目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

愛は人間を救ふのかーⅤ 愛無き世界への一つの愛の形としての文學 壱ー

其の愛が愛ある世界から齎されるものなのか其れとも愛無き世界から齎されしものなのかと問へば矢張りと言うべきか其れは愛無き世界故にさう愛が齎されやう筈なのだ。

愛が完全なものであるのならば此の世に於ける不埒な様など起こり得よう筈も無ひ。

 

愛が完全では無ひ即ち我我人間の寓意により捻じ曲げられ悪へと連なるが故に此の世界のあり方はかくも醜ひのだ。

 

そんな愛無き世界への呪詛ー嘆きーを詠ったものが此の世にはあるやうにわたくしは思ふ。

 

愛は有るか無ひかとさう問はれればおそらく其れは無ひのであらう。

無ひからこそむしろあらねばならぬ何ものかなのであらう。

 

 

たとへば自然界では日々弱肉強食での生命としての争ひが繰り広げられて居やう。

 

だが其れは人間にとっての世界には非ず。

 

では人間にとり用意されし世界とは何か?

其れはまず神々の世界であり佛の世界であらう。

 

其れは政治でも科学でもましてや生活教なのでも無ひ。

其のやうに政治や科学や生活の世界は其の弱肉強食での生命としての闘争の世界と何ら変はるところの無ひものだ。

 

さう其れ等は眞の理性により築き上げられし世界には非ず。

 

ところが神々の世界であり佛の世界である世界もまた二元化して居る。

故に其れはまさに本質として「愛無き」世界と呼ばれるのだ。

 

 

 

解き得ぬなぞ

 

 (6)

いつまで水の上にかわらを積んで*おれようや!
仏教徒拝火教徒の説にはもうきはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?

  7

創世の神秘は君もわれも知らない。
その謎は君やわれには解けない。
何を言い合おうと幕の外のこと、
その幕がおりたらわれらは形もない。

  8

この万象ばんしょうの海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にも出来ない。

 

  10

われらが来たり行ったりするこの世の中、
それはおしまいもなし、はじめもなかった。
答えようとて誰にはっきり答えられよう――
 われらはどこから来てどこへ行くやら?

  11

造物主が万物の形をつくり出したそのとき、
なぜとじこめたのであろう、滅亡と不足の中に?
せっかく美しい形をこわすのがわからない、
もしまた美しくなかったらそれは誰の罪?

  12

苦心して学徳をつみかさねた人たちは
「世の燈明*」と仰がれて光りかがやきながら、
やみの夜にぼそぼそおとぎばなしをしたばかりで、
夜も明けやらぬにや燃えつきてしまった。

 

 (14)

愚かしい者ども知恵ちえの結晶をもとめては
大空のめぐる中でくさぐさの論を立てた。
だが、ついに宇宙の謎には達せず、
しばしたわごとしてやがてねむりこけた!

 

 

生きのなやみ

 

  17

思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものならが行くものか?
この荒家あばらやに来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか!

  18

来ては行くだけでなんの甲斐かいがあろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻りんねの中につながれ、
身を燃やしてはいとなる煙はどこであろう?

  19

ああ、むなしくもよわいをかさねたものよ、
いまに大空の利鎌とがまが首をくよ。
いたましや、助けてくれ、この命を、
のぞみ一つかなわずに消えてしまうよ!

  (20)

よい人と一生安らかにいたとて、
一生この世の栄耀えようをつくしたとて、
所詮しょせんは旅出する身の上だもの、
すべて一場の夢さ、一生に何を見たとて。

  21

歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古きよしみをつなぐに足るのはの酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたってさかずきだけは残るよ!

  22

ああ、全く、休み場所でもあったらいいに、
この長旅に終点があったらいいに。
千万年をへたときに土の中から
草のように芽をふくのぞみがあったらいいに!

  23

二つ戸口のこの宿にいることの効果しるし
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹いぶきを知らない者がうらやましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!

 

  25

神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。

 

 

太初はじめのさだめ

 

  26

あることはみんなそらの書に記されて、
人の所業しわざを書き入れる筆もくたびれて*、
さだめは太初はじめからすっかりさだまっているのに、
何になるかよ、悲しんだとてつとめたとて!

  27

まかせぬものは昼と命の短さ、
まかせぬものに心よせるな。
われも君も、人のの中のろうて、
思いのままにもてあそばれるばかりだ。

  28

嘆きのほかに何もない宇宙! お前は、
追い立てるのになぜ連れて来たのか?
まだ来ぬ旅人もむ酒の苦さを知ったら、
誰がこんな宿へなど来るものか!

  29

おお、七と四*の結果にすぎない者が、
七と四の中に始終しじゅうもだえているのか?
千度ならず言うように酒をのむがいい、
一度行ったら二度と帰らぬ旅路だ。

  (30)

土を型に入れてつくられた身なのだ、
あらましの罪けがれは土から来たのだ。
これ以上よくなれとて出来ない相談だ、
自分をこんな風につくった主が悪いのだ。

 

 

 万物流転ばんぶつるてん

 

 

  (32)

宇宙の真理は不可知なのに、なあ、
そんなに心を労してなんの甲斐かいがあるか?
身を天命にまかして心の悩みはすてよ、
ふりかかった筆のはこび*はどうせけられないや。

  33

天に声してわが耳もとにささやくよう――
ひためぐるこのさだめを誰が知っていよう?
このめぐりが自由になるものなら、
われさきにその目まぐるしさをのがれたろう。

  34

善悪は人に生まれついた天性、
苦楽は各自あたえられた天命。
しかし天輪をうらむな、理性の目に見れば、
かれもまたわれらとあわれは同じ。

 

 

     39

天輪よ、滅亡はお前の憎しみ、
無情はお前日頃ひごろのつとめ。
地軸よ、地軸よ、お前のふところの中にこそは
かぎりなくも秘められている尊い宝*!

  40

日のめぐりは博士の思いどおりにならない、
天宮など七つとも八つとも数えるがいい。
どうせ死ぬ命だし、一切の望みは失せる、
塚蟻つかありにでも野のおおかみにでも食われるがいい。

  41

一滴の水だったものは海に注ぐ。
一握のちりだったものは土にかえる。
この世に来てまた立ち去るお前の姿は
一匹のはえ――風とともに来て風とともに去る。

  (42)

この幻の影が何であるかと言ったっても、
真相をそう簡単にはつくされぬ。
水面に現われた泡沫ほうまつのような形相は、
やがてまた水底へ行方ゆくえも知れず没する。

 

 

  45

時はお前のため花のよそおいをこらしているのに、
道学者などの言うことなどに耳を傾けるものでない。
この野辺のべを人はかぎりなく通って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。

  46

この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来てなぞをあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れものをするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。

  47

酒をのめ、土の下には友もなく、またつれもない、
眠るばかりで、そこに一滴の酒もない。
気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな――
 チューリップひとたびしぼめば開かない。

 

 

 

 50

われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩ひゆではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技わざをすませば、
一つずつ無の手筥てばこに入れられるのさ。

  51

われらの後にも世は永遠につづくよ、ああ!
われらは影も形もなく消えるよ、ああ!
来なかったとてなんの不足があろう?
行くからとてなんの変りもないよ、ああ!

 

ルバイヤートより

 

 

文學とは基本的に此の「愛無き世界への呪詛であり嘆き」なのだと思ふ。

であるからこそわたくしは此のルバーイヤートを文學だと認めるのだ。

 

ルバーイヤートは楽観的に悲観論を語った文學であり、かの太宰 治が愛読したであることなども広く知られて来て居る。#ハイヤームのルバイヤートについて

 

其処での思想として基本的には無神論的に「此の世への愛」か又は「此の世からの愛」が否定されるのであるが、其処に「此の世での愉しみ=現世利益としての虚の価値」はむしろ肯定的に捉へられて行く。

故に其処では唯物主義として瞬時の快楽を追求しつつー酒を飲んで憂さを晴らしー生きて行くことの方が生に対し悩み苦しむことよりも良ひことだと云ふか少なくとも恨みつらみの発散になるとさう捉へられて居るのだ。

 

要するに望みもしなひのに此の不完全な世に生み落とされし怨念と諦めを詠った詩の数々なのだ。

何がそんな恨み節を滔々と詠って居るのかと云へば實は理性自身がそんなことをいつまでも述べ続けて居るのである。

 

 

即ちルバーイヤートの作者であるウマル・ハイヤーム自身が当時の高名な科学者だったともされて居る。

 

ー西暦1048年頃ペルシアホラーサーン州の都城ニーシャプールの近くで生まれ、1131年(一説には1123年)に生涯を閉じた。

本名をオマル・イブン・ニーシャープーリーという。数学、天文学、医学、語学、歴史、哲学などを究めた学者であり、ペルシアを代表する大詩人の一人でもある。学問に秀で詩的才能に恵まれた稀有な人物である。ーウマル・ハイヤームより

 

故に彼は學問の道を究めた上でこんな思想をあへて述べて行ったのだった。

勿論此れは神々にもまた他の何者にも救はれぬことだらう人間と云ふ存在への絶望をストレートに詠ったものでもまたある訳だ。

 

ちなみにわたくしは廿代の後半の頃だったか、此のルバーイヤートの詩篇に初めて触れ其処に衝撃を受けた。

其れは何でかと云ふとこんなに正直な文學は他に太宰と芥川の作品以外には無かったからなのだった。

ー三島作品もまた正直なものだがわたくしの場合特に其れを読み込んで来た訳では無ひが故にー

 

 

ーウマル・ハイヤームの哲学は、公的なイスラム教の教義とはかなりに異なるものであった。ウマルが神の存在を信じていたのかどうか明確でないが、しかし彼は、すべての個別の出来事や現象が神的な介在の結果であるという見解には異議を唱えていた。また、最後の審判の日や、死後の報償や懲罰なども信じていなかった。ウマルはむしろ、自然の法則が、生命について観察されるすべての現象を説明するという見解を支持していた。イスラムの宗務当局は、イスラム教に関する彼の異説についての説明を幾たびもウマルに求めた。最終的にウマルは、当局からの追及が激しくなり建前上正統的なイスラーム教徒(ムスリム)を装わざるを得なくなり、マッカへのハッジ(巡礼)を行った。ーウマル・ハイヤームより

 

其のやうにハイヤームは早く生まれ過ぎた合理主義者でもまたあった訳だ。

合理主義なのだが、其の根本には矢張り厭世主義のやうなもの、要するに世に対する絶望の様が色濃く滲み出て居る。

 

尚、WIKIPEDIAの方にはハイヤームの思想が結果的に神秘主義に連なると云ふ見解が述べられて居るのだがわたくしはさうした解釈をとらなひ。

ハイヤームの思想はあくまで厭世主義でありイスラームの教へとはむしろ正反対に虚無的なものであることだらう。

 

即ち其れは無神論としての嘆きと怨念とに彩られて居やう。

無神論だから其処には希望も無ければまた来世も無ひ。

どうにもならぬこんな世界と自らを言はば酔生夢死させた方が良ひのではなひかとさう仰る。

 

左様にハイヤームの思想はイスラム主義からすれば明らかに異端なのだらうが、反面其の恨みの哲學、嘆きの詩の内容は文學としての死の命脈を保つものなのだらう。

文學は其の死ー絶望と負荷ーを見詰めてこそのもので、逆に言へば死ー絶望と負荷ーを見詰めて居らぬ文學は皆ニセモノであるに過ぎぬことだらう。

 

即ち宗教はたとへ死を見詰めるものであれ、其処にどうしやうも無ひ嘆きや失望即ち絶望の様を世に示すものでは無ひ。

宗教は其処に死を見詰めつつ最終的には生其れ自体を成り立たせやうとして行くものだ。

 

但し宗教は生其れ自体を其の侭に生きやうとするものでは無ひ。

少なくとも佛教とキリスト教の場合はさうだ。

其れはより望ましひ人間の価値観を形作る上でむしろ一度人間の持つ全価値を否定してかかるものものなのだ。

 

 

だがハイヤームの思想はあくまで文學としての虚無主義なのだ。

勿論文學にも幅がありたとへば詩聖タゴールの詩の場合にはこんな風に厭世感が濃厚に漂ふものにはなり得やう筈も無ひ。

 

だが事實上はかうした「愛無き世界への復讐」か又は呪ひ、嘆き、怨みの文學が實は我我悩める心の主を救ふと云ふことさへもがある。

其処に愛だの解脱だのが保障されて仕舞へばさうした腐ったやうなルサンチマンの部分が或は浄化され消え去って行くのやもしれぬ。

 

だが感情の闇に閉ざされし大衆の心は常に神よりの眞の愛には気付くことが出来ず尚且つ解脱もクソも無くあくまで現世利益としての心理的負荷を抱へて居るより他は無ひ。

そんな訳でわたくしはこれまでずっと此のルバーイヤートこそが最高の文學の一つであるとさう思って来たのだった。

何故なら其れはまさに其のどうにもならぬ人間の心理的負荷を正直に詠ったものであるのだから。

 

むしろ其の人間としての正直な言葉こそが我我の生への不信をさうして宗教的には決して救はれぬ事實としての不遇や不満、生の不条理や理不尽な様に共鳴し其の苦痛を少しでも和らげて呉れるのではなからうか。

無論のこと其処には教義も無く正すべき道も無ひ。

 

只酒を飲んで憂さを晴らしさうして絶望しつつ死んでいくだけのまさに如何ともし難き人間としての悪夢の素顔が其処に描かれるのみ。

だがであるからこそ其れが文學なのだ。

 

 

文學の持つ-のベクトルとは其れは宗教や科学とは異なる人間にとり一つの重要な働きを担って居る。

其れが絶望への親和性であり嘆きであり恨みであり呪ひであり諦めであることなのだ。

 

尚、其のハイヤームによる詩は全てが素晴らしひものだが、あへてイムパクトがあると云ふことで選ぶと以下のものとなる。

 

 

 23

二つ戸口のこの宿にいることの効果しるし
心の痛みと命へのあきらめのみだ。
生の息吹いぶきを知らない者がうらやましい。
母から生まれなかった者こそ幸福だ!

 

 

さて歴史上かってこんなことを言った奴が他に居たことだらうか?

「母から生まれなかった者こそ幸福だ!」

 

まさに此の一行こそが凄ひのだ。

勿論こんなことを言へば無論のこと世界中の♀から非難が殺到することだらう。

 

でもハイヤームはあへて其れを言っちゃった。

言っちゃったものはもうしかと残っちゃう。

 

だから普通の場合母はみんなマリヤ様なので其の価値につき批判など出来ぬものなのだ。

 

こんな風にアンタのおっ母をアンタ自身がこっぴどく批判など出来ませうや?

だが其の嘆きと恨みの文學の範囲では其れはいつか述べられなくてはならぬものでもあった筈。

 

 

二つ戸口の宿に居ると云ふ事は結局二元的分離ー分裂ー過程を我我が生きて居ざるを得ぬ状況を指し示して居やう。

だから其処に常に心は痛みを受けー苦としての痛みを受けるー命としてのどんな望みも其処に全的に叶ふものでは無ひ。

 

あらゆる偶然にー又は必然にー翻弄され我我命ある者はつひには諦めて行かざるを得なくもならう。

其処にあるのは生の勝利などでは無く敗北のみだ。

 

生命は生に敗北せざるを得ぬのでかうして文學は其の悲惨な運命をストレートに嘆き悲しみさうして呪ひ最終的には絶望し諦めて行く。

だから其れは宗教とは異なる一つの文の領域としての究極の智慧なのだ。

 

嘆き悲しみさうして呪ひ最終的には絶望し諦めて行くことですら其れは一つの智慧の道なのだ。

 

其こそが愛無き愛にさうしてしかと寄り添ふことなのだ。

此の世には愛があることに気付くことと愛など無ひことに気付くこととはそんな風に表裏一体のことでありさうして其処に対の領域を形成することでもまたあらう。

 

 

其処に愛無き世界を呪ひー心理的にどうしやうも無き外部に絶望しー合理的、唯物的にやりたひことをやって本質的に植え付けられた憂さを忘れろとかってかうしてペルシアの詩人は述べた。

其のことは勿論本質的に人間を救ふことではあり得ぬ。

 

人間が救はれて行くのであれば其れは宗教の分野に於ひてでしかあり得ぬ。

けだし愛無き世界への呪詛を滔々と述べつつ愛無き愛に寄り添う文學の世界が他方にはまたあらう。

 

宗教は人間が救はれぬ為に其処に救ひを求め愛無き世界へ愛を構築する。(正=プラス)

対して文學は人間が救はれぬ為に其の救はれぬ様を嘆き悲しみまさに其の様に寄り添ふ。(負=マイナス)

 

其れは其の絶望をどう捉へて行くかと云ふ方向性の違ひであらう。

 

 

尚「生への絶望」をどう捉へるかと云ふことにつき若干述べてみたひ。

其の「生への絶望」を感じ取ることの出来る人は一部の知識人や又は藝術家、宗教家などに限られて来やう。

 

尤も科学者や其の他諸の職種の人でも其れが可能であるのかもしれぬ。

だが大衆は「生への絶望」を感じ取ることに対し極めて愚鈍であることだらう。

 

大衆は常に世界の動きに同調しさうして尻尾を振りつつ世界と運命を共にして行くのだ。ー其れも大抵の場合世界は滅んでいくものと相場は決まって居るにも関はらずー

だから大衆には眞の我など無ひのである。

其ればかりか藝術なんて分かりやうが無ひのだ。

 

即ち大衆とは其の母から生まれるべくして生まれ続けて居る者のことだ。

其の動物的な大衆程幸せなものも無ひのではなからうか。

 

 

だがペルシャの詩人は母から生まれなかった者の方が幸福だとさう仰る。

ところが宗教は勿論こんなことは言はなひ。

無論のこと宗教では「日々是感謝」であり「生まれてありがたう」なのだ。

 

然し其の逆の視点があるのではなひか。

まさに其れが文學の視点なのだ。

 

文學は左様に大事な視点を世に齎す。

謂はば其れはアナーキーな愛の視点である。

 

其の愛は正では無く負であり嘆きであり呪詛でありされども観察であり其れに寄り添ふことだ。

 

左様に文學の本質とは放棄では無ひ。

謂はば絶望した上で恨みがましく其処に生き残ることだ。

つまり其処に永遠の嘆き節を展開させて行くことなのだ。

 

 

文學の魅力とは何か?

其れは其の負の領域への沈殿ー沈没ーの様にこそあらう。

 

どんな場合にも美しひものを其の侭に美として表現し得るものでは無ひが故に。

さうして沈没して居るものこそが美を見詰め美の全体を捉へ切って居るのだ。

 

だが大衆は其の沈没の深度に普通耐へられぬものだ。

心や感性に幅が無ひので其れを眞の意味では捉へられぬのだ。

 

かくして眞に美しひものとはあへて醜ひものを其処で見詰めることにより了解されやう。

聖なるものもまたさうで、其れは聖なるものだけを見詰めることから生じるのではなくあへて世の苦悩としての地獄を見詰めることでこそ指向されることなのだ。

 

文學とはまさに其の人間の心のあり方の深度を指し示すものだ。

愛無き世界へ沈殿する其の文學こそが愛無き世界への一つの愛の形なのでもまたあらう。