目覚めよ!

文明批判と心の探求と

一見良さそうに見えしルソーの教育論が抱える矛盾




エミール:ルソーの教育論



ジェンダーフリーセックス思想は事実としていけない考えであることをわたくしは先に示しました。

そして、もうひとつ、「道徳」「倫理」の否定という考えも其れはやってはならないいけない考えなのでありましょう。


さらにもうひとつ、宗教について正しい知識を教えない日本の公教育はまるでなって居ないことだろう。


いや、他の国では皆ちゃんとやって居りますのですよ、まさに其れは当たり前のこと、全く当然のことですので。



実際小学生から携帯やスマフォを持ち同級生の悪口やフリーセックスの生画像ばかりを見て、しかも其処で「道徳」や「倫理」を教えられることなく、ましてや宗教など何か悪いことのやうに忌避され続けて居るのだとして、其れでもって、アンタ、まともな日本人が育つと思われますか?


ですから今この日本国では狂と虚とに、或は淫と悪にまみれし腐った人間しかつくれないのだとしか申すほか御座いません。


であるからこそ性について正しい知識を教えるのではなくあくまで性は淫靡なものでコソコソ隠しておくべきものなのである。



なんとなれば先に述べたが如くに性は解放されればされる程に事実として女性の体の遺伝子を不純なものとして仕舞うからなのである。

古来多くの宗教が性の上での放埓な行いを禁じて来て居るのは何故か?


勿論危ないからである。


女の体が危険だからこそしてはならないことだったのである。




性なんてそんなものは放っておけば自然と知ることも出来ようしいつかは身につくことだ。

事実我々五十代の人間はそんな風にしてコソコソとやってきたが其れで何の不自由もなかったぞよ。


そんなものを教え込むのではなく道徳や倫理や宗教につき教え込まないで一体どうするんだ?




さて言うまでもなくかのルソーに代表される啓蒙思想が近代という時代を切り拓いていった訳である。

Wikipedia啓蒙思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3


Wikipedia-自然状態
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B



「万物をつくる者の手を離れるときすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる・・・こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちを押さえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう」(「エミール」今野一雄訳、以下同じ)




結局人間、と申しますか存在そのものが悪の方向性を持たざるを得ないものなのである。

謂わば神仏と直に繋がって居るものは存在化されることはなく謂わば善悪の区別を超越して居るものなのである。


然しいざ其の御手から離れて仕舞うと、全てはより悪くなる方向性を向かざるを得ない。


人間は自然の状態では自由でかつ平等であったが、社会を作り、文明を進歩させることで諸の矛盾を形成し堕落せざるを得ないのである。



其処でどうしたら良いのだろうかという点につき彼は彼なりに考えたのだった。



即ち自然状態としての人間の本質的なあり方、自由であり平等でもある其の本質=絶対性を取り戻す為の方策を頭の中で練ってみた訳である。


其の結果、ひとつには相対化されし自己というものが出て来る。


だから「社会契約論」は、政治レヴェルで絶対性を回復させる制度がどのようにして可能かを論じたものであり、一方「エミール」は、人間個人としての絶対性をどのようにすれば取り戻せるかを論じたのである。



然し純粋に観念的には、存在として今ある人間にはあくまで絶対性は与えられ得ないものなのだろう。


存在化するということは、元々そういうことなのである。


存在化=相対化ということなのであり、存在化=非本質化、存在化=不純化、なのでもある。




ルソーの語るところでの教育とは、畢竟其の成らぬ絶対性への回復の流れを説いたものだ。


其処で人間存在の抱える矛盾そのものを説いたのだと考えられなくもない。


所謂-自然状態-にあっては自分だけが絶対であろう筈の人間が社会的に虚の役割を演じていかねばならない。


即ち他人や他人の集まりである社会のことを常に考えて居ますよ、といった社会的客観的自己を形成せざるを得ないのである。


そういうのはあくまで本質にとっての離反となるので、教育の役割としてはそうならないように何かを矯正しておくということなのだろうか。




「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のある事ならできないはずがない・・・わたしたちが本当に研究しなければならないのは人間の条件である」




元より人間は本質的には平等なのだとも言い得る。

つまりは平等に負債乃至は瑕疵を抱えし生きるものなのである。


だが此の負の世界として構築されし現世に正の平等など元より無く、平等にあるとすれば其れは平等の負債であり瑕疵なのである。



近代的な教育即ち社会的な自我=虚の自我を育むことは一面で良いことのように思われがちなのだが、ルソーの言うが如くに其れはあくまで自然の状態からは離れた段階の自己へと自己矛盾化していかざるを得ない矯正のことなのである。



其の意味ではルソーの哲学は大元では正しいものだとも考えられよう。


そればかりか文明が進むにつれ社会化した人間が堕落するというくだりなどもまた然りである。





然し結果的に啓蒙思想からの近代の思想の流れが逆に人間を堕落させて居ると考えられないでもないのである。



平等であり自由である筈の其の思想の流れこそが「道徳」「倫理」の否定、宗教の軽視に事実繋がっていくのである。


だから其の様こそが自己矛盾過程そのものであるとわたくしは指し示して来て居るのである。



事実平等を追い求める余りに悪しき「平等主義」や過激な「男女共同参画社会」やジェンダーフリー思想を蔓延させては元も子もないのではなかろうか。


其れとくどいようですが、フリーセックス思想だけは即刻止めておいた方がよろしい。


なので子供に諸悪の根源であるネットを見せるのは今すぐに止め代わりに少年少女世界文學全集や宗教書などを是非与えよ。



さすれば「道徳」や「倫理」もまたすぐに復活することであろう。

また宗教に対するアレルギーなどもすぐにおさまることうけ合いである。




尚、啓蒙思想家達がいずれも自然状態を、「それだけで完全に自足的かつ持続可能な状態とは考え得ないことで共通している」ことに対しては些か反発を感じて仕舞う。


実際近代の思想は巨大になり過ぎていく社会と其の社会が望む欲望を鎮静化するどころか逆に煽っていく始末である。


ところが、むしろ其の煽りにより諸の破壊を齎していくのである。



ということは、近代へと連なっていく其の苦し紛れの思想こそが人間を堕落させかつ抑圧し搾取する元締めともなっていくのである。


確かに近代の思想と其の前段階としての啓蒙思想の本質は人間を諸の矛盾から解放することだった筈だ。


然し今、逆に近代の思想こそが地球を壊し人間を壊し思想そのものを壊しにかかって居るのである。




要するに、其処ではもはや何も考えるべきものが無い。


カネとモノさえあり余る程にあれば、もはや人間は何も考える必要がなくなるのである。


然し、其れは思考の放棄ではなく無思考への隷属なのである。



つまるところは、其処で精神的な内容のものが根こそぎ破壊されていくということである。


だから真の堕落とはまさにそうしたことなのである。



近代の思想が人間をして良きもの、立派なものにしていきたいと願う余りにつひやり過ぎて仕舞ひ逆に此の世を無秩序化し未来の無いものへと追い込んでいくのである。


だから人間は今一度考えなくてはならない。



其処では一度全部捨ててから考えよ。


会社も捨て家族も捨てたとへば世界中を托鉢して回るのだ。


すると、啓蒙思想の根本の誤りも見えてこよう。



否、啓蒙思想、実は其れ自体は正しい、正しいのだ。


ましてやルソーも正しい、其れはあくまで正しいのだ。


だが結果的に其れは破壊へと組み込まれていくのだ。




そういうのこそが人間の、そして社会の抱える矛盾であるとわたくしは述べて居る。



破壊の其の例


人間は平等である→同じ人間である男女は平等である→恥ずかしがる必要はないのでフリーセックスでよい。また女性が大統領になり首相になり社長になり校長になることこそが望ましい。

進歩は正しい→小学生には是非スマフォを持たせエロ動画を沢山見せるべきだ。また科学技術や金融経済こそが事実上の神であり宗教は必要ない。

教師や警察官も人間である→ゆえに時には淫行を為しても良い。それに自衛隊に女戦闘機乗りが居ても全くおかしくはない。

地球と宇宙は無限である→何故なら理性に培われしところでの現代文明の可能性は無限であるから。兎に角無限にしちゃえ、そうでなきゃ実際此処まで来ちゃった我々はやっていけない。



との実に不遜で邪な心から文明は今まさに自らの首を絞め続けて居るのである。