目覚めよ!

文明批判と心の探求と

今の日本が抱える性の問題-Ⅳ-


性の問題の根っこにあるのは現代社会に於ける思想の問題そのものです。


現代は諸価値が相対化されてんでバラバラに主体性ー主観による個人主義ーが追求される時代となった。


ですが、個がてんでバラバラつまり何でもありでは統制がとれなくなって仕舞う。


でも法秩序だけは残って居る訳です。



だから援助交際に付き合った教師は即御用となります。


ところが未成年である女子高生は逆に被害者とされて仕舞うのです。



だが一番悪いのは実は女子高生の売春を容認して来ざるを得なかった社会です。


即ち社会の放任が悪い。そして思想が悪い。


実際現代の思想は袋小路に入り込んで居りなかなかコレと云う断言が出来なくなって居る。



謂わば思想自体が自己矛盾化しニヒリズムに陥っていやう。



即ち真理の相対化が齎す精神の崩壊現象がそこかしこで行われつつあるやうに見える。



だからほんたうのほんたうは精神の崩壊過程なんです。


今まさに近代末期としてのニヒリズムに陥り精神そのものが何か人間ではないものになっていく過程のことです。



即ち限度を撤廃して仕舞うからそうならざるを得ません。



よろしいですか、今一度申しますよ。


其れは女子高生や女子大生のカラダが単に汚されていくばかりではないのです。


そうではなく精神こそが何か汚らわしいものへと変えられていくのです。


其れが=悪魔と云う事ですね。



現代社会の抱える問題の本質とはズバリ其の精神の崩壊の問題です。



そして其処には所謂自由に於ける問題が深く関わって居ます。


自由とは果たして何なのかと云う問題のことです。



ところが自由とは実は不自由のことです。


逆に不自由こそが自由です。



第一会社を辞めて自由になったって金が無ければ逆に不自由です。


ところが残業に追われて実に不自由ながら残業手当がタンマリ付くと決まって女房は喜びましょう。


だから其れが不自由の自由です。



ここのところをよーく考えてみて下さい。


かように性的な逸脱はリスクばかりを増大させるだろう愚かで不自由な行為です。


ところがちゃんと家庭を持った上での一見不自由な性の方が実はずっと自由です。



女は働くべしなどと社会的に規定されイザ働いてみるとそりゃ小金は得られますが結局其れでもって海外旅行やらブランド物に現を抜かすばかりでふと気付くとはや四十女だった。



もはや子供も産めぬわ、父母にも見放されるわでおまけに変なホストのやうなオトコに引っ掛かり長年の稼ぎで貯め込んで居た二千万も全部毟り取られた。



とのことでもうほんたうにロクなことは御座いません。



そんなことよりももっと堅実な道を歩むべきだ。


たとへば都会を捨て田舎へ移住しなさい。


田舎へ行くと道端で野菜を売って居り其処の駕籠に百円程入れておくばかりだ。



魚は海に潜って獲れる。


さらに合理主義が無い。




自由、此の近代の思想の根幹の概念こそが最大の曲者です。


自由と云う手段が目的化されて仕舞うところにこそ自由主義の陥る誤謬があります。



即ち結果的に自由であることだけが大事になるのです。


無論法秩序は其の自由であることを限定する。


ですが法に触れぬ限り個の自由は尊重されねばならない。



と云う事は女子高生にだって人権があるのですから春を鬻ぐ自由があるのです。


でもどう考えても其の論理はおかしい。


公序良俗または道徳の範囲からすれば其れは間違って居ます。



ところが現代のリベラリズムの流れからはあくまで其れは是認されるのです。


事実自由主義者は例外なく援助交際に於ける意思決定の自由を是認して居るやうです。



然し其れはおかしいです。


そんな風に自由であることを目的化するから思想と常識の間に乖離が生じて仕舞う。



其れと前回示しましたやうに女性の体は男性とはまるで異なりヘタをするともうえらいことになって仕舞う体であることを科学的に説明致しました。


其れは自然的秩序による女体への規定だったのであります。



だから其れは観念だの思想だのそんなことではなく謂わば神仏からの戒めであり規定なのです。


女共は神仏からの戒めであり規定を反古にして一体今何をやらかして居るのか。


汝等は神仏をも足蹴にする御積もりか。



無論のこと男共も下半身を確り眠らせて居なくてどうする。


もう永久に眠って居れ。


決してムクムクと目覚めるな。




リベラリズムとしてのキチ外思想はズバリ売春の自由を擁護し続けて居ります。


ですが平等であり自由であるとは云え実際には人間の肉体は不平等でありしかも不自由です。



限定を解除する思想の流れがタダ便宜的に其の事実を捻じ曲げさう普遍化して居るだけのことだ。


だから性の問題は思想の問題であると同時に思想には遥かに及ばない躾の問題であるに過ぎない。




結局性は不自由なものです。


が、逆に不自由だからこそ自由なのです。


タダコノ不自由さは独身男性の抱える性の不自由さの問題とはまるで別物です。



ズバリ独身男性の性は不自由の不自由です。


つまりは死んでも不自由だと云うことじゃ。




さて自由は実際何処まで容認されるのだろうか。


むしろ私は決定論者なので自由意志そのものに重きを置く訳ではない。


自由意志



自由意志なんて或は無いのかもしれないなどとも最近は考え始めて居ます。


とりあえず自由や平等と云った概念には懐疑的でありかつ否定的です。



私の考えでは意志は須らく受け取るもの、つまりはいただくものなのです。


そも自分が無いので受け取るほかないのです。



近代的主体的意志は必然として所詮ニヒリズムに陥ることだろう概念なので無い方が良い主体であり意志だとさう考えて居ります。


ですが近代を生きる以上主体的意志は事実としてありあくまで其れは我にとり虚の意志ではありますが事実さう生きて来ざる得ない。


尤も観念と現実の様は違うのでそうなって居てもおかしくはありません。




佐伯先生が「自由とは何か」の中で述べられて居ますが人間が社会化され初めて自由な意志との関係性が顕わになる、つまりは純粋に個による自由な意志の発現であるかどうかを判断する基準が実は無い。


女子高生が其の主体的な意志でもって援助交際して居るかどうかはかなりに怪しいと云う事だ。



何故なら女子高生は学校や家庭など彼女を取り巻く環境からの影響を受け其の主体的自由を決定されていって居る可能性が高い。


だとすれば其れは主体的な意味での自由が可能か否かと云う問題、また主体的な自由意志を最大限に尊重すると云うリベラリズムの考えとは次元の異なる領域での話とならざるを得ない。



だから女子高生は単に金が欲しく何故なら何ぞ良い物を買うか遊びたいばかりなのであり、其れが是認されて仕舞うことの裏には社会的な意味での道義心の崩壊、道徳律の破壊が存するばかりなのである。


なので其れは自由云々と云った高級な観念上の話とは違うのである。



要するに躾がなってなくてしかも社会的な道義心が地に落ちたからさうしたふしだらななりを助長させて居るだけのことだ。


さうした次元の異なる立場であるにも関わらずさも普遍性が存するやうに考えて仕舞うこと自体が現代社会に於ける思想的展開のバカさ加減であり誤りそのもののことだ。



だからさういうのがニヒリズムなのである。


第一自由、自由は大事だとそんな声高に言えば言う程に自由の意味なんて分からなくなる。


其処では自由が普遍的観念性に捉えられて仕舞い逆に不自由化されていくのだ。



自由、自由と叫ぶ為には不自由である必要がまずあるが基本的にすでに自由な現代人にとって不自由であることは逆に難しい。


と云う事は矢張りと云うべきか不自由だからこそ真の意味で自由が希求され逆に自由にドップリ浸かった我我には真の自由の意味が見えて来ない。


と云うか、自由、自由と、或いは平等、平等とワイワイガヤガヤ其ればかりを言って居ること自体が可成下品だ。



一方上品な人間は我は自由だ、何しても自由だ、なんて決して言わず、しかも平等だ、女も偉い、女はタダの飯炊き女では無い、女はドレイじゃない、などとも言わない。


無論のことただただ押し黙り掃除洗濯家事育児に精を出し乱れた性には決して手を出さない。


だから其れが人間としての根本の精神のあり方の問題なのであり家庭の躾、社会に於ける道義心の植え付けの問題だ。



其のニヒリズムにより確かに思想はすでに壊れていやうが、躾、実はコレだけは行うことが可能である。


たとへ公教育が廃れ道徳律や倫理観が地に落ちていやうと何だろうと個に対する教育は可能である。



なので其処で何より鞭が必要である。


もうまるで昔の西洋の教師のやうに鞭でもって打ってこそ悪い子ちゃんたちの性根を叩きなおし間違っても犯罪者にならないやうな正しい精神の階梯に導くことが出来やう。


そのやうな教育こそが今求められて居やう。



他に能の無い安倍政権は其の道徳教育の貫徹をこそ目指していかずしてどうする。


其れでこそ安倍君じゃ、ついでに其処でカントを是非教え込もう。


カントの定言命法でもってもう雁字搦めにして仕舞へ、其の自由とやらの女子高生、女子大生共を。



すると余計に高齢独身男性が何かと不自由な身ともならう。


然し其れは我慢せよ、もうお前等だけは兎に角我慢だ。


死んでも我慢せよ。いや死んでからもずっと辛抱のみじゃ。