近代を形作るものの、其の本質とは破壊である。
破壊とは常に恐怖なれど、何故か我我は其の実感に欠けて居る。
何故実感に欠けて居るのだろう。
其れは我我がひとつの巨大な檻の中に取り込まれて仕舞って居るからだ。
其の檻こそは妄想そのものであり錯誤そのものである。
だから今我我にはほんたうに大事なものが何であるかと云うことがまるで見えて居ない。
ほんたうに大事なものとは企業の利益でもなく個の活躍及び栄達でもなく家族でもなく宗教なのでもない。
ほんたうに大事なものとは均衡されし心のことだ。
バランスを得た心のみが目覚めを経験する。
されど目覚めることのない心は永遠に盲目化される。
さうして檻の中の生を喜び、其処で日々利己的な欲望の充足の為にあえて骨を折る。
小から大へ、
有限から無限へ、
単純から複雑へ、
(複雑から単純へ、)
多様から画一へ、
特殊から普遍へ、
具象から抽象へ、
精神から物質へ、
非合理から合理へ。
(合理から非合理へ。)
実から虚へ。
と近代は其の歩みを続けて来た。
近代の掲げし普遍性である概念の抽象化は即物的な領域でのみ進化を促した。
前近代の掲げし特殊性である概念の具象化は即物的な領域での進化をむしろ抑え込んで居た。
ところが其のタガが外れて、近代は一挙にしかも無限に増殖することとなる。
さうして無限に夢見、そして無限に欲を追い求める。
然し無限に夢見、そして無限に欲を追い求めることの愚かさに対して、
自然は翻意を示すことだろう。
神仏の叡智に導かれし世界への一体感を捨て去り、
我我の我儘と思い上がりに対して牙を剥くことだろう。
ひとつの揺るぎない決意として、
今後其れは指し示されることだろう。
何より叡智の代弁者としての其の決意から。
文明に対するありとあらゆる災厄を、
雨を、霰を、そして青ざめた馬を、其の死の瞬間を、
我我と云う名の欲の上に投げかけることだろう。
おお、死よ、あらゆる災厄よ
まさに今地獄の底から沸き上がり沈み込むものよ
ひろごりて滞り
さうして万年にも亘り此の世を覆い尽くすものよ
如何なる啓示が
また如何なる気付きが此の死への歩みを押し止めんとするか
嗚呼、死への栄光の歩みよ
栄光の歩みの中の死よ
光あるあらゆるものに対する暴虐が
かの暴虐の数々が
其の殺戮の中の無限が
無限の欲の構築が
死のなれの果ての構築が
我と我が身を苛む無限が
無限の構築が
無限と云う名の永遠の自滅が
尚此処で近代を刺し貫くであろう一種無限化されし価値ヒエラルキーに対し一言もの申しておきたい。
其れは近代が構築せし無限の欲の価値ヒエラルキーのことだ。
此の無制限に解放された欲の、其の欲の等級に元より意味など存在しては居ない。
大臣、大将、校長先生、社長、部長、
などと云ったヒエラルキーは元々無意味である。
其処にどんな勲章でもって飾り立てても無意味である。
さらに収入、学歴、経験の多寡などでのヒエラルキーは無意味である。
要するにヒエラルキー化すること自体が幼稚なのである。
逆にさうした幼稚な秩序に縛られて仕舞うからこそ妄想を抱き易くなり良かれと思いした行いが全て破壊へと向かうのだ。
されど秩序が悪いと云うことでは無論のことない。
勿論秩序の維持は大事である。
ただ全てを欲望を基準とする階層構造に組み上げて居る点がまさに幼稚なのである。
また所謂力の論理でもってして其の階層構造を即ち秩序を維持しようとして居る点が同様に幼稚そのものだ。
昔芥川 龍之介が軍人が胸に下げて居る勲章は陳腐であるとし其れを喜んで居る軍人の幼稚な様を思い切り揶揄して居たものだが其れと全く同じことだ。
従って今何が危ないかと云えば其れは核戦争の危機でもなければ宗教戦争でもなくましてや道徳の喪失、利己主義の蔓延、生の腐敗などにあるのではなく其の近代的な価値ヒエラルキーへの盲目的な服従にこそまさに危機が存していよう。
つまりは疑問が無い、悩みが無い。
近代に対する悩みの喪失と近代に対してロボット化することは、近代と云う全体主義をより強固にし破滅への行程を加速させる。
さて悩みが無ければ生きて居る意味合いはむしろ薄れていく。
其処からしても悩みがあるから、人間である。
悩みとはたとへば文學のことだ。
文學が分かれば、其の問いかけさえあれば近代に対してロボット化することなどあり得ない。
同時に合理主義の用意する虚のヒエラルキーに踊らされ挙句に煮え湯を飲まされることなども無い。