目覚めよ!

文明批判と心の探求と

〈月に吠える〉より




序より


 「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。
 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何 人ぴと もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。」





詩のにほひ?
確かに詩は何かかう臭ふものだ。
其れは人間が臭ふのと同じで何かかうとても臭ひものです。


尤も詩のにほひが豊潤であれ、だなんて、何やら浪漫チック過ぎて現代にはまるでそぐわないのかもしれません。


さうだとすれば現代の詩はむしろ破壊的であるべきなのか。


其れとも逆に浪漫候であってしかるべきものなのか。


或いは其の音楽や詩が現代に於いてそも成立するものであるのかどうか。





兎に角理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感=にほひ=詩とのことです。










    


まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』




今年の六月にとある大仏を見に行きましたところ、何故か其の大仏の横に黒猫が現れた。
其の野良の黒猫がいつの間にかわたくしの側へ来て、其れでもってじっとわたくしの顔を見詰めて居るのです。


其の折にこれは感謝の意なのだとすぐに分かりました。
つまりは謝意を表して居るのだと。


昨年の夏頃から今年の春先まで黒い野良猫を二匹育てて居りました。
庭に来るので餌をやり其の美しい毛並みを屡眺めて居りました。


其の折に生まれて初めて黒猫の真の美しさを知りました。


二匹の黒猫はやがて何処かへ行って仕舞った。


ふと眼をそらす間に其の黒猫は消え去りました。
現実なのかそれとも幻想の類であったのかいまだに分かりません。






天上縊死

遠夜に光る松の葉に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。





詩はたましひの永遠の孤独を語るものでもある。





愛憐

きつと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草のいんきで、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそばう、
みたまへ、
ここにはつりがね草がくびをふり、
あそこではりんだうの手がしなしなと動いてゐる、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、
お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける、
さうしてこの人気のない野原の中で、
わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。





いかにもいやらしい詩です。
此の詩の場合かっては発禁処分となされても居ります。


でも昭和の頃には国語の教科書にも載って居たやうな気も致しますがどうであったらう。


いやらしいと云うのは其の性欲そのものがいやらしいのです。


其の性欲そのものを言葉にて捉え切って居るのでいやらしいのです。


いやらしいと云うのは生の原動力である臭みのことです。


人間と云うか動物は皆此の生の原動力である臭みに突き動かされ生きて居りませう。


臭みとは即ちショーペンハウアー流に言へば盲目的な性への意志のことです。


いや違った、盲目的な生への意志のことだ。


いえ、所詮は同じことでした。


兎に角盲目的な生への意志=盲目的な性への意志のことです。


其れに女の体に何かを塗り付けてやりたひと云うのは確かに男性ならば誰しもあります。






青樹の梢をあふぎて



まづしい、さみしい町の裏通りで、
青樹がほそほそと生えてゐた。

わたしは愛をもとめてゐる、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、
そのひとの手は青い梢の上でふるへてゐる、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みぢめにも飢ゑた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。

愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。

道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で、
ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつてゐた。





朔太郎の詩で一番好きなのが此の作品です。


確か昔中学校か高校の国語の教科書にもありました。




「わたしは愛をもとめてゐる、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、
そのひとの手は青い梢の上でふるへてゐる、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みぢめにも飢ゑた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。」




と云った件が如何にも格好良ひところです。
いやー流石に如何にも詩人の表現だなあ。
まさしく愛をもとめると云う浪漫そのものですね、浪漫。



ちなみに遠い遠い街道で乞食をしたのはほんたうに乞食をしたのではなく其のやうな精神的な漂泊と孤独のうちに詩人の心があったと云うことだ。



尤も詩は心理学だそうですのでどんな風に読み解いても良いんです。


其れは半分は理屈ではなく音楽であり絵画のやうなものだ。


朔太郎もまた詩を論理を飛び越えて存在する何かとして捉えて居たのです。





昔の詩人の詩は好きなのですが何故かと云えば矢張り落ち着くからです。


現代のものでは何故落ち着けないのか其れが分からない訳です。


或いは文學にも合理化が起きて居るのでせうか。



AIならば小説はすでに書けるさうですのでおそらくは詩も書けるんでせう。


でも詩の本質は黒猫のお礼、と云うことですので全然合理主義では無いことでせう。



尚性もまた合理主義では無いです。


生自体が合理的には規定出来ないものなので神秘やら異次元やら何やら、謂わば知れないもので一杯です。


詩と云うのはそんな知れないものをあへてまさぐる試みであり其はいい加減と云えばいい加減なのですが厳密と云えば厳密な言葉以上の言葉が齎しめるところでの匂ひのことだ。



或いは性=生=詩なのでせうか。


其れは知りませんが、詩は兎に角其の嗅覚には優れて居ます。


或いは色彩感覚が豊かです。


パッともう色が全部見えて仕舞ふのです。


其の草のインキの緑色と乳房の肌色とがまさにいやらしく対比し合ってまさにこの上なく淫蕩です。



うーむ、何だか色が見えますね、色が。


猫が黒いのも矢張り実にいやらしく不気味でもってして好きだ。



尚詩は心の叫びだととある女医さんが述べられて居られたことがあった。

詩は確かに叫びであり呪いでせう。

復讐であり恨みですらある。


綺麗な詩も綺麗ではない詩も等しく匂ひや色、または形や大きさを決まって示して居ます。

だからこそ心理学上の試みなんです。


さういふのがパッと掴めるのだ。

其れに所謂詩の味わひと云うものが散文的に論理化される前に醸し出されて来て居やう。