目覚めよ!

文明批判と心の探求と

山に保存する日本の文化


尚今わたくしに感ぜられて居る問題は社会的な意味での選択の誤謬の問題ばかりです。

故に其処では個人の問題も文化の問題も共に問題ではありません。


個人的に持って居るだろう劣等感や業の部分の悩みの深さ、或いは日本文化の衰退や変質に関するあらゆるものは問題ではないのです。

また自分の心が悪いのでコレを治そう、修行して是非治そう、などとも実は考えて居ない。

無論修行はするべきだろうとは思いますが個々の人間の心には常に幅があるのでさういうのは治しやうがないと考えても居る。



つまるところ悪い奴の心は悪く他方で善き人の心は善い。

で、何が問題かと捉えるかと云えば其の集団的な無意識=阿頼耶識が創り出して居る客観世界=社会だけなのです。




ですので社会が悪いので人間は本質的には幸せにはなれません。

なので直すのは社会です、社会、あくまで社会だ。



直すところのある悪い奴は社会だけしかないと云う事です。


さう社会、コレが実に厄介な何ものかであります。

社会が直れば人間は救われやうが、社会がこのままでは人間は地に落ちる。


どうも悪魔化して滅亡する。

でしょう、と云う事です。

あくまででしょう、なので別に事実では御座いません。

でも事実です。



ハテ社会とは何だらうといふ其の根源の問いに向かい最近のわたくしの頭の中身は進んで居ります。

勿論進歩は大嫌ひですがおそらくは其れは過去へ向かう上での進歩なので何とか進んで居られる訳だ。



さて普通女は社会化された生き物ですがまずは其れが分かりません。

社会化されるとウルサイでしょうしそればかりか何かと事が面倒臭くなりやがては自己崩壊せざるを得なくなるのではないか。

いっそのこと人類は総男性化して個々のマニアックな世界へでも閉じ込めておくべきなのではないか。

其処でこそ真の平和が齎されるのではないか。



また生の苦悩の上での昇華はあくまで男性が規定するところでの宗教にお任せする。

なんとなれば女の宗教はこれまたウルサイばかりでイザ投票して呉れだの、是非お布施を御願い致します、だの、兎に角宗教が目的ではなく御喋りサロンであることが自明である。

或いは宗教的権威に寄りかかり顔が紅潮して来るやうな宗教の女をかってわたくしは見て参りました。



ですのでさういうのは須らく信心です、信心。

信心は腐っていやうが何だろうが信じて居るから其れが神仏である、と云うことであるに過ぎない。


そんな風には社会化しない。

ひょっとすれば其れが人間にとっての究極の幸福への道ではないか。




どだい宗教団体は最終的に自己矛盾化しテロや戦争を引き起こします。

が、其れは宗教が悪いのではなくあくまで社会化された宗教が悪いのである。



もはやほとんど社会=悪と云う考えに傾いて仕舞って居りますがさういうのは矢張り極端かと思ひますので実はまだ誰にも話して居りません。


なので社会のこと、此のバカ社会、腐れ社会のことなんぞ考えない方が良いのではないかとさえ思います。



即ち社会=女=バカ文明。

といった感じでしょうかね。



で、文化、此の文化とは何だらうといふことも其処で同時に考えます。

文のお化けは要らないと云えば要らないがどうしようもなくあると云えばまたどうしやうもなくある。




さてかの三島 由紀夫に文化防衛論と云う著作が御座いますが昔読んでみたやうな覚えだけはあるのですがどうにも其の内容を思い出せない。

まず、三島 由紀夫に就いてですが、此の一人の天才は明らかに子供です。

だから彼にとっては常に社会が問題となって居たのです。



其れと自己愛が強くあり他方で生に対する何か特殊なエロースのやうなものを求めかつ焦がれ続けて居ます。

他方では明晰で常に論理的です。

だから理想論と云う観念と其のエロースとの結合を求めた結果としての自決だったのではないでしょうか。

謂わば観念と感覚との結合、即ち文武両道としての自決だ。



さらに結局どうあがいても現実としての女を納得させるに足る強さや包容力には欠ける脆弱な作家が観念としての日本文化をまたは自決を形式化したかったー形として残すことで完結したかったーのではないでしょうか。

三島 由紀夫氏の根本は所謂脆弱な秀才ですので兎に角打たれ弱く男が好きだったのも逆に其の本質が女々しいからのことだったでしょう。

さらに御婆ちゃん子で其の婆様から仕込まれた教養が並外れてあった。



そして何せ法学部を出られて居るゆえ社会のことばかりを考える羽目にも陥って居られた。







日本文化の国民的特色
生きた文化とは、単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「一つの(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。日本文化は、「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。三島は日本文化の「フォルム」をこう説明する。
文化とは、の一つのから、月明の夜ニューギニア海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺仏像から現代彫刻まで、華道茶道から、剣道柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザチャンバラ映画まで、から軍隊作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥す。 — 三島由紀夫「文化防衛論」
また、日本文化は、「オリジナルコピーの弁別」を持たない。伊勢神宮の20年毎の式年造営のように、いわばコピーに「オリジナルの生命」が託され、「コピー自体がオリジナルになる」のである。これは天照大神と各代の天皇との関係と同じである。以上より引用




其処でまず、日本の文化は今どうなって居るのだろうと云う点に関して、矢張り其れは破壊されつつあると云う事をとりあえずは考えておく必要がある。

ただし其れはあくまで社会的な領域に於いてのことなのであり、社会化しない領域でー観念の領域ーで其れが永続していく可能性もまた大いにある。

また其の形式に就いては、国民の精神自体が破壊されるに至った今は形式どころかかっての日本的な秩序自体が崩壊かつ変性していく過程にあるのではないか。



事実教育の崩壊、性秩序の崩壊、村落共同体の崩壊、未来の崩壊、といったまさにゆゆしき状況にある訳でそんな三島先生の仰るやうな高級なお話ではまるで御座いません。

普通の国であれば当然にあるやうな国に対する誇りさえすでに持ち合わせて居ない。



ですので、コレはもはや文化国家としての精神が廃れたと云うことでせう。

其の壊れた様をあれこれと理窟付けることは幾らでも出来ましょうが壊れたものはもはや直らないのでもはや社会を捨てる、其処で社会に背を向けた上で出家をしよう。



つまりは此の社会はもはやダメなので我はもう匙を投げた。



捨て去り逃げる=隠遁することでのみ日本の文化は純粋かつ永続的に保存出来やう。




だからもう兎に角逃げる。

会社からも女からもただひたすら逃げまくる。

そして山に籠り日本文化の継承者としての観念人間となる。



其処で清い水を汲み取り日々喉を潤す。

さらに徐に西行など読み進め其処でまさに隠遁者の心得を、其の日本の文化の形としての幽玄の世界に遊ぶ。




国民文化の三特色     
日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。「再帰性」とは、文化が過去にのみに属する「完結したもの」ではなく、現代の日本人の主体に蘇り、現在の時に「連続性と再帰性」が喚起されることである。「全体性」とは、文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化とは本来は「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。「主体性」とは、文化創造の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラ機能であってはならない。
何に対して文化を守るのか
このような日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、現代の日本では「刀」(尚武の要素)が絶たれた結果、「際限のないエモーショナルなだらしなさ」が氾濫し、かたや戦時中は『源氏物語』などが発禁、言論統制されて「菊」(文雅の要素)が絶たれた結果、逆方向に偏ったのである。よって圧制者の「ヒステリカルな偽善」から、文化のまるごとの容認、包括性を守らなければならない。三島は防衛についてこう説明する。
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねておいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに原理である。 — 三島由紀夫「文化防衛論」
そして、もしも「守るべき対象」が、「生命の発展の可能性と主体」のない「受動的」なだけの存在で、守る側と守られる側との間に「同一化の機縁」がなければ、単なる博物館の宝石護衛のような脆弱な関係性しか生じず、最終的には、との極限状態においてパリ開城のような「敗北主義」あるいは、「守られるべきものの破壊」に終わる可能性を秘めている。よって、「〈文化を守る〉といふ行為」にも、「文化自体の再帰性と全体性と主体性への、守る側の内部の創造的主体の自由の同一化」が予定されていなければならず、文化を防衛する行為自体が一つの文化的行為になり、そこに「文化の本質的な性格」が現われるのである。以上より引用



其の日本文化の全体性や連続性のみならず、東洋の文化文明の全体性や連続性、さらに非欧米圏での文化文明の全体性や連続性を根こそぎ奪っていくのが近代としての全体主義の流れです。

其のグローバリズムは90年代以降加速して行われ国境のない同一の価値観の追求の場が現出するに至った。

自国の文化の防衛とはまずは価値観の限定性が確保されてからの話で、三島先生の死からすでに半世紀近くを経た現在では其の多様な価値観は解体されかつ等質化され謂わば同じものの価値ばかりが地球上を覆うに至った。



其のやうな状況で自国の文化の保持も何もない訳です。


だからもう逃げた方が良い。

山へでも逃げるが勝ちだ。



ただ、私が危惧するのは日本の文化の消滅ではない。

日本人の精神の危機ばかりだ。

どんな形であれ日本の文化は残りますし其れこそ三島 由紀夫や鮨やらラーメンやらカレーライスなどは今後も世界中にバラ撒かれ存続していくのです。


けれども、いざ一度失った道義心や倫理観の復活はおそらくは可成に難しいものとなることだらう。

そして自由と平等、此の限定の解除の思想こそがおそらくは日本人の精神を崩壊させていくことだらう。



ただし日本の文化の継承は、こと純粋な観念の領域ではどこまでも其れが可能です。

然し大衆としての日本人の観念はおそらく今後も根こそぎ破壊され続けていくことでしょう。



そして最も危惧されることは大乗仏教の衰退です。


尚、すでに現在儒教的な意味での上下関係が崩壊しつつあります。

其れでもって上司が部下にやりこめられたり、或いは女の上司に頭が上がらなかったりとそれこそ戦前のやうな上下関係、縦のラインの秩序がもはやほぼ壊れて居りましょう。

また場合により中学生が妙に威張り腐って教師を殴ったりもして居ります。



そして性秩序が何より酷いです。

そのやうな下の方の乱れがジリジリと日本人の精神を圧迫しやがては國を崩壊させるに至る。

でも逆に言いますと、むしろ喜んで日本国はフリーセックス化される可能性もまた高くある。

すると日本国の女即ちやまとなでしこと云うものが絶滅致します。


それでもって合理主義の、もうまるで欧米流に悪魔化された女共が喜んで今後の日本の穢れた性秩序の維持に励んでいくことでせう。

だから幾ら三島先生でも其れは我慢がならない筈だ。

確かに性的な倒錯の趣味のあった三島先生ですが、どう考えてもそんな三島 由紀夫でさえそんなケダモノのやうな状況には我慢がならない筈です。


其れでもってアノ石原 慎太郎氏が都知事の頃にこのままではいけないとお考えになり健全な性秩序の方向へ向かい舵を切られたことさえあった。

まさかあの「太陽の季節」の石原氏がそんなことをしでかすやうになろうとはもうまるで誰も考えては居らなんだ。




ですのでもう逃げませう。

幸い我が国は山の国です。

まだまだ深い山、人里離れた寂しい場所が沢山あります。


今すぐに都会を捨て其処へ逃げませう。

世を捨て人を捨て無限の近代の蔓延から逃げるのじゃ。



ほーれ、ほれ、其処いらにすでに悪魔共が潜んで居るぞいやすでに悪魔だらけだ。

そのやうに怖い世界からは即刻立ち去るべきだ。




創造することと守ることの一致
われわれが守る対象は、思想でも政治形態でもなく、「日本文化」であるが、その〈守る行為〉はおのずから「生命の連続性を守るための自己放棄」の性質をも帯びる。このような「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは、「主体客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。以上より引用



献身なくば「不毛の自己完結性」により文化の不毛に陥る。

文武両道とは主体と客体の合一により生み、また成ることですか。



かなりに高級な論理ですがおそらく現在としての実際の破壊はもっともっと低級な論理から導かれて居ることでせう。

非常に幼稚な論理、即ち際限なき欲望の消費であるとか、自由と云う名のもとでのやりたい放題であるとか、つまりは限度を知らないと云うことなのです。



むしろ人間の根源での欲の問題が今問われて来て居て、しかも其の限度無き欲の縛りから日本の文化もクソも無いことだらう放恣かつ淫蕩な様が描き出されて来て居る。


文化の防衛は論理にて成りましょうがもっともっと実質的な破壊即ち現実的な破壊が日本文化を大衆と云う枠から消し去りつつあるのだらう。


其の現実的な破壊とはまさに不毛の為の不毛による破壊、即ち近代主義と女と云う性が結託した上でのより現実的な破壊の様です。



ですので日本的なるものが継続する可能性は社会レヴェルに於いてはほとんどない。


ですので必然としての非社会的なレヴェル即ち山での孤立にて文化を保存すると云う事ですね。

たとへば山に掘っ建て小屋を造り其処でかの西行のやうに生きやう。

かって西行は女にフラれた上で其のやうに日本の文化の創造に勤しんだ。


だから当然に我我にも其れが可能だ。


グローバリズムからは逃げ去りしかも女とは手を切りやり遂げるのだ其の真の意味での日本の文化の保持を。