目覚めよ!

文明批判と心の探求と

女は善なる悪魔だ


言うまでもなく、近代世界は一蓮托生、 即ち結果はどうなろうと行動や運命をともにすることで文明と云うパフォーマンスを成り立たせて来て居る。

パフォーマンス、そう、其のパフォーマンス自体に何か大きな問題が潜んで居ることだろう。

人間存在が其のパフォーマンス好きであると云う事自体に。


ところでわたくしが日頃から何故ここまで女をバカにして居るのか。

其れは女が善なる悪魔だとそう思って居るからだ。

ただし単なる悪魔だとは実は考えて居ない。



第一女が居ると居るだけで其の場が潤うぞよ。

第一むさくるしい男の闘争の世界など其れは余りにも殺伐として居やう。

胸毛と胸毛が絡み合いまたは血しぶきがそこいらから吹き上がる戦闘の世界の非情さと空しさ。


其処へ聖母様が現れ男達よもう虚しい闘いなどお止めなさい、此の世は愛の世界です、愛のゆりかごの場です。

命のゆりかごとしての愛がそこかしこでいつも静かに燃えて居ります。

愛の住処、つまりは非戦闘区域であり、其処では全てが赦される、愛でもってユルユルに許す、其の大いなる子宮で生命を包む。




嗚呼、素晴らしいまさに素晴らしい女達だ。

腐った女たちなれど其は命を抱きしめて居る!


此の抱き締め、実はコレが男性には出来ない。

男性にとって常に世界は唯物論であり決してイノチの発現の場などではない。



要するに此処は遊ぶ場であるに過ぎない。

つまり食う、寝る、遊ぶ、其処には実は女遊びは入って居ない。


鉄道模型で遊ぶ、或いは城巡りで遊ぶ。

勉強で遊ぶ、酒飲んで遊ぶ。



だから其処には無い女遊び程恐いことはない。

それに女のパンツなど絶対に捲ってはならない。

何故女は恐いのか?


女=生だからだ。

女は生の僕であり性の僕である。

つまり其の部分につき決して疑いを抱いて居ない。


もし女でもって生に対する疑いの眼差しを持つ者が居るのだとすれば其れぞまさに菩薩様か聖母様だけだ。

普通の人間の女、またはサルのメスは必ずや生=性がいいことだと思って居る。

然し菩薩様や聖母様の場合まあ人間ではないので世界に対する認識の仕方が異なり君等とは違うものを観ておいでだ。



其れで生の負の側面に就いても重々承知して居られる。

此の悪魔めが、悪の眷属としての人間共めが、此のクソたれ共を放置しておくとロクなことにはならぬだろうからあえて其処で愛を説こう、

愛を説くことで人間の抱える苦しみを是非相対化させてしんぜよう。



と、其のやうに菩薩様や聖母様の説く教えの中には実はエゴイズムの階梯が入って居ない。

即ち宗教は普遍的な愛に就いて説くのであり其の女の子宮の奥底のエゴの暗闇に就いて赦して居る訳では無い。



ところが子宮の奥底の求めは激しく強くまことに罪深い。

女の生への欲ー性欲ー、実はコレこそが宇宙一激しく燃える何かだ。

おお、其はまるで火の玉宇宙だ、メラメラと燃える生存の欲へのあくなき拘りだ。



嗚呼、怖い、何故こんなに怖い。

実はこんなに静かな世界だと云うのに。

今植物は真新しい緑の装束を纏いかの地に息づく。


植物の香りが今此処に充ちて居り其れは自ら充ち足り自ら意識が冥落したところでの香りだ

うーむ、矢張り植物が植物こそが理想の生命の形なのだろうか。


対する子宮の奥底にメラメラと燃える生存の欲へのあくなき拘り。

アアー、もうこんな女共が世界の破壊者ではないのかほんたうにほんたうのところでは。




いや、其れは知らん。

ほんたうに女が破壊者なのかどうか其れは言えぬ。

口が裂けても言えぬ。


だって言って仕舞へば即此の世は闇じゃ。

だから何度も言って居るやうに女こそが花じゃ、或いは御姫様だ。



わたくしなどは自分の彼女を永遠化する為にサファイヤ姫と名付けて居る。

今日もまたサファイヤ姫がどこそこで何かを購い其れを食いつつ生きて居るのだ。


然しわたくしの人生は即詩なので此の種の利口な女でさえ理解することが難しい。

兎に角全部が難しいまるでかのベートーヴェンのやうなわたくしは今日もかうして社会問題につき考え女のことなどスッカリ忘れて居なければならない。



が、ほんたうのほんたうは社会になぞ何の興味も無い。

かの腐れ社会がどうなろうとまさに知ったことでない。


愛の永遠化、其の永遠の愛、其れだけを実は追い求めて来て居る。


然し腐って居るのではないのか、君の其の永遠のサファイヤ姫でさえサルのメスと寸毫変わらぬ破壊者の筈だ。

生の肯定者=生の破壊者との真理領域に於ける論理からすれば全ての女は皆破壊者である。



いーえ、其れは違います。

ボクの彼女はもう年寄りです。

だからもうどうしたって子どもなんか生まれません。


そうではなく永遠の恋人だ、我が永遠の愛の対象者としてのサファイヤ姫なのさ。


つまりは聖なる母でさえない。

ましてやすでに女でもない。

かの星 明子姉ちゃん、かまたは菩薩様聖母様=マドンナとしてのサファイヤ姫だ。

サファイヤ姫よ、わたくしの愛を受け取れ、どうか受け取ってお呉れ、ではなくどうか受け取りやがれ、である。




と云う訳で色々とやっては居る私ですがどうも社会問題の方で引っ掛かり心穏やかで居られない。

とは云え植物はこんなに綺麗なのですがね。

こんな万緑の中をほっつき歩くのが昔からのわたくしの趣味ーいかにも高等な趣味だと屡言われて居りますーなので山へ行き心身共に緑色に染まってみたいところですが兎に角ヒマがありません。




では何故子宮の奥底にメラメラと燃える生存の欲へのあくなき拘りが矛盾化するのだろう。

何故って其れは限定を認めない思想だからです。

第一近代自体が其の限定を解除する営為です。


其の限定の解除こそが女の欲望です。

男の欲望はあくまでやり逃げですので其の限定でいいんです。

本音ではガキなんぞ、もうまるで興味ないです。



男性が好きなのは鉄道模型でありキャンプファイアーでありやり逃げすることだけです。

子孫繁栄だなんて、或いは墓だなんて、ましてや家だなんて、或いは社会や文明だなんてもうまるでどうでもよいもののことで全ては限定の上での生です。

そう限定の生にこそ尽きて居るのだ。



三島先生はかって割腹自決されたが畢竟其れは未来の日本を守る為の行いだった。

けれど普通男共はそんな未来を欲深く築こうなんて考えては居りません。


今が良ければ良いと云う其の位のことしか考えて居りません。



でも男は子宮思考を解せないカタワなので生きること自体の価値に対し常に不安でかつ不安定です。


其処からしても安定と云うのは、元より女が築くものです。

本質的に男性は不安定かつ不安な心の持ち主です。


ところが近代の思想は其の安定する為の要素を須らく不安定させて来て居る。

人間に対する合理化が其の不安定な様を極限まで突き詰めていくと見做しても良いことだらう。


男性の合理化→元々食う、寝る、遊ぶが好きなだけの男性を国家や会社、或いは女共の奴隷となしたことで男性を女性化ー牙を抜くーしたこと。

女性の合理化→女としての生の合理化=性の合理化を社会化するに及び女の価値観と社会の価値観を同一化し結果的に女性を男性化していくこと。

労働者の合理化→欧米式の合理主義的労働観を手本に派遣社員ばかりを増やしかつ憲法で保障されし生存権を反古にし未来なき日本の若者の群れを生じさせた。

性の合理化→過激なエロ動画が溢れる情報社会を現出せしめ、のみならず金でもって体を売る女共を大量に現出せしめもはや道徳も倫理もクソも無く挙句に教師も気が狂い屡教え子に手を出すといふ異常な風潮を生み出した。



だから安定は、あくまでおっかさんとしての良妻賢母が築かなくてはならない。

かなしいかな菩薩様や聖母様は此の近代の思想による現実的な破壊力に対抗し得る力に欠ける。



ですから近代と云うのはそうした現実だけの世界なのです。

即ち今、勝って居るか負けて居るか。

今、快か不快か。

今、愛されてるか、愛されてないか。



でも私はむしろ愛の永遠を信じますのであくまで彼女はサファイヤ姫で沢山だとそう思います。

そんな自分の肉体を金で売って居るやうなふしだらな娘共にわたくしの此の高貴な肉体を汚されたくはありません。

ありません、ありません、ありませんったらありません。



いや、所詮は男ですもの興味がない訳ではないのですがね、とりあえずは理性がね、其れもこんな理性が小難しいことを言うものですから、そんな腐った女などはたとえ教え子だとしても御免である。

嗚呼、早う石女のサファイヤ姫とデートをしたい。

然し公私共に問題が山積みで其の辺を歩いて来る心の余裕すらない。


結局人間のバカはいつまで経っても治らないと云う事なのでしょうか。