目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

文學者の女嫌ひ


三島由紀夫の女性批判


…大体私は女ぎらいというよりも、古い
頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思って
いるにすぎない。
女性は劣等であり、私は馬鹿でない女
(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに
会ったことがない。事実また私は女性を
怖れているが、男でも私がもっとも怖れる
のは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど
怖いものはない。
また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、
教育を全くうけていない聡明な人も沢山
いるから、何も私は学歴を問題にしている
のではない。
こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な
女性に会ったことがない不幸な男である、
という風に曲解して、私に同情を寄せてくる
女性がきっと現れる。こればかりは断言して
もいい。しかしそういう女性が、つまり一般論
に対する個別的例外の幻想にいつも生きて
いる女が、実は馬鹿な女の代表なのである。…

…女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽
と建築は女の手によってろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性
でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の
過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、
芸術において女性的様式は問題なく「悪い」
様式である。私は湿気の高い感性的芸術の
えんえんと続いてきた日本の文学史を呪わず
にはいられない。…

…私は芸術家志望の女性に会うと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才という
ものが理論的にありえないということに、
どうして気がつかないかと首をひねらざるを
えない。…




ー其の利口バカを含めーバカではない女は此の世に存在して居りません。

兎に角超馬鹿なのでそも其処には抽象的思考が成立して居らずだ。

即ち「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」の持ち主であるに過ぎぬ。


が、馬鹿程強いものもまた此の世にはない。

まずバカであればある程に打たれ強い。

そしてバカであればある程に生=性に対しての信仰が生じる。



また莫迦なればこそ生き抜ける。

逆に云えばバカじゃないとこんな濁世を生き抜けない。



元々こんなクソバカらしい世界など他にはなくそれこそサイテーの世界なのであるから其処をただ信じて居ります、みたいな生き方の出来る馬鹿女こそがまさに聖母様である。

それこそ聖母様の慈愛に満ちた眼差しでもってして其の腐ったものを浄化しつつ生きていくのじゃ。

それでもってこそ腐った人間のたましひは救われ永遠の愛の世界へと招き入れられやう。

其のやうに嘘コキでもってしかも間違ひ即ち倒錯の価値観、世界観に於いて初めて人は理性の能力を超え神仏の領域へと近づくことが出来やう。



だから女の腹が其の子宮の奥の闇の世界がまさに其を可能とする世界じゃ。

其の腐ったはらわた、莫迦の殿堂ともいふべき無明の世界こそが此のサイテーの世界へ自らを縛り付ける原動力じゃ。



いやしかし三島先生による「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」と云う女性の理性的能力に関する描写の件は実に鋭い。

三島先生は物凄い理性の保持者で、謂わば理性の化け物級の分析力が御座りましたゆえ必然として女のことなどもはや全部が分かる。


謂わば此の世の全てをはや見通して居られたゆえ女を「悪い」ものだと決めつけて居られるが無論のこと其れは一面では大正解である。

しかしながら女は善なる悪魔としての必要悪であることもまた考慮しておかねばなるまい。



だから其のバカの力、つまりはアホ力、尻軽で何らの論理も解せぬ莫迦そのものの力、謂わば無知の知の力、即ち知らぬばかりに強いということ、逆に知り過ぎては弱くなる、脆くなるといふこと、事実三島先生は知に追いまくられあんなに早う死んじまっただ。



其の脆弱こそが利口な印だ。

逆に馬鹿は死んでも死なぬ。

死ね、此のバカ、このー。

とか何とか言っても絶対に死なない。



しかし理性のカタマリは兎に角寿命が短い。

だから気を付けやう。

君のやうに利口過ぎるとじきに存在して居られなくなる可能性が高い。

まことにバカも苦労するが利口はもっと苦労する。


また確かに女の天才は少ない。

たしかかのショーペンハウアーも同じことを言って居た筈だ。




萩原朔太郎の女嫌ひ評


「女嫌いとは、・・・人格としてではなく、
単に肉塊として、脂肪として、劣情の
対象としてのみ、女の存在を承諾する
こと。(婦人にたいしてこれほど・・・・・
冒涜の思想があるだろうか)
しかしながら、・・・多数の有りふれた
人々が居り、同様の見解を抱いている。
殆ど多くの、世間一般の男たちは、初め
から異性に対してどんな精神上の要求も
持っていない。
女性に対して、普通一般の男等が求める
ものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美
であり、単に性的本能の対象としての、人形
への愛にすぎないのである。
しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と
呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ば
れている。なぜなら彼等はどんな場合に
於いても、女性への毒舌や侮辱を言わない
から。
(「女嫌い」と呼ばれる人々は、女にたいして)
単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格
やを、真面目に求めているからである。
・・・・それ故に女嫌いとは?或る騎士的情熱
の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性
を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅に
よって導かれた、不幸な浪漫主義の破産で
ある。
然り!すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直
なロマンチストにすぎないのである。」




実に的確かつ明敏な指摘である。

女が好きな人は元々女に多くを求めては居らず要するに其れを性欲の対象である物として扱って居るのである。

ところがそうした人種は女性に対する批判もなければ差別もしない。



だがよーく考えてみよう。

逆に女性を尊敬して居る者、即ち女性に何か精神的なものを、理性としての存在を其処に求めて居る者は決まって女性を貶しやがては否定するに至る。



何故か?

女性に多くを求め過ぎて居るからだ。

真の意味で女性を大事にして居るからだ。




だからかのショーペンハウアーも三島先生も物凄い浪漫チストである。

そして知に傾いた男性の場合は特に此の浪漫チストが多い。


ちなみにわたくしも飛び切りの浪漫チストである。

だから女をクソミソに貶すことで持ち上げる。

謂わば自分と同じ位の知力ー理性ーを彼女等に求めて仕舞うのである。



ところが逆に女などタダの肉のカタマリだ、ズバリ便所だ、肉便器だ、などと思って居る輩の方が決まって女にはモテるのである。

即ち其処には女に対する真摯な意味での批判がそもなされて居ない。



だから、女は、まさに其の冒涜の思想の持ち主に限り魅力を感じ易く結果其処でホイホイと股を開き易いのである。

ところが批判力のある知力に優れた男性を女は本能的に敵だと感じ易い。


だから逆だ、逆。



おまへをほんたうのほんたうに愛して居るのはショーペンハウアー先生であり三島先生であり我である。

逆におまへなど肉便器だと思って居る其の手籠め男は愛どころかもうまるで肉塊としてしか君を見て居ないのである。



このやうに女は事の本質を見定める能力には元々欠けて居る。

だから分かって居ない。

真理がまるで分かって居ない。



ただし直感だけは利く。

其れも動物的な女の勘のやうなものだけが利く。



其の直感で分かるのは其の生き物の強さや弱さ、また生きて居るか生きて居ないか=死んで居るか否か、また腐って居るか居ないかといふやうに実に実に現実的な識別能力なのであり、従って其処ではまず天下国家などは論じられない。



どだい女はア○コにしつこく規定されて居り謂わばア○コ生物である。

ア○コなど無い方がより良いやうにも思われるが残念ながらア○コがある以上我我はもはやア○コからは自由にはなれない。

謂わばア○コが我我男性をも規定しておる。




尚矢張りと云うべきかかのカントも手厳しく女性を批判して居るやうだ。


「女性の性格は劣等であり、しかも女性はその状態から脱却してはならないという。彼は、女性が学問をすることに反対し、女性の哲学は理屈をこねることではなく感じることであるといい、当時の女学者を取り上げて、骨の折れる勉学は女性固有の長所を根絶させてしまうと非難する。」
「婦人を美しい性という名のもとに理解した人は、・・・恐らく彼自身が信じた以上にうまく言いあてたのである。・・・女性の心の性格の中には、女性を男性からはっきり区別し、また彼らを美的なものの徴表によって見分けをつけることに、主として帰着する固有の特色がある。」

「他方、われわれ男性は、尊称をしりぞけ、それを受けるよりはむしろ分かち与えることが、もし高貴な性情からも要求されないとしたら、高貴な性という命名を要求できるだろう。

しかしこのように言うのは、婦人が高貴な特性を欠いているとか、男性が美を全く欠如していなくてはならぬ、という意味ではなく、むしろ、おのおのの生が両者を合わせもっているが、婦人については他のすべての長所が、本来の関係点である美の正確を高めるために
のみ統合されるべきであり、それに反して、男性的特性の中では、崇高が男性という種の標識としてはっきり目立つことが期待される。」


「これら二つの類についてのすべての判断は、称賛も非難も、この点に関係づけられねばならず、すべての教育と指導とは、このことを念頭におかなくてはならない。自然が人間の二つの類につけようとした魅力ある区別を、見分け難くしようとしないかぎり、一方または他方の道徳的完全性を促進しようとする努力も同様である。
なぜなら、ここでは、眼前に人間をおいていることを思い浮べるだけでは十分ではなく、同時に、これらの人間が同一種類ではないこを、看過してはならないからである。」



確かに女性の哲学は理屈をこねることでなく、謂わば感じることなのでしょう。

感じると云うのは肉体としての現実感がより強くあると云う事でしょう。

逆に學問をすること、其処でより理窟をこね続けていくことで其の現実感は薄れていきます。



だから理窟つまり論理と感性は対概念としてあり、しかもどちらにも其の寄って立つところでの世界が用意されて居るのです。

理窟の世界には理窟の世界での道理が拡がり、また感性の世界には感性の世界ならではの真実または実感が用意されて居る。



ですが普通は此の対概念が相交わることはない。

それぞれが全く別のものです。

ですが幸いわたくしは、どちらもいけるタイプなのです。



ゆえに普通の男性よりは所謂勘が鋭い、感度の度合いが強くあります。

が、其れでも女は理解出来ない。

もうまるで理解出来ない。

何故ならわたくしはバカ正直な浪漫チストだからなのです。



真っ正直な心の持ち主ー純粋ーなので女を肉便器だとは思いたくない訳です。

逆に女を理想化することが屡です。

聖母様か菩薩様であるべきだとさう願って居り、であるからこそ現実としての女は逃げていき聖母様か菩薩様の像だけが其処に思ひ出として残るといふまことに理想的かつ険しい恋愛を繰り返して来て居るばかり。



其の現実感と云うのは子宮思考のことです。



かように男女に於ける本質的な違いとは「存在」することに対する感性の差であり論理の差です。

存在することを無条件に是とする女性的な規定は感覚であり現在であり未来でもまたある。

対して存在することに疑いの目を向ける男性的な既定は論理でありかつ過去でもまたある。



即ち男性には現在と其れに連なる未来とが見えて居りません。

厳密には男性は存在なんてして居ない虞?さえもがあります。




然し女性は確かに今此処に存在して居ります。

かつ子宮の中からポコッと子が産まれる訳ですので其の女共は未来さえをも蔵して居ります。



ところが過去から其の現在や未来を見通すともうバカバカしいものにしか見えないのです。

ほんたうのほんたうにアホなんじゃないかともう其のやうにしか見えないのです。


で、事実其れはアホでバカそのものなのです。

所詮其れは信仰ですのでアホでバカそのものです。



何故なら曰く鰯の頭も信心から。

信仰なのでほとんど其れは子宮思考であり騙されて居ると云う事です。


謂わば肉体に騙されてしかも見栄えの良い男に騙されて居ります。

ところがアホでバカな信仰がほんたうにアホでバカだとは一概には申せません。



アホでバカだからこそ成し得る現在と未来があると云う事からも其の事実は明らかです。

逆にお利口だお利口だと言って居るとかの三島先生のやうにいつかは首がちょん切れて亡くなって仕舞ふのです。


或いはかのカントのやうに生涯童貞として哲學をしなくちゃならぬ羽目にも陥ろう。

何せ暗愚さが、其の暗愚さこそが現在を成り立たせ未来を切り拓いていく原動力なのです。


だから努めて其のアホでバカな信仰を貫きませう。

ちなみに女性の方々は何もせずとももはや其れを持って居られやう。

天然自然に持って居られる故元々救われて居りましょう。

其れは其れはどうも御目出たう御座います。

其処はまさに羨ましい限りで御座ります。