谷川 俊太郎先生追悼ー谷川 俊太郎先生の詩は結果晩年のものにせよ至極難解ですー
さても本日は昨年亡くなられた谷川 俊太郎先生のことを書かせて頂きます。
ソノ谷川 俊太郎先生は半分愛知県人で相當に變わって居りつまりが藝術家=詩人としてはまさに壱級の方であった。
まさに戦後の🗾を代表するであらう詩人であられた。
さて谷川 俊太郎先生の作品は概して哲學的なものとなりとりあえずは難解です。
ですがソノ難解さがほんたうの難解さなのかと言えばさうでは無くむしろ當たり前のことを當たり前のやうに書いて居たりもまたする。
また決して哲學者ソノモノなのでも無い。
要するにソレが詩との藝術です、まさにソノ詩なのだ。
尚詩とは元元至極厄介なものです。
ですので詩人なんてそんなものはまず普通のニンゲンでは有り得ず。
どだい🗾の戦前の詩人なんぞは皆普通のニンゲンでは有り得ず。
ソレもまあ霊能者だの巫女だのそんな者にむしろ近いのだから。
ソレと勘違いしない方がイイのは詩人は言葉でもって現實を美化するのでは無い。
詩人はさう言葉でもってむしろ現實を疑い且つ責め立て時にはブチ壊したりもまたするのです。
兎に角さう「詩」もまた「詩人」も同時に厄介なのだがナゼさうなるのかと申せばソレは詩の世界が「實存」的価値に関するものであるからのことだ。
ですが世間ではまずそんな「實存」的価値に関しコダワルことなどが無い。
さう「實存」的価値に関しコダワル分野はソレこそ藝術や宗教、また哲學などの分野に限られて参る。
故にまずはソチラでの目で持って観ていかないと藝術や宗教、また哲學などの分野のことは理解されない。
要するにオハヨー今日も元気だ、サア朝飯を食い💩も出してでは會社へ行かう。
ソレとはまるで違い朝からナニやらモヤモヤとして居る。
アアだが豪雨の中庭に出たら露草がまるでアノ世の景色のやうに咲いて居るではないか。ーさう露草の靑に彼の世を感じる朝だー
なのでまずはソレが詩です、さう會社やら社會の動きとはまるで関係の無い純粋的な實存の體験のことだ。
でもってして谷川 俊太郎先生の作品は主にソノ實存的體験を書き綴ったものとなる。
兎に角さう「詩の世界」と「現實世界」は基本的に異なる。
詩は内面の表白であると同時にさう實存の描写であり叫びとなる。
さらに「詩」は常に世界との不和をモチーフとするが「現實世界」は常に世界との調和をモチーフとなす。
尤も宗教や哲學の目的もまた最終的には世界との調和をモチーフとなすものであらう。
故にむしろ本質的に「詩」と「宗教や哲學」とは異なりませう。
そんな谷川先生による晩年の詩を読んでみますと矢張りクセと申すのか相當に捻った感度が感ぜられあくまでストレートでは無い。
ストレートでは無いのですが最終的には至極ストレートに読み手に伝わるところがまさに大詩人としての力量を感じさせる部分となる。
さても谷川先生は「文明」をどう捉えられて居たのだらう?
例えば加島 祥造先生などは「文明」に於ける認識を批判的に見詰められ「求めない」と云う詩集をかって出されたのだった。
「求めない」は仙道思想の側からの現代文明批判の作品であり要するに文明による認識の洗脳から「目覚めよ!」とさう述べるものとなった。
さて谷川先生が「文明のことをどう考えて居られるのか?」との部分を上の朝日新聞の記事から探らうとしたところあいにく有料記事にて視られなんだ。
全く何なのだコノ儲け主義は!!
ですのであくまで個人的な體験ー實存的経験ーのことを御話致します。
またソノことはすでにこちらでも何度も書いて居ります。
ソレは先生がかって御書きになった「鳥羽」の連作に於いてワタシの精神が大きく揺さぶられたことを書いたものでした。
谷川俊太郎
かう壱遍読んだら忘れられなくなる程の主張の強い詩である。
では何でコノ詩がかう我我のココロに突き刺さるのであるか?
ソレは結局「正直」なんです。
ソレもナニに對し正直なのかと言えば「實存」に對しウソ偽りが無い。
でもってして以降(多分1990年代のことであったと思う)はソレこそ現代詩手帖の特集記事やらまたネットなども参考にしコノ詩人はココでナニを言いたいのかと云うことに就き自分なりに調べてみたのでした。
さうして最終的に谷川 俊太郎と云う詩人がココにて言いたかったのは「詩の放棄」=「言語の放棄」のことなのではないかとさう思い當たる。
またソレも至極哲學的に難解な御話なのであり壱種浮世離れしたつまりが現實離れした御話なのですがどうもソレである。
「言語の放棄」=「言語が持つ美辞麗句性に對する放棄」
ですがソコ迄行っちゃいますともはや「詩」もナニもネエ。
なのではあれ確かに、
あれ君の瞳は百万ボルト!
あれ君の瞳は嗚呼まるで神秘の湖ソノモノだわ!
などとまさにクサい文言にて腐った👩のココロを掴むとのソノ邪なる言語表現の世界が。
そんな世界がかの潔癖なる詩人にはまるで通用せなんだとの御話だったのです。
谷川 俊太郎=宇宙壱潔癖なる詩人
尚谷川氏はドコか宇宙人のやうであったのださうな。
そりゃさうだわな、何せ彼は詩人のフリをするダケの宇宙生命體なのだから。
尚「言語」には元來大きく問題が有る。
なんとなればまずは初めにコトバ有りき。
のソノコトバのことながら例えばユダヤ教~クリスト教に至る壱神教的世界観の場合にはコトバが即神でせう。
故に無論のこと「旧約聖書」にせよまた「新約聖書」にせよ常に神のコトバとしての「観念」が大事なのだ。
またソノ神との契約の印としての「法」が重視されたりもまたする。
ですが例えば東洋思想に於いてコトバは左程重視されて來ず。
曰く仙境とは言語を離れて遊ぶものなり。
また逆に禅宗などは言葉(観念)を嫌ったりも致します。
また佛法ソレ自體がむしろ言語による認識世界ソノモノを極論だとして退ける。
ソノ点からも東洋の大詩人である谷川 俊太郎氏がソノ言語の非實體性のやうなものを詩のテーマに据えられたことは至極自然ななりゆきでもあったことだらう。
ソノコトバへの本質的懐疑の部分を詩人はかうしてたたみかけ伝える。
さう言葉への旅は常に頼りなく不確かなものとならざるを得ぬ。
つまりはナニを言うにせよソレは飾られたコトバ、虚飾にまみれし表現にしかならず基本的にまるで小学生の学芸会のやうなもの。
ソノ言語が基本的に担う幼稚性の部分、言語表現に与えられる虚飾性のやうなものを詩人はかうして徹底的に叩く。
要するに「鳥羽」の連作詩でもってテーマとして掲げられたものとは「言語ソノモノ、詩表現ソノモノへの懐疑」のことであった。
さうして現世利益にこそ照らし出される詩人の肉體と自然。
ソレに妻と子との👪主義が!
アアソレ等はほんたうに彼詩人が書き描き出したいものなのか!!
いずれにせよソレは他の詩人が誰も気に留めなんだ大問題だった。
だがソコに大問題が有りソレを谷川 俊太郎なる宇宙人詩人ダケがしかと観た。
本当の事を言おうか - jmiyazaの日記(日々平安録2)
谷川俊太郎/香月泰男『旅』レビュー | 現代文学100字レビュー | 旅と現代文学。
ま、ですのでまさに「本質的」な意味でのギモンなのだった。
もしやアナタもまたそんな谷川 俊太郎(本質的文人)化することなどが出來る?
いや多分やれますがおそらくソレをやると生活が成り立たなくなる。
何せ力が無くまたカネがネエですから早う稼ぎに行かんと。
なので例えばパトロンが月給弐拾萬で詩人として雇って頂くのでしたらもう何でもやりますのですが…。
二十億光年の孤独
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或は ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
詩集『二十億光年の孤独』(引用は『自選谷川俊太郎詩集』より)
尚現代詩の読解などを例えば国語の教師などが屡行う訳ですがソノ内容を余り信用などはせずむしろ御自分で感ぜられたところでの感想をストレートに受け取るべきだらう。
ちなみにワタシはかうして社會科の教師ですが高校時代にほんたうに出來たのは現代文の解釈の方でソレは當時の教師以上にナゼカやれましたのです。
ありゃだがコノ詩はまさにイイトコを突いておる。
特に火星への移住妄想にやられて居ることだらう現代人のココロの様を克明に描き出してる。
さうしてまさに本質的にニンゲンー實存ーは孤独だし不安だし且つバカである。
だけどまさか火星人は居ないことだらうな。
いやソノ火星人以上に谷川 俊太郎氏の「鳥羽」にはやられた。
もうやられっ放しで以降は詩を読んだりもせずに居たのだがたまたま加島 祥造先生のことを知りズバリ「求めない」との詩集にハマる。
では「求めない」と「鳥羽」はどちらがよりスゴイのか?
ズバリ申して「鳥羽」の方がすげえ。
ですが「求めない」の方が現代人に取りより重要な詩集です。
ソレがつまりは「仙道思想」に於ける認識をこそ説くものであり半分いや八割位はむしろ「思想書」です。
粗朶拾う老婆の見ているのは砂
ホテルの窓から私の見ているのは水平線
飢えながら生きてきた人よ
私を拷問するがいい
私はいつも満腹して生きてきて
今もげっぷしている
私はせめて憎しみに価いしたい
老婆よ 私の言葉があなたに何になる
もう何も償おうとは思わない
私を縊るのはあなたの手にある
あなたの見ない水平線だ
かすかにクレメンティのソナチネが聞こえる
誰も私に語りかけない
なんという深い寛ぎ
鳥羽6
海という
この一語にさえいつわりは在る
けれどなおも私は云いつのる
嵐の前の立ち騒ぐ浪にむかって
海よ・・・・・・
そうして私が絶句した
そのあとのくらがりに 妻よ
お前の陽に灼けた腕を伸ばせ
何の喩も要らぬお前のからだ
口が口を封じる
匂いのないすべる汗
だが人は呻く
呻きは既に喃語へと変る
熱い耳に海よりも間近に
鳥羽8
昼になれば
これが優れた詩でない事が分るだろう
だが私は私の文字を消す事が出来ない
人々が市場へと集る時に
私は卓上の水を飲み
その他に何もしていない
かなた木の間がくれのプールサイドに
白い彫像が立っている
あれが私だ
あらわな睾丸を人目にさらして
模倣に模倣をかさねて
私は成った
オルフェとは似ても似つかぬ
石塊に
鳥羽10
出発の朝
途切れることのない家族の饒舌に混る
ひとつふたつの土地の訛り
風は私の内心から吹いてくる
鳥羽はすでに一望の荒野
乾いた菓子の一片すら
犠牲の上にしかあり得なかった
書きかけて忘れてしまった一行を
思い出したい
一語すら惜しみ
私は言葉の受肉を待ちうける
眼を射る逆光
途絶えぬ松籟
どんな粉本もない
個人的にコレ等の詩編こそが🗾文學が辿り着いた最高地点であるとさう考える。
さうした言葉の虚飾性を念頭に置き描き出されるだらう純粋なる言葉の受肉の世界だ。
尚「鳥羽」は愛知県人が屡訪れる三重県の鳥羽地方のことです。
私も特に若い頃には良く訪れたものでした。
元元岐阜県や三重県がまさに名古屋圏でつまりは属県のやうなものなのです。
従ってナゴヤ人はむしろソコにてやりたい放題なんですぞ。
じゃあなんでソコに現地妻をつくらなんだのか?
現地妻どころか主に不眠症と闘うのが大變でして。
尚「鳥羽9」が個人的には壱番好きだ。
コレぞおおまさに言語表現としての極致としての詩なのではないか。
ーさう常にあざやかなわたくしにとっての「死」と「生」
だがわたしを切り裂くのは常に「生」の方で「死」ではないー
またそりゃなんですか?
だからワタシの詩の壱節だよ。
ソレも今朝書いたもの。
コノ際、
だがわたしを切り裂くのは常に「生」の方で「死」ではにゃあ
とソノやうにした方が良くはないか?
まさか「にゃあ」とは書けんでせう、どだい将來教科書に載ることを考えたら…。
なる程、じゃあアナタには「鳥羽」や「求めない」の続きが書けますか?
いや続きは書けません、そりゃあくまで別の人の詩となりますので。
ではアナタ壱遍全部を名古屋弁でもって詩を書いてみませんか?
さうしたらソレが認められほんたうの詩人におそらくなれますよ。
おみゃーに言われんでもそんなこたーまーぜーんぶがー分かっとる。
じゃがワシを切り裂くのはいっつも「生」の方で「死」ではにゃあ。
ほーいやれたね。
あれさうどんなにそっと歩くにせよオトが出て仕舞う、ソノイヤらしい音が!!
あああーもうイヤだイヤだ、やうしもう固く耳を閉ざさう。
すると余計にニンゲンの心拍音が聞こえて來る。
余計にニンゲンの吐息が我が身にふりかかる。
さうして余計に文明世界が我が首を絞め始めるのだった。