始仏教経典を読まれることをお勧めしたい。




左様に釈迦の教説は元々可成に合理的である。


然し釈迦の教説からは近代は生まれ得なかった。



では何故キリスト教から、其れも宗教改革を経た上での「プロテスタンティズム」から近代的な要素が醸成されていったのだろうか。


無論其れがより合理的であることを可能とする教義上の癖を有して居たからなのである。



プロテスタンティズム」はキリスト教の反省から生まれたものだった筈である。


其の「プロテスタンティズム」から資本主義が生まれ後の近代主義の成立に向かう流れが生じた。


資本主義と近代主義の成立は然しキリスト教自体を圧迫していくことともなった。



ということは宗教の合理化の必然的帰結として宗教は死ななければならなくなったのである。


そしてあろうことか宗教自体を自決に追い込むやうな合理化が近代に於いて成立したのである。




ところが東洋に於いては宗教ーヒンズー教、仏教、道教などー自体が自決するにまで追い込まれることはなかった。


せいぜい少しづつ堕落し、また少しづつ宗教離れを拡大させただけなのである。


わたくしはそんな東洋の宗教に於ける合理化の方が穏健でかつ好ましいもののように思う。



東洋の歩みは其の一歩一歩が小さいので全体としてもゆっくり進んでいく。


対する西洋の歩みは其の一歩一歩が大きいのか全体としても変化が著しい。



東洋の宗教の、或は東洋起源の思想の好ましいところとはまさにそうした動きがのろいところである。


まるでカメさんのやうにのろいので、多分ウサギさんよりは優れて居ることだろう。