近代の欲望とは限りなく女の欲望です。
そして今最終段階としての女の性的欲望が解放されつつある。
尚これはかってはタブーだったことでした。
何故なら人間の生産装置である女に其れを許してはならないことだったからです。
許せば、無論のこと人間は増え過ぎて自滅して仕舞う。
然し現実は真理とは違う。
逆に性エネルギーこそが生エネルギーであり其処で人間は頑張れると云う事が確かに御座いましょう。
それでもって此の性エネルギーでもって理性的な社会を建設すると云う矛盾にあえて近代以降の人類は挑んで来たのです。
でもあくまで其れは矛盾です。
ですので必然的に性はそして生は矛盾化する。
即ち性は快楽の道具とされ、生は合理性の奴隷となり果てて仕舞う。
なので今は、此の現在は人間の死への入り口です。
いや、すでに末期状態なのやもしれぬ。
詩人はそうした感じをまさに直観致しますが、皆様には其れがおそらくは見えて居ないのでこの似非詩人めが何を言って居るのだ此の馬鹿が、と思われるかもしれませぬが其れは真実のことです。
性が解放されると云うことはまさにあの地動説と同じことで言ってはならないこと、してはならないことなのである。
近代科学、資本主義、性の解放は皆同類で人間が限定を解除すると云うまさにおぞましい、神をも畏れぬ不遜の行為でありかつ謗法でありマヌケでありバカであり色キチ○イであり犯罪者そのものの行ひである。
限定を解除すると云う欲望の解放、此の人類の性悪の根本に潜む大欲望こそが近代と云う諸の悪を生じせしめ神の怒りを被るに至るのだ。
いや其ればかりか仏もお怒りである。
特に大乗仏教に対しては並々ならぬ怒りとひとかたならぬ疑問をお持ちである。
しかしながら、実は佛に怒りも疑問もない。
なんとなれば仏とは怒りも疑問も共に超越した存在なのであろうから。
わたくしがいつもこうしてプリプリ怒ってばかり居るのも人間だからこそ。
だって人間だもの。ー相田みつをー
限定の解除、これこそが近代の本質である。
限定と云う事は、可能性の限定であり欲望の限定であり同時に生の限定である。
逆に可能性を無限大となし欲望を無限大となし生を無限大となした人間の思考乃至行為こそが近代の正体である。
然し其の正体は余りにも罪深い。
別にキリスト教徒ではなくとも充分に罪深い。
罪深い人間共は毎日が希望と自由と価値に向かって突き進みまさにウルサイばかりだ。
一詩人にはあくまでそう見えると云う事である。
ウルサイばかりかバカなのだが、余りにもバカらしくてばかを莫迦と云う事自体が至極面倒にもなって来た。
無限と云う欲望の泥沼に今まさにハマりつつある人類はこうしてクリスマスだの正月だのと訳の分からぬ虚の価値にうつつを抜かしつつ滅亡の淵へと追い込まれていく。
「死すべき時に死すれば則ち可なり」
人間の死すべき時とは果たして今なのだろうか?
人間は随分長く生きて来ているけれど、死んで初めてバカだったと気付く程に愚かな生きものであったのだろうか。
いや、其れもおそらくは分かるまい。
つまりは死んでも治らないのが馬鹿である。
との絶望的見解がつひ頭を擡げる。
他方で詩人の楽観論もまた散見される。
たとへばディラン・トマスの詩にこんなのがある。
そして死は支配をやめる。
死者は裸の自分に戻る、
風の中の男と西の月とともに。
骨がきれいに取り去られたとき
ひじと足に星をまとう。
心乱れても気は確かにして
海に沈んでもまた浮き上がる。
恋人は消えても愛は変わらない。
そして死は支配をやめる。
「愛する人が亡き後も愛は死なず、そして死は支配をやめる。」
愛と云うのは、まさに虚の推進力である。
女の欲望の本質であるところの生エネルギ―パワーの解放、即ち性の解放であり資本主義であり環境破壊であり悪魔化したものであるところでのふしだらさそのものである。
ふしだらそのものであることこそが女の欲望の正体なので、此の正体に基づき進む近代社会は必然的にふしだら化しかのソドムやゴモラの街の如くにドロドロかつぐちゃぐちゃな淫売窟と化しやがては神の怒りに触れたカドで滅ぼされる。
が、神が死んだと云うより弱って居る現代社会では神に怒る程の体力が無い故淫売窟が延々と続く背徳の都市が堅固に築き上げられ其処で人間の精神はドンドン卑猥になりしかも狂わされ宇宙一醜いものに成り下がっていく。
其の過程をわたくしは精神の死、人間の精神の崩壊の過程として世に示して来たつもりだ。
であるから其れは必然の過程なのであり逃れられはしない事実そのものだ。
愛と云う虚の推進力を愛する、と云う事はまさに藝術の提示することだろう浪漫的な虚の行ひであり要するに間違いのことであり誤りのことである。
然し詩人は其れ故に愛の救済と不変を信じる。
愛は普遍ではないが不変であるべきだ。
不変など無いと云うのが仏法の結論ではあるが、浪漫的な虚の行ひにより矛盾化すると云う此の世の実相を成り立たせる為に必要なのが実は愛のみなのだ。
おお、黒猫よ。
お前達は美しい。
こうしてわたくしが朝庭で餌をやる度に其の黒い毛並みの虜となる。
二匹の黒い猫がこんなにも美しいものか。
まるで宇宙のやうに美しく喪服の女のやうに美しい。
やがて互いに死が訪れるまで此の美を愛でていたい。
美しいものを美しいもののままで愛していたい。
今わたくしが生きるのはこんな領域のことである。
もはや世俗の欲が無いわたくしは、此の最後の欲とのみ闘うのだ。
愛が死ぬつまり滅びるかどうかと云う事を詮索することにはもはや意味がない。
わたくしは美を求めているが故に愛から突き放されて居るのであり近代そのものをつまりは女の欲情をも否定するのだ。
然し愛そのものを否定するのではない。
愛は生きて居る限り死なないものなので其れに寄り添い生きて居るだけのことである。
即ち生きて居る限りは愛は死なない。
けれども生きなくなった場合には愛は死ぬ存在なのだ。
生きなくなったと云う事は死ぬことではない。
死んでも生きて居る人間は多分多いことかと思う。
死んでも生きて居るから墓を作り其処へ君を閉じ込めておかなくてはならない。
然し死して死んだ人は成仏していようから墓なんぞは要らない。
対して生きて死んだ人は天才と同じでほとんど居ないがそういう人は謂わば準仏陀の人である。
準仏陀には愛は要らないが美は是非とも必要なのである。
美とは最後に残された此の世に対する愛の未練である。
未練の愛、愛の最終形態のこと。
此の最終形態としての愛をわたくしは今生きて居る。
即ち美こそが最後の愛である。