社會的価値と實存的価値とが異なる点ー社會と實存との関係性に就いてあえて難しく語るー
要するにソノ「文學」だの「藝術」だのさらに「哲學」だの「宗教」だのの側こそがソノ「實存」と向き合う価値となる訳だ。
故に単にケッコンし會社へ行き稼ぎ周りと上手く付き合い生きることは往往にして「實存」と向き合わぬ生き方となり易い。
逆にワタシのやうな文哲ニンゲンはさう「實存」と向き合う価値の方へと頭の中身が特化して仕舞っとる。
なのでまさに常識的にはなかなか理解され難い頭の中身となるがでもソレはアタマが狂っとるのでは無くしてつまりは頭の中身が高尚過ぎるのだ。
でもさうしたタイプの御仁はまた狂う場合もまたありますので兎に角いつも自己チェックを怠らぬやうにせねばなるまい。
まあ兎に角自分の場合は至極正常な心性です。
故に別にアノ藤原 紀香氏の股の間のことなどにはまるで興味が御座らぬ。
ーもはや可成イってませんか、もしやソレ?
いいえ壱mmもイってません。
ああさうですか、ではソレを信じませう。
【悼む】和泉雅子さん死去 顔のシミは北極と真っ正面から戦った勲章 俳優業から遠ざかるも潔く
さてソノ和泉 雅子氏などもまたさう社會的な価値とはまた別に實存的価値を追求された方なのではなかったか。
さう實存的価値が追求される場合にはウソー化粧ーの部分が剝がされて行き素の侭での彼女の表情が映し出されて來る。
故に次第に世により齎される「虚飾」の部分とは縁が切れ物事の本質面と常に対峙して行くやうになるのである。
よって彼女の場合もまた「眞言宗の僧侶」であったと噂されても居るのだ。
いずれにせよさうココロを純粋化すればする程に世俗の価値観とは縁が切れさう「僧侶化、乃至は仙人化」して行くものと相場は決まっても居らう。
でもってしてさう「僧侶化、乃至は仙人化」して行く場合、若しくはかの大詩人の如くに藝術化して行く場合に限りむしろ「死の世界」とは親和性が生じて來やう。
逆に言えば常識的なニンゲンはそんな「死の世界」がもう怖くて怖くてタマラナイ。
ですが宗教者や詩人、さらに哲學者などはまたそんな心性には縛られぬことともならう。
とは言え個人的にはあくまで「死」が怖い。
だけれどもボクがほんたうに怖いのは常に「生」の方なのさ。
兎に角さう認識の地平が變化する。
さう「實存」の方向へと認識がズレることで苦も無く「實存」的価値の全てが理解されるのだ。
でも逆に「日常的常識」の認識世界がとんと分からなくなったりもまたするのでほんたうはソレも極めて危険なことなんだが…。
いずれにせよ「詩」にせよ「宗教」にせよ「冒険」にせよまさにそんな壱種の離れ業のこととなりまさに誰もがやれることでは無い。
但しソレはさうココロが「観える世界」とは違う方向へと歩んで行くことで「観えない価値」の方でやりたい放題がやれるやうになることなのです。
さても本日はナゼカ如何にも「夏らしい」ヨイ日となる。
暑過ぎず空気が軽くさらに靑き空に浮かぶ白い積乱雲が美しい。
また朝方はむしろ寒かった程だ。
さう云うのはむしろ昭和の頃の夏休みをこそ思い出させて呉れる。
ですがわたくしは昨日、今日と主に物質の整理をしておった。
物質の整理=石の標本の整理であり万年筆の整理である。
ソノ大箱の中に幾つもの瓶詰めの石と瓶詰めの万年筆が入れて有るがソレの封が甘くソコからもうどんだけ🐱の汚ねえ毛が入るやら。
また時に蚤なども入るのだ。
ちなみにワタシはかう潔癖ですのでそんな不潔なトコロが壱番キライだ。
其のクセ極端な性格故に掃除をしない部分は拾年位もせず。
…うはあ汚ねえ。
あれだがどんだけまたヒスイが有るのだらう。
さう翡翠の瓶がコレで五つにもなりました。
さう兎に角翡翠の標本をナゼカ定期的に買っております。
さてもコレはなかなか良い標本だ。
ナゼナラコノ石を壱ヵ月程毎日洗って居たところ次第に白い部分の粉?が取れ全體的に緑色が出て來た。
尤もコノ濃い緑色の部分は翡翠なのかどうか分らず。
されど白っぽい部分は間違い無く翡翠となる。
コレは石の質が良く石全體が所謂摺りガラス状で昔大金(四萬位だったか?)を出し買ったものとなる。
だが画像は半分インチキでまさかこんなに緑色では無い。
されど石の質自體が相當に良い。ー光が兎に角透けるー
ソレと今年求めたミャンマー翡翠も有るがコレ等は「枕」にしやうとして求めた物となる。
こちらは矢張り摺り硝子状にて石の質が良く光の透過が良い。
またこちらは文字通り「翡翠の枕」として使える物となる。
たまにではあるがコレを枕に用い昼寝をすることがある。
さてかうした物質のことですが物質は所詮物質です。
要するに先に述べました「實存」的価値とは正反對な価値のことだ。
ですがあえて難しいことを言えば「物質」的価値は即「實存」的価値に影響する。
例えば先に述べた昭和的な夏としての靑い空や白い入道雲は皆「物質」的価値となる。
ソノ「物質」的価値がわたくしにさう「昭和の夏」を思い出させる。
實存的価値⇔物質的価値
ソレがさう交互に影響し合う。
まさにそんな関係こそが縁起的妄想世界での實相だらう。
またソノ「縁起関係」に於いて「優劣の差」=ヒエラルキーなどは生ぜず。
故にソコに於いて「精神論」の方が上だとさう思い込むのは誤りだ。
また逆に物質的価値の方に重きを置くのも誤りだらう。
さて現實の鉱物観賞へと戻りませう。
ワタシの翡翠の蒐集はあくまで「實存」的に規定されるものとなり要するにたまたま縁が有り手元に來た石バカリ。
しかもほぼ大金をかけて居らず。
即ち翡翠を集め始めたのがココ五年バカリですのですでに現役を終えてから凝り出した石趣味となる。
ソレでも尚ココ迄のことがやれます。
ソレと翡翠原石は日本海側の海岸にしか出ずよってワタシの糸魚川翡翠の原石の全ては現金にて購入したものとなる。
さてコノ緑の石である翡翠原石はワタシのココロに大きく影響を与えて居る。
故に物は所詮物なのではあれイザココは縁起世界ですので物と心とが相互に影響し合うことともなる。
と云うのは必ずしもリクツのみなのでは無く感覚的に得られる眞理なのでもまたある。
ー物と心が相互に影響し合うー
さうソノことこそがむしろ言外ー言語関係以前ーでの眞理=ほんたうのこと、なのだ。
でもってしてまたリクツへと戻ります。
即ち、
實存的価値⇔物質的価値
精神⇔物質
との縁起関係に於いて、
1.単独(単體)での価値は無く
さらに、
2.価値ヒエラルキーは存せず
また、
3.優劣の差も存せず
となるのです。
但しソレはあくまで「實存」的価値に関する命題となる。
逆に、「社會」的価値に関し、
4.単独(単體)での価値が有り
5.価値ヒエラルキーが生じ
6.優劣の差が生ずる
のです。
ですのでボクの翡翠もまた社會的尺度を与えた途端に、
7.こんなもんドコで買ったのかよりによりこんな屑石を!
8.おおまるでアノ藤原 紀香氏の股の間のやうに美しいイイ石だ!!
9.うんコレはもうどう考えてもネット上で売られて居る糸魚川原石の方が上だ!!!
とのつまりは「相對的価値観」へと晒されて仕舞う、要するに自分の石を自分の石として絶對的に愛せなくなる。
いやさうなのかではまずは「藤原 紀香氏の股の間」のことにコダワルべきでは無い。
ナゼナラソノ「股の間」は「股の間」でドコの「股の間」でも似たやうなものだらうて。
次に社會が屑だとさう断定する翡翠原石をむしろ愛さうではないか。
おおまさにアノクリストが隣の石を愛せとさう仰ったのだから故に。
さらに「ネット上で売られて居る糸魚川原石」はまず例外無く高価だ。
しかもバカみたいに高価な糸魚川原石が最近は特に増えて來て居りし。
とのことで結果として、さう「社會の価値観」に左右されぬ「實存的趣味としての翡翠原石蒐集の世界」に徹底することと此の度相成り申した。
兎に角ソノやうに「石」の世界もまた哲學し得る。
そんなことをやってるのはむしろアンタダケだ。
あーイイですよどーせボクはこんな心理的な變態なんだからー。
さて社會的価値と實存的価値との間に本來ならば優劣の差など無いのであります。
ですが社會的価値は常に威張り腐りむしろ實存的価値をトコトン搾取するに至ることがほとんどだらう。
なのでむしろさう搾取されたりまた洗脳されるに及んだりせぬやう美しい物を観てゼヒココロをば喜ばせやう。
タンザナイト 268(大型) タンザニア - 鉱物標本・隕石標本販売のWeb専門店 エヌズミネラル ||鉱物標本・隕石標本の販売・通販
うわっ、かうクソ高い値段ながら綺麗だ!
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-異なる輝き
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-宇宙から來た1
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-宇宙から來た2
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-非常に古い
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-超新星爆発起源説
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-「ブラック・オルロフ」
ブラックダイヤモンド:地球上で最も硬い神秘の宝石-コルロフ・ノワール・ダイヤモンド
さうソノ黑がまた美しい!!
こんな黑い石、さうソノ「黑」コソが石趣味での最終地点なのかもしれません。
ちなみに五年位前に鉱物展で「モリオン」の標本を求めて來しがソレがまたまた黑い!
ですがこんなブラックダイヤのことは知りませんでした、おお世界は広くまさに何でも有る訳だ。
いずれにせよそんな超高価であり自分とはまるで無関係な石であれソレが有るとのことを知るダケでも認識は變化します。
たった今個人的に求めて居るのはまさにそんな意味での「認識上の變化」なのであり物質的次元に於ける所有や観賞自體では無いのであります。
物はタダ美しくソコに有り自分とは無関係のやうで居て實は大いに認識の上で関係して居た、的なことを考え且つ目指すところとして來て居る。
故に物質での上物を独占したいとの欲なのでは無くソレが無いのでは無くまずは有る、とのことをさう體験的に知り続けて行きたい訳です。
さうして物はまさにバカにならないのです。
ソレを例えば養老 孟司流に言えば「體はウソを付かない」てなものとなりつまりが物質は至極「正直」なのだ。
ソレもまあバカ正直なので例えばワタシが67歳で死んでも(イマは66歳ながら)コノ翡翠の標本は多分半世紀、壱世紀先迄残るのです。
そんな訳で物には物としての意味がちゃんと有る、と云うやうなことを今回は述べました。
また高級な物であれ低級な物であれまさにソノモノとしての實存への関わり方自體に優劣が存する訳では無い。
よって石であれ🖊であれまた股の間であれ皆ちゃんとそれぞれに価値があります。
またさう価値が有ると観るのが宗教であります。
ソノことは壱神教であれまた佛法であれまた神道であれ皆同じことでせう。
ではアナタはアナタの翡翠原石をトコトン愛したった今もソレを左手に握って居られやう。
いやまるで違います、たったイマワタシが左手に握るのがラピス・ラズリで出來た小さな石搭です。
コノラピス・ラズリもまた兎に角靑くて綺麗で…。
よりによりそんな浮気をして居るとは!
いや石に浮気もナニも無くナゼナラ生ものでは無い。
ソノ生ものコソが「股の間」ですぞ。
ではソノ石搭をどうしたい?
どうしたいって単にソレを握りつつ物事を考えるダケのことだ。
ワタシに取り石とはあくまでさう思考の為の道具なんだ。
でもってナニかを考えたらソレを🖋にて書き留める。
さて以上のこともさう翡翠原石を愛でつつ哲學的に纏めてみたこととなる。
最終的にさう石はわたくしの思考に取り無くてはならぬ物となる。
さうまさに思考ソレ自體が石と相剋し且つ相即する。
ソノ意味では確かに宗教が述べるやうに物はソレ自體が神でありソレを全能の神と呼ぼうがまた大日如來と呼ぼうがまるで構わぬやうにも思えるのです。