目覚めよ!

文明批判と心の探求と

「歓喜に寄せて」を批判する


ー年末年始は大掃除にてお休みしますので今書いておきます。ー


其れでは本日はまたベートーヴェンのことにつき述べます。

さてベートーヴェンってヤッパリ気難しかったのでせうね。
が、彼の其の気難しさが何故かわたくしには普通に感じられて仕舞ふ。

何故ならわたくし自身が物凄く気難しいからなのですね。
ただしわたくしの場合には其の気難しさをコントロールすることが出来ます。


だからまだ生きて居られるのでせう。
だが気難しい方の方へドンドン振れていくとアナタ方はもうわたくしには近寄れないですよ。

気難しい其の気がわたくしの周りに充満してバリアーをつくって居るので声さえかけられないのである。

まさにそんな気風ですのでベートーヴェンのことは常に身内のやうに感じられて居ります。

気難しさの上での兄ちゃんと云う感じでせうか。



尚わたくしは二元に分解する其の比率が大きい、即ち分離の振れ幅が大きいのでむしろダラダラの方も理解出来るんです。

たとへば酒飲んで乱痴気騒ぎをして居ることだらう今のアナタ、ほんたうは其れを否定しませんし実は憧れても居ります。

さらにコンパニヨンのパンツを今捲ったアナタ、其のアナタが実はほんたうに羨ましひ。


かようにわたくしは低級なものをバカになどして居りませぬ。

謂わば低級だからこそ高級もあり得る訳で、であるからこそむしろどちらも大事にすべきであるとさう考えて居ります。

逆に真ん中を攻撃することが多いのかもしれません。

むしろ極端に対しては慈悲深い眼差しを投げかけて居りいつも同情的です。



だから気が狂った藝術家に対しても同情的なのだ。

ヴァン・ゴッホにせよヘルダーリンにせよ結局気が狂ったのは彼等の心が悪かったのではなく彼等を取り巻く世界=社会が悪かったのです。

漱石が芥川があんなに悩んだのも彼等の心が悪かったのではなく彼等を取り巻く世界=社会が悪かったのです。



さて、はや年の瀬です。

今年の年末は大掃除を予定して居ります。

大掃除をして其処に禅の神髄をば極めてみたひ。

のではなくタダ異常に汚ひ汚部屋二部屋をキレイにするだけのことだ。


とは言え食いさしのカップラーメンとか腐った何かが転がって居るとかさういうことではない。

だが一センチほどの埃が随所に降り積もって居るゆえコレを除去するのみです。

即ち潔癖の割には掃除が苦手です。

こうして文章にてお話をするのは好きですが手が動かないんです。

人とお話をすることも実は多いのですが基本的には其れもやりたくないです。



どだいこんな気難しい詩人なんだ。

ちゃんと詩を書かせろ。

掃除やら人間関係やらそんなバカバカしいことに此の才能をこきつかい擦り減らすことほど理不尽なことはない!


馬鹿者!馬鹿者!馬鹿者!



と云う具合に所謂藝術家は怒るのであります。

癇癪を起しちゃぶ台はひっくり返すわ、妻に暴力をふるうわ、自殺するわ自決するわ、酒は飲むわ女をつくるわ。

たとへ世の中がどうなろうが関係なく藝術家の内面は常にいら立ちさうして尖り、さらにもってして幼稚です。

嗚呼、まさにかの幼稚園児のやうに純粋なんだろう。



其れが君等の純度とは違ふと言ったまでのことだ。

ところで其の年末の掃除をどなたかにお願ひ出来ませんでせうか。



さてわたくしは年末には決まって「第九」を聴いて居ります。

毎年NHKでやるので其れを聴くのです。交響曲第9番 (ベートーヴェン)

が、本日は其の「第九」に充てられたシラーの詩にあえて批判を試みてみます。



   

かようにベートーヴェンは生涯にわたってシラーの詩集を愛読したとされて居る。



歓喜に寄せて」



おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(以上3行はベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
(以下2行は1803年改稿)
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(1785年初稿:
時流の刀が切り離したものを
物乞いらは君主らの兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ

そうだ、地珠上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
自然がつけた薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄の木と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

天の壮麗な配置の中を
星々が駆け巡るように楽しげに
兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜ばしく

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
聖なる父が住みたもうはず

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界中の者どもよ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう





三年前だったか、年末にTVでもって「第九」を聴いて居りましたが其の折に可成違和感を感じました。
曲にではなくシラーの詩句の方にこそ違和感を覚えた。

まさに此の人類愛を高らかに謳うシラーの詩の何処が気に入らないのか?
まさに普遍的な愛を、人間の可能性と勝利をさうして神の叡智を尊称することだらう此等の詩句のどこが気に障るのか?



1.人間の可能性に対する思想的な方向性の違ひ
2.普遍的な人類愛など認めたくはない


との理由でわたくしは其処に違和感を感じた。


またコレはあくまでキリスト教圏での人類愛及び人間賛歌を説く詩であり東洋的な思想のものには非ず。


でもソレを言ってはおしまひです。

近代はあくまでキリスト教が推進しさうして滅ぼすに至るものです。

なのでわたくしもキリスト教を重視し其の教えは正しいものだともして来ました。

が、其れはあくまで西欧近代型の文明圏に於けるものです。

まさに日本の近代も其の類型での典型なのですが其れでも日本的なるもの、東洋的なるものはいまだ日本国にとり國を動かす文化的推進力として根付き息づいて居ます。


其処が破壊された訳ではないので其れはしかと残って居る。


伝統や慣習はかようにどれが優れて居てまたどれが選ばれなくてはならないと云うものではない。

逆に其の普遍性と其処から齎される人類の価値観、即ち普遍化されし価値なるものが人類としてのより望ましいバランスを崩すのではないか。

近代とはさうした文化的な破壊と搾取の巨大な堆積物なのです。



わたくしはキリスト教には理があるとさう考えますが同時に仏教にもヒンズー教にもさうしてイスラム教にもそれぞれに理があるとさう考えます。


ところが其れ等は元々限定された宗教なんです。

地域性と其の真理の示されるところでの範囲に於いて限定を強いられて居ります。

だとすれば宗教とは逆に限定なんです。

限定であるからこそ其処に真理が生ずるのだ。



ですから、わたくしの考えはあくまでさうした限定主義であり限定の思想です。

愛でさへ限度から生まれ有限の人間であるからこそ人間としてまともで居られやう。


さう逆に愛は限定です。

故に神も限定なのだ。

また自然も限定であり人間自身も勿論限定です。



だからシラーの詩の如くに人間の普遍的な愛をあへて称揚せずとも、また人間の可能性の無限をあへて高らかに謳わずとも人間は元々そのままで幸せなんです。


いえ、確かに不幸なんですがね、逆に不幸だからこそ幸せなんです。

少なくともわたくしは其の両極ともほんたうのことだと見詰めかつ大事にしておきたいんです。


たとへば男性だけが偉いのではなく勿論場合によっては女性の方が偉いこともあります。

だが構造的にはあくまで男性を持ち上げておかねば人間の社会はうまくいきません。

何故なら生命としては男性の方が弱いからです。


また人間の可能性は元々事実として極めて限定されしものです。

どんなに偉い欧米圏の偉人でも大抵が其の晩年には人間の可能性の限界を悟り静かに世を去らざるを得ない。



其の智慧の部分を元来持ち得て居るのが東洋の思想であり文物でせう。

然し其れすらも限定的に局在しているべきものなのです。

かように神や佛ですら限定であってこそ真に多様であり均衡の取れた世界観が生み出されやう。


だからシラーの謳う其の人類の勝利とはさうして人類の普遍化とはまた神とはあくまでソコのものでありココのものではありません。

さらに言えば何故日本の知識層は其処まで考へて人類の価値の普遍化を批判したり普遍的な愛と平和だのが無理だと云う事を述べないのでせう?


違ふでしょう、元より其れは。



だからわたくしの述べたことが分かりましたか?

愛を実現するには逆に愛を求めてはならない訳です。

まあコレはキリストが仰ったことでもあるのですが。

仏陀でも捨てろと仰っていますよ、汝が煩悩を生に於いて均衡させるが為にまず捨て去るのだ。


人間の勝利とか、人間の可能性の無限とか、さうしたことは元来欲するべきものではなく逆に小さい範囲でのみ其れを追い求めていくべきものだ。




「そうだ、地珠上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ」



確かに心を分かち合う魂があると云うことこそが幸いです。


「すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
自然がつけた薔薇の路をたどる」



此処からも現象は歓喜であると云う部分からこそ西欧近代は出発して居る。


「星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう 」



其の星の彼方の神と八百万の神とはまるで違う神だ。
でも違って良いのではなかろうか。
男性と女性が違うものであるやうに違って居ても良いのである。


歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る」



生が歓喜であるか否か、それこそ歓喜ではなく苦痛そのものだと捉へる思想もかねてより多くが存在して居ました。
仏教こそがまさに其の流れを汲むものです。
されどあくまで仏法は生を否定することはない。
仏法は生を否定せずまた生を肯定せず其の事で結果的に生から黙して去る立場を貫く。



キリスト教にも元々其の負の過程としての生の救済構造が存して居た。
其れがルネサンスや宗教界改革を経て生そのものを賛美ー神の被造物としてのーすると云う合理性が芽生えていく。

わたくしは其の合理化の過程こそが近代の本質であり平たく言えば其こそが悪魔化の過程のことだと捉へて来て居る。

故に神は必然として殺されて仕舞ふ訳でありますが、神の死も科学による破壊も所詮は必然としての運命のことなのでむしろ事実として近代は悪魔=悪夢として評価されざるを得ない。



とても歓喜などではあり得ない訳であります。

でもさうした深読みなどせずにサラリと読む分には此の詩はむしろ優れた詩である。


然しかの仏蘭西革命の直後にシラーの詩作品「自由賛歌」がラ・マルセイエーズのメロディーでもってドイツの学生に歌われていたのだと云う。
其処で詩を書き直した「歓喜に寄せて」(An die Freude 1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年 - 1824年に引用し書き直したものであるともされて居る。


かように「歓喜に寄せて」は近代思想の幕開けを告げる詩でもまたあった。

近代思想の根幹を為す自由だの博愛だの無限の可能性だの人間中心主義だのさうした前向きでもってしてまさに生に乾杯!人間様の無限の可能性に乾杯!と云う思想の部分は矢張り色濃く其処に見て取れる。


で、わたくしが最後に言いたいことは西欧近代に於ける価値を至上のものとして捉えて居るタイプの日本人は物事の本質が分かって居ない盲目者であると云う事だけが言いたい。

西洋の文物が大好きなわたくしはむしろ其れ故に近年に至り其れ等の批判者となりつつあるのだ。


ところで皆様は正月に何を食ふお積もりだらうか。

わたくしは富山のブリ寿司が食いたいが三が日も忙しいゆえ買いに行くことすら出来ぬ。

が、年越しそばはおかわりして食ふつもりだ。

さらに餅をたんと食ふ。

其の食ひ方に就いてはまた述べさせて頂く。


かように独逸人や仏蘭西人は普通食わぬものが此の日本国にはある。

さらにやまとなでしこなる良妻賢母がかって此の國には居た。

だからさういうのを是非大事にせよ。


でもわたくしは「第九」を聴く、聴き続ける。

何故ならベートーヴェンこそがわたくしにとっての兄ちゃんだからなのだ。

勿論苦悩の上での兄ちゃんだと云う事だ。