- ウナギが食べられなくなる日
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120710/315508/
スッポンに絶滅の恐れ=護岸工事や乱獲で―国際自然保護連合
人間の社会がフリーセックスだの選挙だのと下品なことで騒いで居る間に自然は徐々に徐々にダメージを受けこのやうに絶滅の方向へと確かに動き始めて居ります。
だから今やメダカは居ないわ、スッポンは居ないわ、それどころか普通のカメも居ないわ、のみならずアメリカザリガニでさえ見ることは稀で、タニシなどに至ってはすでに絶滅したのではないのかと訝れる程に減って仕舞って居るのであります。
其れもその筈で、要するに文明人の頭の中身が総白痴化しー人工楽園化したー大宇宙の理法などどこ吹く風で皆が欲望のドレイですので、たとへば其処で自然のバランスなどといふ高尚な考えが浮かぶべくも無くただただ皆が金持ちになりたくそして綺麗な姉ちゃんを嫁に迎えたいばかりで、それどころか兎に角宗教など面倒くさいものが大嫌いでただただ何も考えず何も悩まず今此の時を安楽に生きて居たい。
其れにあの共産主義は幻想であったのだしもはやあらゆる思想闘争が兎に角面倒臭い。
今まさにかの精神の潔癖性を忘れ大欲望の世界に陥りしバビロン資本主義をどこまでもどこまでも追い求めていく其の餓鬼の様こそが我等の真の姿である。
左様にバビロン資本主義は神の意志に背き地球を破壊する。
のみならず貞操観念も破壊し良妻賢母をもまた破壊する。
バビロン資本主義が地球を壊し自然を壊し我々の精神を蝕んでいく。
さて夏休みになりますと、家の近所の小さな池まで良く遊びにいったものでした。
大体七月の二十日前後に決まって雷雨があり梅雨が明け夏が訪れたものです。
この池の中にはタニシが結構居たように思われます。
タニシだけではなく他にも色々なものが居りましたが兎に角水が澄んで居てとても心地良い池であったように覚えて居ます。
もっとも当時は其れがそんなに凄いものだとは全然思えて居なかったのです。
昭和40年代の前半位までは地方の都市部にもそうした身近な自然が多く残されて居たのであります。
然しそうした自然は全て消えてなくなっていって仕舞いました。
一方で、我々戦後世界の子供も実は大きな欲望に突き動かされ生きて居りました。
それこそ無邪気に自然と戯れるばかりではなく、所謂夢や希望などと近代が規定するするところでの欲の塊を抱え我々は生きて参りました。
本当は夢や希望など無い方がいかにも哲学者や仙人らしくて良いのですが、学校では兎に角夢や希望を持ちましょうと担任の先生も仰るものですからそのようにした方が良いかと考え実は至極適当に其の夢や希望につきわたくしも書いておきました。
でも今のわたくしの夢であり希望である何かとは、人類が一刻も早く自然を破壊する犯罪者であることから更生しまた諸の過分な欲を抑えのみならずフリーセックスを止め今すぐに宗教の世界へ飛び込んでいくことなのです。
宗教の世界へ飛び込むとテロが起きるので恐いなどとも昨今は思われがちですがあくまで其れはそうではないのであります。
昨今のテロによる殺戮は、実は近代が招きし必然性のある出来事なのです。
なんとなれば問題の本質が宗教的対立ではないところにこそ存して居るのです。
畢竟其れは近代化の問題です。
当然ながら近代化が進めば、其処で合理主義的世界観が確立されるに及び、あらゆる思考法が近代化されるといふことなのです。
東洋人は主体性に欠けて居る分、乃至は思想的に柔軟性がある分かって近代化することを悩みはしたがやがては其れを受け容れていった。
然し中東の方では事情はもっと複雑です。
どだいキリスト教はユダヤ教の一派として派生しユダヤ教とキリスト教の影響を大きく受けイスラム教は成立して居る。
是等は謂わば兄弟であり親類縁者でもある宗教なので近代化に対する考え方も東洋に於ける其れとは異なる部分が出て来よう筈。
従ってムスリムの世界観は少なくとも近代化の過程を神の如くに信奉して居るという訳ではない筈です。
近代化という現象はあくまでキリスト教に於ける矛盾的歴史過程が生み出して来たものです。
近代に於いて神が死を迎える代わりに人間はまるで神の如くに豊かになっていく訳です。
あくまで外面的には。
ところが内面は逆に限りなく貧しくなり、ニヒリズムという究極の牢獄で精神の死を迎えるのは誰あろう、自ら神を葬り去ったところでの近代以降の人間自身である。
ムスリムにはそうした流れを是として居ない部分が多分にあるのではなかろうか。
特に原理主義の方にはそうした世界観に対する強い否定、即ち近代化に対する疑念が根強く存在していよう筈です。
話が飛びましたが要するに近代化の流れが至上のもの、良い流れのものであるとはどう考えても其れは申せません。
特に宗教即ち人間の精神を対象とする分野に於いては其れはむしろ悪い流れのものとなって居ることは明らかです。
まあ仏教の方から見ても其れは明らかに悪趣での流れのものですね。
第一フリーセックスだの暴飲暴食だの、揚句の果てに池を潰し川を改変し森を消し海を殺すに至る近代の流れなど容認出来る筈もないものばかりです。
ただし、仏教徒は基本的に批判はしないんです。
批判というのは外面を問題として捉え其処に問題が存すると考える訳ですが、本来仏教では内面にこそ問題は存すると考えるのでそうした真理レヴェルでは批判の妥当性は全的に否定されます。
だからアホの仏教徒だけが世界を論じ批判するものとそう相場は決まって居ります。
声聞、縁覚という知的段階だけは高いものがあるが心がネジ曲がって居るために成仏出来ない人、周りを信じないために救われない人のみが批判と言いますか善悪や良否といった二元論につきまとわれ其処で勝手に正義の理窟をこね回して居るのです。
ちなみにかの宮澤 賢治は、自らを所謂修羅として捉えて居たのです。
生涯を修羅の道として宗教や文學の世界であがいてあがいてあがき続け、それでも結局自分は成仏など出来ない訳ですがそれで良いと考え自らの道を歩んでいったのです。
ですので仏道修行というものは、そうした行き方も確かにあるとわたくしは思うのです。
仏道修行というものは、出家者に限らず在家のものであっても良く、其れも賢治のように文學や行動でもってそう示すものであっても良い筈なのです。
わたくしも昔は随分宮澤賢治を読み込み独自に研究したりもして居りましたが一言だけ彼について語れば兎に角彼の宗教色を考慮することなく其の作品をただ文學的に論ずることは誤りであろうとそう思うのです。
そんな訳で仏教の本質は批判をこえる無批判にこそあるのでわたくしのようなのは仏教の本質でも何でもなくただの気晴らしであるか或は魔の仕業、まさに修羅の段階で繰り広げて居ることだろう破戒的な行為であるに過ぎない。
ですが元々言葉自体もまた真理を記するには余りに不完全なものでしかあり得ない。
言葉の段階ではどんな高尚な筈の言葉もまた戯言であるというそういうことです。
だから言葉は本質的には虚です。
存在するものが皆虚であるが如くに言葉もまた虚なのであります。
言葉や経済、技術、進歩といったそうした諸の近代ー人間ーの業としての欲望が自然を今追い詰めて居ます。
わたくしが小学生の頃は、まさかこんな風になるなんて思うだにしませんでした。
何故なら全く普通、至極普通に、身近に自然が残っていたからなのです。
嗚呼、当時こんな七夕の頃は笹の葉に付ける短冊にどんな言葉を書いて居たことだったでしょう。
多分学校の先生になれますようにとか、欲しいものが欲しいとか、あの子だけには嫌われたくはない、だとか、そんな至極普通のことばかりを書き連ねて居たことだったでしょう。
でも当時は絶対に出て来ない言葉がありました。
其れは「自然を大切にしよう」という言葉です。
自然は、なくなって初めて其の存在の大きさを感じさせて呉れるものです。
其れがどうだ。
いつのまにやら、メダカもウナギもスッポンも皆絶滅危惧種だ。
これで良いのか?
本当に其れで人間の或は文明の行動は誤って居ないと言えるのか。
えーい、どうだ近代よ、狂っているのはまさにお前さんの方なんじゃなかろうか。
個人的に、所謂精が付くかどうかは知らぬが亀の類は食しません。
ですがウナギは好物のひとつです。
いや、幼い頃は鰻と蟹こそが嫌いでした。
然し、ウナギは食せば確かに精が付きます。
だからウナギが食いたい。
特に今は体調が悪いのでウナギを食わずば早晩死ぬることであろう。
ただしスーパーのウナギ、あれはいけませんな。
また吉野家だったか壱番屋だかでやってるウナ丼なども余り食う気が起きない。
矢張りより高級なウナギを食いたいものだが、高級なウナギの場合最低五千円位は出さねばなるまい。
ちなみにわたくしはウナギの皮は食いません。
あのネバネバした皮は嫌いなので残して仕舞います。
そうか其れは確かに物凄い神経質振りだ、どうも御目出とう。
ー勿論高級なウナギ屋で高級なウナギを食し、それでも其の皮は残して参ります。いやー、実に勿体ない、勿体ない。何だか知らんがどうも情けない。ー
どうも最近、当たり前のこと、かっては当たり前にあったことが危機に瀕して居たり壊れかけて居るのではないかと思われてならない。
自然を大切に
http://yahoo.jp/box/_f8UAF
今人類がお星さまに祈るべきこととは、個人の願いや家族の幸せや社会の安泰を祈ることではなく自然すなわち地球を破壊の手から守ることに尽きて居ります。