主の祈り目次 http://www.ss.iij4u.or.jp/~ana/inori.htm#orth 上記は検索で得た主の祈り(主への祈り?)のヴァリエーションである。 尚わたくしは他の宗教であろうと基本的にこうした謙虚さに満ちた人間の祈りというものは嫌いではない。 何教であれ、何宗であれ、心の底から希求する何かが迸り出ているような言葉は嫌いではないのである。 そこで一種敬虔な気分になれるからこそ嫌いではない。 この祈りの言葉の中で、わたくしが今一番気になっている部分とは「日々の糧を人間に与えて下さい」という祈りの部分なのである。 たとへばこの中では、 『我儕の日用の糧を今日も與へ給へ。』 『我らの日用の糧を今日も与えたまえ。』 というのが特に気に入ったのであるが、上の方のは漢字が少し難し過ぎるのでやはり下の方が一般的には通りが良いことだろう。 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」 これは全然悪い言葉ではない。 本心よりの人間の願いのこもった良い言葉である。 しかしながら、今日我々は本当にそう思って生活して、かつそう思って御飯を毎日いただいているのであろうか。 いや、全然そうではないのである。 少なくとも一般的にはそうなのである。 イエス・キリストが生きていた頃ならばいざ知らず、現代は飽食により食に対する感謝をスッカリ忘れた時代である。 我々の食事のあり方は極端であり、それは生命の維持という食の本質に沿った形での食事ではない。 ではなぜ一体こんなことになってしまったのだろうか? イエス・キリストはかって「今日この日のためのパンをわたしたちにお与え下さい。」と述べられたそうである。 しかしこれはあくまで今日この日のためのパンを与えて下さいということなのである。 そこで来年の分、あるいは50年、100年後の分までの御飯を与えよと言っているのではないのである。 それは「今日この日」の分だけで良いのである。 それも、そこでは誰しも家族全員の御飯の分量を期待してしまうのではあるが、ほんたうは多分そこで願うのはあくまで一人分までのことなのであろう。 わたくしは信仰を貫くから今日この日の体を支える分だけの御飯を下さいと言っているのであろう。 では翻って仏教ではどうなのだろう? 仏教では仏道修行中の者、つまり沙門は本来ならば食を乞うて生きるのが基本である。 何でもよろしいですからこの体を維持するために食べ物をお恵み下さい、である。 今日この日の糧を布施して頂きたいだけなのである。 どうでしょう? 一見全然違うと見えたキリスト教と仏教でも、その原点にあるものは結局至極謙虚でストイックなものではないですか。 生きる上で必要以上のものを求めない、それが本質的な生活へ至る道なのである。 現代人はなぜその大事なことを忘れてしまったのだろうか。 現代の諸の堕落の中でも特に食の上での堕落ははなはだしいものがある。 かく言うわたくしの食生活なども実はひどい。 兎に角旨いものばかりに惹かれる。 のみならずそこで主食だけにはとどまらず、甘いデザートなども大好きだ。 だからそうした食生活自体が多分本当はダメなのであろう。 されど現代人はもはやこの飽食の習慣から抜け出すことなどは出来ない。 現代の常識はかっての自然に近しい生活から見た場合にははなはだ非常識なものだ。 現代の常識とは大抵の場合事の本質に背いて歩むものなのである。 2012/03/08 |