知性と云うのは、悩むものだとわたくしは捉えて居るのであります。
対して知性なきものは悩まない。
すると自然はどうなのかと云う話になりましょうが、自然にも悩みまたは苦はあるとわたくしは見て居ます。
然し少なくとも其れは観念的な悩みでは無い。
たとへば五匹も子猫を生んで仕舞った野良猫の母ちゃんは毎日子猫達の食料を確保する為に苦労して居ることでしょう。
其れで、わたくしはつひ其処で餌を与えて仕舞いました。
まさにえらいことをして仕舞いましたのですが、余りに人間の莫迦に日々心を痛めつけられて居る分、どうにも寂しくなりつひ家の周りで其れを飼って居ります。
するとそのうちに猫がどえらい勢いで増え、其の五匹がすぐに五十匹位になることも予想されようが、それでも此の人間共の野放しよりは幾らかマシであり、矢張りほんたうの問題は人間共の増殖の方にあるのではないかと考えつひさうして仕舞ったのでした。
知性とは苦の現在を悩むことの出来る能力のことだとわたくしは考えており、従って其の猫の話の中で悩んで居るのは実はわたくし一人きりのことです。
なんとなれば猫の母ちゃんと子猫達は腹が減って居るのを苦と感じて居るだけで自分等が増えることがマズいことだとはまるで思ったりしては居ない。
然し知は、結果つまり未来を見通せますからあくまでマズいことだと分かるのでまさに悩むのです。
ならば未来のことなど考えずさらに過去のことなど忘れて現在に生きよとか何とか、アノ禅家をはじめそんなことが屡語られて居たり致しますがわたくしの場合どうも其れではいけないのではないかと思ったりも致します。
何故なら此の知つまりは悩みこそが未来を見据える力である。
或は過去から学び直すことの出来る力である。
確かに真理に至る為には其の類の知はむしろ邪魔なものですが、真理と云ったって真理に達した人など長い長い人類の歴史の中でも多分二、三人ほどしか居ない筈。
我我は真理など分からないから此処にこうして迷い出でて来て居るのですから、其処でむしろ知の方こそを磨く必要があるのではないか。
だから個々及び集団の領域でバカを治し知を磨くことこそが我我が此の世に生きて在ることの最終目的である。
ですので兎に角知ですね、知。
コレを整えていけば見えるもの、聞こえるものがまるで変わって参ります。
ところが知は必然的に観念的な苦を背負い込みます。
先の話での未来に於ける野良猫の増殖を危惧して居るわたくしの心にだけ其の苦が背負い込まれるのです。
然し、此の観念の苦は、人間が人間として正しく背負い込むべき苦です。
わたくしは此の苦から逃げたりしてはいけないとそう思うのです。
本質としての人間の存在意義とは、其の観念苦を正しく苦しむことではないかと最近はそう思えて来ました。
何故ならかってのやうに人間が人間として苦しむことが減って仕舞ったように思われるからです。
悩むことが流行らないとでも云うか、其れでもって事実悩むことの多い戦前から戦中での文學のジャンルなどは今余り読まれて居ないことでしょう。
然しわたくしは、中学の頃からかの太宰を読破し、また高校の頃はかの芥川を読破致しました。
しかもコレがまた飛びっきりに悩んで居た作家達でした。
特に太宰は滅茶苦茶でしたが、どうも今思えば此の太宰の滅茶苦茶振りから最も大きな人生の上での何かを伝えられたような気も致します。
其れは人生が生きるに値しない、まさにバカバカしいものだと云う事だったのかもしれない。
いや、其のバカバカしい人生に対して少なくともまともに向き合い悩むと云う姿勢だけは学ばせて頂いたやうに思うのです。
挙句の果てに二人とも自殺でしたが、それでも今思えば矢張り此の二人の作家からインスパイアされた部分は一番大きかった。
其れは実人生の上でのどんな体験よりも大きいものであった。
どんな表面的な体験よりも、また或は宗教関係でのわたくしの体験などよりもずっと深く抉られ根源的な悩みの部分に達して居たものだったのかもしれない。
わたくしは今、そうした深き悩み、苦の源より発したところでの重い悩みを悩むことこそが人類或は文明にとっての最大の課題なのではないかと考えて居ります。
謂わば観念的な悩みの極致、此の領域を生きずして一体何の為の生の構築、一体何の為の日々の推進なのでしょうか。
翻り今の文明の状況を鑑みるに、どうも其の類の知には欠けて居る、即ち悩みが無い。
悩むこと、其の最大の苦の受け止め方がほとんど忘れ去られて居る。
まさにコレぞ、人文系の知の衰退である。
文學とは悩みですから、其の悩み自体が何処かに置き去りにされて仕舞って居る。
そして少なくとも悩む知の力は、自然を破壊したりすることはない。
何故なら其の前に自滅して終わりです。
でも、たとえ死んだとしても欲望はのこらない。
芥川も太宰も、断じて此の世に未練は残さなかったのだと思います。
そういうのが文學なのではないでしょうか。
対して科学技術文明は、もう未練タラタラです。
それどころか悩むことすら出来ない。
ましてや死ぬことなど絶対に出来ない。
おまけに現世利益中心主義で、兎に角金、力、勝った負けた、それだけです。
全くばかなんじゃないでしょうか。
芥川も太宰も、そんなばかには付き合うことなく死ねたのでまだしも幸せだ。
ですので科学技術文明には真の意味での知が含まれて居ない。
悩んで居ないから其の知が磨かれると云うこともない。
で、そう云うところから嘘の神が創られていく訳だ。
其の嘘の神は人類を滅亡させる、そんなとてつもなく理不尽な力に充ちて居る!
対して文學は、一番ひどいものでもせいぜい自滅する位で終わって仕舞います。
しかも悩みに悩んで生きて居たので逆に死んでからは楽です。
何かこう、人間らしい等身大の悩みであるところがまさしく人間的でよろしいと云うか好ましいところですね。
ところが科学技術に於ける矛盾はほんたうに人類全体を絶滅に導く。
しかも悩んでない、悩んでないよ、金輪際悩んだりはして居ない。
それどころか、イケイケでかつウハウハだ、もうまるでウハウハで人工知能だ。
もうまるでウハウハでアンドロイド妻だ。
もうまるでウハウハですわ核戦争だ!
ふと気付くと嗚呼、こんなところにわたくしの脳みそが。
尤も其れは人工知能とくっつけてあり、すぐにまたわたくしの頭の中へ入る。
もはや生身の人間など何処にも居ない。
すでに人間は気が狂い、自らを機械人間と化しまた自らをコンピューター化して仕舞った!
ほんたうのほんたうに気が狂って居るんだ。
神仏が死に絶え、嘘の神の支配する其の究極の管理社会の中で、かのマッドサイエンティストどもだけが髪を振り乱し叫んで居る!
へへへ我がカミよ、へへへ我がアンドロイドツマよ、へへへダザイロボットよ、リューノスケロボよ、ロボソーセキよ、へへへへへへロボが我が全てよ。
へへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへーッ。
この、気違ひ!
まやかしもの、嘘で虚であるところの全てのもの、マッドサイエンティストどもが拵えし魔境、まさに知の崩壊、崩壊の知であるところでの魔境。
嗚呼人工の知の何たる汚らわしさ。
うわーもう気持ち悪い、ゲロゲロ、オエッ気持ちが悪ーいのだよ。
今一度言うが、其の嘘の神は人類を破滅させる。
人工知能によって我々がどのように利益を得そして最終的には 破滅を招きかねないかお話しします 人工知能が人類を破滅させたり自滅に追い込んだりしないシナリオは実際考えにくい気がします それでも皆さんが私と同じならそういったことについて考えるのは楽しいことでしょう その反応自体が問題なのです そういう反応は懸念すべきです
2番目の扉の向こうにあるのは知的な機械の進歩がずっと続いていく未来です するとどこかの時点で人間よりも知的な機械を作ることになるでしょう そしてひとたび人間より知的な機械が生まれたなら機械は自分で進化していくでしょう そうなると我々は数学者 I・J・グッドが言うところの「知能爆発」のリスクに直面します 進歩のプロセスが人間の手を離れてしまうのです
人類がアリのような存在になると考えるといいです 我々はアリが嫌いなわけではなくわざわざ潰しに行きはしません 潰してしまわないように気を遣いさえしてアリを避けて歩きます でもアリの存在が我々の目的と衝突した時― たとえばこんな建造物を作るという場合には良心の呵責なしにアリを全滅させてしまいます 私が懸念するのは意識的にせよ無意識にせよ人類をそのように軽く扱う機械を我々がいつか作ってしまうことです
誰も気付いていないように見えるのは時間的スケールはこの際無関係だと いうことです 知性の実体が情報処理にすぎず人類が機械の改良を続けていくならいずれ何らかの形の超知性を生み出すことになるでしょう それを安全に行える条件を作り出すのにどれくらい時間がかかるのか我々には見当も付きません もう一度言いましょうそれを安全に行える条件を作り出すのにどれくらい時間がかかるのか我々には見当も付きません
より根深い問題点は超知的AIを作ること自体は超知的AIを作りかつそれを人間の脳に統合するための神経科学を完成させることよりは簡単だろうことです これに取り組む国や企業は他の国や企業と競争をしていると認識しており勝者が全世界を手に入れられるのだとすれば―次の瞬間に破滅させていたら別ですが― そのような状況においては何にせよ簡単な方が先に成し遂げられることでしょう
此処でサム・ハリス氏は、今後の人工知能による知性の発達または革命的な進展につき人間は実感として危惧すべきだと論じて居られます。
事実我我は今科学技術の進歩に対してほとんど不感症になって仕舞って居る。
特に戦後世界に於いて科学技術文明は謂わばひとつの宗教と化して仕舞った。
我我は今科学技術による成果を信じて疑わない。
何故かと云えば其れが神にすり替わって仕舞ったからだ。
悩む知の代弁者としての伝統的な人文の知の領域は狭められ、其の代わりに悩まない知の代表である科学技術に対する信仰が齎されたのである。
だが其の信心はあくまで嘘の信仰である。
そんな嘘の信仰を続けて居れば早晩魔境へ入るか地獄へ堕ちることが必定だ。
そして其の人工知の為の機械、即ちAIは、無論人間の心を持つ訳でもなくましてや悩みを理解する訳でもなく超高速な情報処理能力を持つ機械に過ぎないのだ。
従ってわたくしの場合は其れを知性であるとは認めない。
知性とは悩む力のあるもののことなのだから。
だからあくまで其れは嘘の知性、または虚の知性、なのである。
其のやうな未来へと自らを追い込んでいく人間存在の知性とは一体どうなって仕舞ったというのだろうか。
わたくしは、矢張り其れがひとつの破壊であると考える。ー自己矛盾的なー
人文系の知、即ち悩む方での知の方が破壊されつつあるのである。
其の破壊は自然科学と資本主義により齎されるものだが、其の根底には欲望の成就ということがある。
自然科学と資本主義には共に其の欲望の制御には欠ける、即ち限定性が無い、無限の欲の成就を根底に据えて居る。
其の無限の欲の解放乃至は無限の知の解放こそが逆に人類を或は文明を追い詰めていくことだろう。
だから無限とは、良いことではない。
そして逆に其の無限に我我は抹殺されるのである。
其の無限の知即ち超知的AIの知は謂わば嘘の神の知である。
元より其の知には悩みが含まれて居ない。
つまるところ、人間にしか出来ないこととは此の悩むことである。
自然は苦を感じはしても悩むことなどない。
機械は苦を感じずまして悩むことなど出来る筈がない。
よって今我我には二つの選択肢がある。
このまま科学の奉ずる嘘の神を信じて進み、超知性体となったAIに滅ぼされるか、それとも本屋へ駆け込み太宰と芥川の文庫本を買って来其れを貪り読むかの二択である。
ま、わたくしはすでに読み終えて居るからあえて読む必要はない。
いや、其れよりも何よりも毎日生きる事だけで必死ですでに悩み深い生をノンフィクションとして成り立たせて居るからわたくしの生自体が文學であり宗教でもある。
もう其処まで行って仕舞って居るからことさらに何を読もうとかそんなことではなく謂わば生身でもって詩を書き宗教をやって来て居る。
要するに悩み過ぎなのだが、逆にそれだけが、それこそがわたくしの知性としての勲章のやうなものだ。
何より悩む生は正しいと、そう信じてやまぬ昨今の我である。