目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

小さいことはいいことだ


言うまでもなく戦後の価値観は近代主義の履行により形作られて居るものです。


即ち自由、民主主義、平和主義、経済発展のことです。


憲法が規定するこれらの価値には残念ながら大きな落とし穴があります。



即ち自己矛盾化する価値だと云う事です。



尤も左翼思想ですら矛盾化することを避けられない。


即ち平等の実現は不可能である。



なのですが、一番大きな矛盾とは実はイデオロギー自体にあるのではなく体制または国家の大きさにこそあります。


要するにデカいことが間違いです。


謂わば大きいことは悪なのだ。



そうです、大きいことは悪いことです。


だから人間としての器量が大きい人、パワーのある人、頭でっかちの人、給料の額が大きい人、大食い、大絶倫、大口をたたく詩人、などは皆悪い人です。


ですが大きい万年筆は好きです。


今わたくしにとり魅力のあるのは決まってデカい万年筆です。



大きい外車、コレも魅力はありましょうが実は其れも悪い車です。



兎に角大きいものは悪いです。


だからこそ社会も悪いのです。



もっとも女が悪いのは見た目が小さいからではなくズバリ欲望が大きいからです。



大きいつまりより目立ちたい、より優位に立ちたい、より強くなりたい、といふ此の根本の思想と云うか意識の持ち方こそが誤りです。


ですが、現実的には人間は誰しも此の上昇指向に支えられることで生きて居ります。



だが、其の盲目的な生へのしつこいばかりの意志、他に先んじて目立つと云う目論みこそがたましひのあり方そのものを汚して居ます。


ですので、ほんたうは其のよりデカくなりたいと云う指向そのものを断ち切っていかねばならない。



其処で、現実としての生を見渡してみますと、何とももはや辛いことばかりのオンパレードで往々にしてまるでどうにもならないものだ。


もはや如何ともし難い現実が目の前に拡がるばかりだ。



が、よーく考えてみると、其処にこそ其の欲の隠滅に関わる重要な転機が訪れて居るのやもしれない。


即ち身内の死、自らの失業、自らの病気、失恋、妻との死別、其の他諸の災難の数々。


其れ等は何故よりによって自分にふりかかって来るのだろう。



然し其のやうな時にこそ人間は謙虚であること、小さく賢く纏まって居ることの意義を學ぶことが出来る。


対してイケイケの時、即ち大きい時、やれ経済発展だ、自由化だ、平等社会だ、平和だ平和主義だ、だから小学生には刃物を持たせてはいけない。



小学生が刃物の使い方を覚えないからスマフォ人間を増殖させエロ動画及びゲーム浸けの異常な人格ばかりを此の世に蔓延らせていくことに繋がる。



そんな苦しい時、もう立ち直れない時、もはや万策尽きた、もう終わりだ。


もはや終わったよ、ここまでだ。


まさにそんな時にこそ金輪際大きくなりたいとは思わなくなることだろう。



つまりは低エネルギー化の時だ。


其れは必ずや汝を襲う生の摂理である。



まさに其の時に、其の抜き差しならぬ苦悩のさ中でこそ、低エネルギーの思想を、逆ヒエラルキーの思想を自ら体験することが出来やう。



其の一点でこそ、其の地点でもってこそ理解し得る真理が存在する。


普通人間は、暗い人でないと其れが分からない。



そして宗教は暗い。


暗いからこそ低エネルギーの思想を理解する。



低エネルギー=小の思想のこと。


小さい=限定のこと。



限定だから、其処では人間はタダのサルだ。


小さいから、むしろ給料は少なくていい。


不倫、と云うよりも彼女さえ居ない。



大食いは避け旨いものだけを少しだけ食う。


酒は飲んではいけない。


18時以降は外出しない。


掃除洗濯のやり方は兎に角完璧に。



小さいから、資本主義には興味が無い。


その癖本は必要である。


さらに文房具も必要だ。


だがもうピンサロへ行くのは止めよう。


とは言え実は三十年余り行っていないので一度位行っておいた方が良い、ほんたうのほんたうのところでは。






小さいから、お勉強にしか興味がない。


と云うよりもカントの生活にしか興味がない。


が、最近はショーペンハウアーの著作に嵌って仕舞って居る。


でもってして要するにかのデッカンショ、の中の二人に心を奪われつつある。


ほんに旧制高校生にでもなった気分である。



小さいから、かの佐伯先生の本ばかりを読んで居る。


京大の考えは東大の考えとは違って過激でもってよろしいやうな気がずっと前からして居る。


どうも京大は過激派だ。


それでも佐伯先生は保守派の論客である。


京大には魅力があるが東大には魅力はない。


でも姜 尚中氏は好きである。


姜 尚中氏は見た目がとても紳士的かつ限定的である。




小さいから、自由、を貶す。


そればかりか平等も民主主義、平和主義、経済発展も皆貶しておきたい。


佐伯先生は矢張りと云うべきか其れ等を全て批判して居られる。



まあこんなに勉強になる本も他にない。



小さいから、限度を知る。


即ち分限を弁える。


されど人間の営為は小さいことでは達成されない。


小さいこと、限度を知ることは、元々人間の行いにとってはタブーの領域である。



何故なら人間は常に大きくなることを目指して来て居る。


よりデカくなり、より元気で、より長生きがしたく、より金を儲けたい。



究極的には自分が生きてうちだけは物質的にかつ精神的に困らず生きて居ることをやりおおせたいともう其ればかりを願って居やう。



だがザマアミロ。


生老病死は皆等しく経験しなければならない。


また定年や肉親の死、人類の過ちから齎される様々な不利益からは誰しも逃れられない。



うーむ、どうも最近のわたくしは根性が悪くなった。


或いは性根が腐って来て居るのだらうか。



どうも色んなことを言い過ぎて根性が悪くなったやうである。


でも根性が悪い詩人も決して悪くはない。



小さい、ことで或は来世にはいいことがあるのやもしれぬ。


そんな風にすぐに来世を持ち出すのが宗教の悪い癖だが。


でも来世には良いことがあるとでも考えなければ生老病死の苦を乗り越えることなど出来ない。


また定年や失業や肉親の死、人類の過ちから齎される様々な不利益が齎す苦を乗り越えることなど出来ない。




また小さい、ことで苦が減る可能性もある。


大きい、と失うものもまた大きい。


嗚呼、そうであったか。


そこからしても現代文明の苦悩のデカさは自明のことである。



現代文明はデカい。


兎に角大きい。


大き過ぎる。


出来れば分轄したい。


詩人には其の大きさが直観出来る。



何故分かるのだ、はかった訳でもあるまいに。


いや、確かに分かる。


分かるのだ、実際目をつむって居ても分かる。



感ずるのだ、其の感じから全てが分かる。


全体論的直感なのだろうか、或いは阿頼耶識との結合なのだろうか、またはもの自体との交感なのだろうか。




さて現代文明の寿命は?


知らん。


もはやどうでもよい。


早う山へ逃げたい。



だがクソッタレほど可愛いと云うこともあらう。


要するにバカほど愛らしいと云うことも言えない訳ではない。



けれどデカいバカはもうまるで救えないやうな気がして居る。


だから其処でむしろ小さいバカになるべきなのではないか。


限定されたバカであればある程に文明が滅ぶ時に苦痛が少ないやうに思われるのだがどうであらうか、



小さいことはいいことだー、森永エールチョコレートー♪


さてまた新たに東京でオリムピックなるものが行われるやうだが、其の際是非此の歌を使って頂きたいのであるがどうであらうか。


ちなみに森永のエールチョコレートは何処へ行ってももはや売っていないことだらう。