昨日棚山へ行きオパールを採って来ました。
薄めの青をメインに結構量も採れましたが、それは多分雨続きや台風の後で涸沢の下の石が顕れたからなのでしょう。
ー知人に配る為に白も採ったこともありー
つまり私の採集場所では一年毎位に行けば何か採れるのではないかと思われます。
ゲートの下流域の方でも一つまずまずの黄色のものと空色のものが採れました。
昨日は晴天でしかも黄葉が見事でした。
山の気が充満する中で久し振りに羽を伸ばして参りました。
ですがどうも現実としての悩みのことを考えてしまいます。
瞑想どころではなくそんな現実としての行動にかまけているよりほかない訳です。
もっともそういうのが緩和されることもまた事実で矢張りそこが山の優しさと云いますか母性の部分なのかなあとそこで感じていた次第です。
現実には自然のさ中では母性のもたらすもうひとつの面である食う為生きる為の闘いが繰り広げられている訳ですがあくまでその闘争から離れて生きている人間にはその母性の一極しか感じられない訳です。
でもその分別次元での苦しみが人間には与えられています。
それも人間の持つ欲望の醜さや哀しさと云うことに思いを巡らせる以前に自分の持っている欲乃至は業のようなものに押し潰されてしまわないよう懸命にこらえている感じでしょうか。
真理からすればそういうのはおそらくこらえる場所と方向が違うのかもしれませんが人間は誰しもそうして何か違うことの為に努力しまた耐え現在を成立させていることでしょう。
要するに山へ行くと精神の解放と共にそうしたより深い人間または文明への絶望感のようなものを抱くようにもなりました。
ですが山は矢張り聖なる場所なのだと思われます。
昨晩は月が光り輝いて見えていました。
夕方には松脂岩の岸壁が夕日に赤く染まりその光景が見事でした。
全体的には山はまるで黄色く輝いているようでした。
そして兎に角静かでした。
この静けさは決して都会では得られないものです。
静かなものは金も女も悩みも生み出すことはないがただただ隔絶して美しい。
美しいものは都会にもありますがそれらは皆嘘の美しさのものです。
ですが自分はあくまでその嘘を生きる者ですのでまた人間界へ舞い戻らなければならない。
そこがまた苦と云えば苦ですが闘いだと云えば闘いです。
それこそ自我の闘いでしょうか?
暗くなり林道の上の方からまた麓の集落の光を見詰めて参りました。
その光には眞がこもっているのかどうかそれは分かりませんが少なくとも人間の生活の為の誠の光なのでしょう。
そうこうするうち、星まで出て参りました。
星々が瞬く間を、飛行機のライトが点滅し過ぎ去っていく。
それも美しいと云えば確かに美しい光景です。
一方で自分は何だか次第に弱っていっている感じが致します。
美はそんな様を慰めてはくれるが救ってくれることはない。
あくまで自分を救うのは自分でしかあり得ない訳ですね。
とりあえずは今日もまた忙しいのでやらなくてはならないことをやっていくことしか人間には出来ない。
さて人間以外のものにはどうしたらなれるのでしょうか?
霊的なレヴェルでのお話ですが、かねてから直観によれば人間はむしろ最下位者であることは分かっておりました。
それがさも上位者であるかのように振る舞い欲に基づく文明を築き上げたのですからそこがそもそも大間違いです。
人間と云う存在自体が大間違いなのだろうと思います。
でもここー今の生ーを正しく生きれば猫か何か位にはなれそうな気が致します。
植物はさらに上位者でしょうからこれはもう余程に修行を積まないと無理なのかもしれませんのですが。
なので私の夢は棚山の自然木の一本にでもなりそこで長生きすることです。ー与えられた長生きとしての長生きをー
もしも植林木に生まれ変わると伐られてしまうのでそれは嫌です。
そんな訳で私は今涅槃など目指していなくて、けれども美を備える何ものかにはなりたい、でも人間だけは醜いのでもう御免である、と云うところに心が定まりつつあります。