目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。ー生命現象の本質部に巣食うであらう「無明」の認識に就いてー

 

 

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。ーかの弘法大師空海上人の認識とは?ー

 

 

 

 

三界の狂人は狂せらることを知らず。

四生の盲者は盲なることを識らず。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終りに冥し。

ー「秘蔵宝論」の序論の末尾よりー

 

さう狂せる者は狂たることを知らず、

ココロの盲目者は己の無明ー無知蒙昧な様ーを知らず。

 

では佛法に於いて知る者=覚者とは果たしてどのやうな人のココロを指すのであるか?

佛法に於いて知る者=覚者とは、

 

1.所謂知情意に對しむしろソレを喜ばず

2.さう知って居るからコソもうニンゲンをやりたくは無い

3.さう知って居るからコソもう文明をやりたくは無い

 

との壱種仙人と申すかまたは變態とでも言うかソレともデクノボー(役立たず)なのか兎に角生に對しマイナスのベクトルを持つことだらうむしろ「ヤル気の無さ」のことであらう。

 

ではアナタはコレコレかうしてアアなりでもって結果ココに來てるー何と閻魔大王の前に引き出されておるーがまた今度も同じやうにイノチをやりたい訳ですね?

はい仰る通りに今度もまるで同じやうに生きたし。

 

さう云う人はもう確信犯のやうなものですのでむしろ最も成佛し難くしてナニを隠さうコノワシなどがまさにソノタイプです。

ですが彼もまたインテリゲンチャの壱人としてあくまで理屈の面ではもう弐度と此の世(現象界)に迷い出て來てはならぬこと位はすでに知って居る。

 

なんですがまたソコをクリスト教などにも擦り寄ることで多分胡麻化しておるのでありませう。

胡麻化し=茶化し=不眞面目化す

 

じゃあ「ワタシはもう弐度とコノ世を生きたくは無い。生きるなら文明が壱度清算された後で尊師の築く宗教的な世界にこそ生きたし。」との意思決定はむしろ正しいので?

いやソノ尊師の築く宗教的な世界と云うものが例えばクリスト様のやうな正しき神の御世で有るならばまあイイやうな気が致しますがまさかオウムとか幸福の科学とかでもってソレがやれるとはどう考えても思えぬ。

 

では「ワタシはもう弐度とコノ世を生きたくは無い。生きるなら文明が壱度清算された後でワタシ宗教詩人の築く宗教的な世界にこそ生きたし。」との意思決定はむしろ正しいので?

うん多分ソレもまた間違いでせう、ナゼナラ宗教詩人はやりたい放題をやる虞が88パーセント程も有る。

 

「三界の狂人は狂せらることを知らず。

四生の盲者は盲なることを識らず。」

 

さて大昔にプラトーンなる大哲學者が「洞窟の比喩」なるコノ世の實相に就き語ったことがありし。

 

プラトンのイデア論「洞窟の比喩」とは?図と具体例でわかりやすく解説!| ズノウライフ

「洞窟の比喩」とプラトンのイデア論をわかりやく解説 - 実在の探求と哲学者

 

ちなみにココでの認識の内容は上で弘法大師空海上人が述べられて居ることと同じことだらうと思います。

要するに我我認識の上での凡人はむしろ洞窟に映じた「影」しか観て居ない。

 

即ちもっともっと本質的な意味での「ナニカ」が有れどソコにはついぞ気付かずに生まれ且つ生涯を閉じることとならざるを得ぬ。

プラトーンはソレを「イデア」の世界でありソレはそんな洞窟の認識より抜け出たところでの眞の認識なのだと捉える。

 

またクリスト教的に言えばまずソレは「神」の認識とならう。

いずれにせよ凡人はソノ侭にして居れば眞理どころか「狂人」か「盲者」となることが運命的に決まっておる。

 

あああまた何て悲しい定めなのだらう!

ソコからすれば明らかに人生は悲劇なのか?

 

いやでも認識ってそも變えられるものなのです。

認識って變化しないともしや思って居たらソレは大間違いで認識って全くもう百八十度位變えられるものなんだ。

 

要するにそんな「影」の認識より誤った価値観ー権力や権勢や繁榮への誤ったコミットメントーを形成するからこそ何時迄経っても凡人は「狂人」か「盲者」でしか無い。

 

でも宗教詩人様はむしろさう「影」の認識へとドップリと浸り込みそいでもってほんたうに地獄へと堕ちたら屹度全能神が救って下さるとさうした論理をこそ信奉しておいでだ。

いやそんなことをコノワタシが眞面目に言ってるのだと思いますか?

 

さうでは無く現在ワタシには権力や権勢や繁榮への欲望などはむしろ微塵もにゃあ。

有るのはむしろ物欲と食欲のみ。

 

ではむしろソレを「影」とさう知りつつさう戯れておいでになる?

さうだかの壱休禅師の如くに戯れておるのみよ。

 

 

  1. 「人は何度生き死にを繰り返してもなぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない。だからこそ輪廻を繰り返す」 
  2. 「人の生命は、今の一生だけではなく、生まれる前も後にも、続いている。何回も、生死を繰り返ししているが、生まれる前の記憶はない」
  3. 私は「生まれて仏の教え・悟りをひらかないからこそ生死を繰り返す」と考え、「限りあるいのちをしっかり見据え、(自分と自分意外の人々のためにも)今をしっかり生きること」と考えたいのですが、どうでしょうか?

「圓應寺 住職法話第八拾壱回」より 圓應寺|円応寺|真言宗智山派 大慈山|山形市|永代供養 » 弘法大師・空海 名言1

 

4.そもソノ生死に意味など無いこと

5.ソレもよりにより21世紀に生まれた現存在は多分そのうちに塗炭の苦しみを舐めることだらう、でも生まれて來たものはもはや仕方が無し。

6.さう限りあるイノチはむしろ社會批判や哲學的思考、また宗教的覚醒かさらに藝術的挑戦などの所謂「實存」的な価値の為にゼヒ捧げられたし。

 

ソノ「實存」的な問いを繰り返しソレも長くすることでやがては「達観」の域に至りイザさうなればもはや御坊様や神父様などともサシで法話がやれるやうになる。

またボクのやうに宗教ライターさんがやれるやうにもなる。

 

 

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終りに冥し。」

 

兎に角コノ詩か又は歌を初めて読んだ時に彼弘法大師空海こそは「全て」を分かった御坊様なのだとさう直感致しました。

 

 

ではナゼ此の世でのニンゲンの生がさう迄本質的に暗いのか?

ソレは多分母ちゃんの股の間がまた本質的には暗いからなのではにゃーか。

 

でもってしてソノ眞言の方での密教は母ちゃんの股の間のこと迄をもまたナゼカ考えておる宗派だらう。

どだい母ちゃんの股の間のことを考えぬ坊主などは皆ニセモノぞ。

 

よって壱休禅師なんぞはソノ👩の股の間のことの専門家でありソノやうな實に怖ろしい日記迄書き記しておったのよ。

 

ですが彼ショーペンハウアー氏によりますとあくまで惡いのは👩の股の間のことでは無く「生に對する盲目的な意志」でせう。

さうかすると本質的に暗いのはあくまで個個のニンゲンの「生きやうとする意志」のことなのか。

 

…では君はまた生まれ直したいか、ソレとも金輪際生まれたくはないか?

とさう閻魔大王様が宗教詩人に御尋ねになられたのだった。

 

…うーん、ではドッチもイケませんかむしろドッチも。

ナゼナラボク自身の感じと致しましてはむしろほんたうにドッチもやりたい感じなのだ。

 

では君はまた佛法と救世を同時にやってイキタイので?

 

尚コノ種の議論はそも学校教育のレヴェルを超越して居ります。

ですから教師として言えることとは、

 

7.さう君のイノチは尊い

8.よりにより君はサイコーの文明に生まれたのでサイコーに権利が付与されておる

9.校長先生や総理大臣のやうにエライ人となりコノ文明を引っ張るのがおおまさに偉い子だらう

 

とあえて間違ったことを言わなければなりません。

ですがほんたうは、

 

10.おめえの認識はまるでキチ外だ

11.おめえの認識はまるでメクラだ

12.おめえはもう救いやうの無いバカだ

 

とのことがむしろほんたうのことなんだな。

 

 

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終りに冥し。」

 

まさにコレはさう「實存」的な価値に兆す歌だらう。

しかもソノ「實存」は生きても死んでもドコ迄もくらい。

 

さうまるで影絵の如き世界ででも学校だの企業だの政府だのばかりがヤル気壱杯なのですがほんたうはむしろソコにこそ「影絵」への洗脳が生じておる。

また家へ帰ると👪との洗脳がまた御座り。

 

さうくらい。くらい。くらい。クラーイ「洗脳」なのか世の全てが?

 

 

さてそも根本のところで佛法は生命現象を否定的に見詰める訳ですのでアナタやボクが此の世にまた迷い出て來てはイカンのです。

またソノ此の世に迷い出て來ることを「現象」と呼びソノ「現象」はソノ侭ではキチ外かメクラですのでソコには権利もクソも無く要するにイノチとしての捨て駒のやうなものか。

 

但し「現象」にもまた認識上の幅が有りソレこそプラトーンにせよショーペンハウアーにせよまた空海にせよ最澄にせよさうしてひとかどの認識を世に遺すのですからつまりは凡人では無く天才の方なのだ。

でも先生、かうしてボクはタダの凡人なのですが…。

 

さうですね、もうほんたうに利口な子は最初から利口でしてしかもワタシの偏差値よりも持ってるものが上でさうした子を教える時にはもうほんたうに気を遣いなしたのですがでもソレはバカを教えるよりは遥かに樂でしたものです。

兎に角タダの凡人は相當にバカです。

 

でも概してバカの方が實は打たれ強い。

 

尚個人的に今自分に取り「生死」とは「観念」以前の話でどうかうするものでは無くまた基本的には言語にて語る以前での御話となる。

要するに待った無しでの世界であり大事故や大災害にて多くのニンゲンが死んだりまた🐻に喰われニンゲンが死にますが逆に産婦人科ではポコッと云う音と共に赤ん坊が生まれる訳です。

 

ですのでソレはもはや言葉では言い尽くせぬ「即興的領域」のやうなものでソコはまた多分に本能だのバカだのさう非理性的な場が組み込まれて居りアアまさに神か佛でないとまさかそんな世界の成り立ちを「理解」することなどはまさかやれません。

 

逆を申せばさう世界を「理解」することをこそ目指したのが弘法大師空海上人の意図だったのか、それともまた禅宗のやうに観念を放棄しソノ上で「現在」にこそ生きるのか?

 

「三界の狂人は狂せらることを知らず。

四生の盲者は盲なることを識らず。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終りに冥し。」

 

いずれにせよコノ言葉以上に生命現象(實存的現象)の本質部を上手く言い當てたものをワタシは他に知りません。