目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

我我の感性はやがて合理主義にぶち壊される


自然を客観視し主観より分離し其の客体化されし自然を手なずけることが近代の目的であり最終目標である。

ところが誰でも考えてみれば分かるのだが、其の客体化されし自然には神は息づいて居ないのである。

なんとなれば神は此の地球上にこそ、此の悩み深くしかもゴチャゴチャの地球上にだけ開闢するからなのである。


尤も開闢した途端に神はアチラの世界に行って仕舞われる。

即ちほんたうに此の世に神が存在する訳では無い。

然し、泥の中から真理の花が咲くやうに、或は善悪のゴッタ煮状態である腐った世でこそ神意は目立つやうに、其の負の要素からこそ神仏が誕生する。



天国、或は極楽、もはや其のやうな悟りの世界に真理など必要ではない。

第一神に説教したところで其れは無駄であり、仏に説法したところで矢張り其れは大いなる無駄である。

だから神仏には真理など元来必要がない。



真理が必要なのは、まさに此の我我に対してなのである。

其の腐った泥の中にうち沈む此の我我にこそ神の叡智と仏の慈悲が何としても必要なのだ。

我我はさうして此の臭い臭い娑婆世界に甘んじて身を潜め、おまけに認識が腐って居ようからもう無知なことこの上ない。



馬鹿の癖に利口と思い、しかも其処で居直りアア我こそは衆愚だと威張り、酒色に溺れ金の魔力に負け続け、ただただ色と欲、女の尻など皆同じだと云うのにつひ高級な女の尻が何処かに転がって居るのではないかとの倒錯の願いを妄想し、しかも大酒飲みの酒浸りでいつも欲望まみれの君のことだ。


第一家庭と云ったって、其処には実は女房の重い尻がひとつ居座って居るだけのことなのであり、従ってあらゆる家庭は女の子宮の魔性、其の自己矛盾性から決して抜け出せず、さうして二千年も三千年にも亘りさうして来たことの罪過を、其の重き重き罪、まさに女共が担いし本能と云う牢獄の罪を未来永劫に亘り其れは背負っていかねばならぬ。



このやうな俗世間の穢れ、人間存在の汚れに嫌気がさすともう人間が辞めたくなる。

もはや其処には神仏もクソもない、人間の欲でドロドロの地獄の様がまさにまさに無限に拡がるばかりでもう其れは遠からず自滅じゃ、自滅。

此の自滅する愚かな生きもの、道理が分からぬ馬鹿共、即ち無明のバイ菌共、所謂悪魔であり魑魅魍魎の類が其処かしこにうじゃうじゃ居る。


おお、其処かしこに其れ等が増殖しもはや息苦しいばかりだ。



嗚呼、どうも息苦しい、どうしてこんなに息苦しい。

ハアハア、ハ~、スーッ、ハー。

うむこれでようやく息が吸えたわ。



此のクソたれ共が地球を覆い尽くし、其処で神と佛の意に背き文明を謳歌して居る。




開闢?

開闢したのは宇宙だったのか其れとも人間の愚かさであったのではなかったか。



其の開闢の瞬間が、まさに其の開闢の瞬間が現代の物理学では問題とされて居ようがほんたうはそんなものに何の意味も無い。

だから云って居るでしょうが。

客観視され論じられたものには何の意味も無いのである。

其のやうなものは、たとへば蝶、アノ蝶の美しさがそう感ぜられたので述べて居ることに過ぎず其れはあくまで蝶のほんたうの美しさを示したものではない。




だから何度も云って居るでしょうが。

其の蝶のほんたうの美しさにつき述べるのであればむしろ我我の側が其の蝶に、蝶そのものになりきる心を開発せずば其れは成らない。



其れは、自然の客体視ではなくむしろ主観的な解釈のことだ。

主観的な解釈即ち文學であり詩であり絵画であり音樂であるところでのもの。



そして其れはかっては堅固に成立して居たところでのものだ。

即ちそんな花鳥風月の様は古今東西にわたり人類の歴史の中で共感されて来て居た筈。



然し近代以降の科学的認識は其の共感を分断し人為的な解釈、人工的な認識へとまさにコぺルニクス的な視点の転換を成し遂げて仕舞う。


だが其の認識こそが魔の認識である。


何故なら其の認識以降、我我は真の意味で蝶の美を愛でる、或は蝶の美と直接戯れる契機を失ったからだ。


よって其れ以降我我の認識はあくまで蝶の美を外側からしか捉えられなくなった。




他方で確かに我我は薬でもってまたは手術でもってして寿命が延ばされることとなった。

然し其の長い寿命とは何だ?

畢竟其れも外側から延ばされた寿命に過ぎないのではないか。



自然の客体化と云う魔の認識により、まさに文明は魔の領域を築き上げた。

内面と切り離されし外界を築き上げたこととなる。



内面即ち心は、元より世界と無関係なものではない。

むしろ心こそが世界を形作るのだ。



ところが近代の神は其の心を持たぬ神である。

さうした人工神を開闢させて仕舞うのだ。



心なき神、心なき佛、戒律なきキリスト教、戒律なき仏教がそうさせた。



此の人工の神、佛は蝶の美しさについてなどついぞ知らない。


何故なら其れは外側からの神であり佛である。



外側からの佛では全国の寺も困り、実際今後三十年程の間で我が国のお寺の多くは廃業させられる運命にある。

さて、六十代の方々よ、かっては学生運動で社会矛盾と闘いし勇士の方々よ。


どうもこのままでは仏教が滅びますよ。

此の日本国から、仏教が消えて無くなるがイザそうなったら一体どうするのですか。




其れで、ふしだらなのがもう極限にまで加速致しますよ。

もう結婚も何も、スッカリ合理主義になりたとへばアンドロイド妻一体で全てを済ませられるやうになりますぞ。

女共は余計にふしだらになりマイクロキメリズムでもってして女と云う女の遺伝子が滅茶苦茶に汚れていきます。





一体何なのだ、何だと云うのだ。

こんな社会に誰がした?

こんなバイキン社会に一体誰がしたのだ?



嗚呼、其れは、其れこそは合理性と云うひとつの一方通行、即ち神仏の尊さと貞操の大切さを顧みることのない客観的斜視の文明、此の文明の方向性の間違ひ、外側から自然及び人間を眺めて喜んで居る其の卑猥な認識の愚かさ、即ち蝶の美を蝶の美として素直には見ない文明、大切な主観を離れ普遍化し抽象化し手の届かぬ領域へと持ち上げて仕舞った文明即ち科学技術文明即ち変態文明、其の卑猥な認識のみを神の啓示の如くであるかのやうに喜ぶ自然科学者の群れ。


さて自然科学者は屡美しい理論だとか、或は美しい自然の法則に刺し貫かれし世界だの宇宙だのと云う事を口にする。

ー尚わたくしはかってとある研究所に13年間勤務して居りました。だから自然科学者の二十人や三十人はそれなりに存じ上げて居ります。-



だが其の美しさとは所詮人工の美のことではないのか。


理論とは、つまり物理の法則とは、所詮は人間の頭の中で練り上げられた人工の美の構築物のことではないか。



然し、わたくしはあくまでそんなものには興味が無い。

相対論も、量子論も、統一場理論も、所詮は人工知の為の構築物なのであり自然の美を直接感じ取る類のものではない。

よってそんな世界にほんたうの美がある筈はない。



ほんたうの美は、我我が創るものではなく与えられるものである。

まさに神仏の叡智により今此処に与えられるものなのである。


ーまたほんたうの幸せに就いても其れは我我が創るものではなく与えられるものである。嘘の神により築かれし文明世界に言うまでもなくほんたうの幸せなど無い。-




第一天動説と云う考えは、コレはなかなかに素晴らしい考えで少なくとも神様を中心にして全き秩序が維持されて居た世界観だった。


其処へ要らぬお世話を焼き変な見方、謂わば誤った認識を世に広め人心を惑わしたのがかのコペルニクスでありガリレオでありデカルトであった。ーただしコペルニクスは司祭を務めて居たことさえあったとされて居る。またガリレオは敬虔なローマカトリックの教徒であったそうだ。-


此の馬鹿共は宇宙の秩序を須らく客観視して仕舞った。

其れで其の咎により以降近代はひとつの呪いをかけられて仕舞う。




其れは自意識と云う病である。

または近代的な自我と云う病の事である。


此の自我こそが近代を展開させ其処に人間中心でもって嘘の神の領域を造り上げて仕舞う。

理論が示すことだろう人工の美の世界に夢中になりつひそうなって仕舞ったのである。



元より自然科学的な世界解釈こそが現代の文明世界を根本から支え続けて居る。

勿論其れは変わり様のない現実である。

然し行き過ぎ、やり過ぎと云うことを必然的に孕む自然科学の力程実感される人間としての生活や肉体と乖離したものはない。



理論は現実とは違い、されど現実は実感だけで規定し得るものではない。

幾らそうだとは言え、理論は現実そのものを規定するものでもまたない。


つまるところ此の問題は、畢竟論理と感性、理窟と感情と云う二元的対立の問題でもある。

然し合理主義があくまで人工の美の極致を目指すのであれば、おそらく理窟は全ての人間の感性を置き去りにし人工美の極致へと、即ち嘘の神の揺るぎない構築へと急かされていくことだろう。