目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

禅即限定


ところで理性による価値ヒエラルキーは最終的には矛盾化し破壊されざるを得ない。

概念による価値観はさうした限定性に実は捉えられて居る。

其の限定性が見え得ないところにこそ我我の無知=無明である様がある。


しかも肉体はあくまでも物質として元々限定的です。

其の二重の限定が存するにも関わらず肉の無明と心の無明がまた二重に我我を縛って来るのであります。

いや我我をして解放させるのであります。

まるでもう変な価値観の方へと。


つまりはベクトルがそも違ふ。



解放しちゃいけなひところに解放しちゃいけないことはそも当たりまへのことで何処にそんなバカをやらかすバカが居りましょうや?

ですのでバカなのです。

皆幼稚園児よりも頭が悪ひバカなのです。



其の理性的規定即ち理性による価値ヒエラルキーの解体こそが禅にとっての最終目的でありかつ仏法にとっての最終目的なのでせう。

其れも近代的価値ヒエラルキーの解体のみならず其れ以前のこととしての前近代的価値ヒエラルキー自体をも全的に解体して仕舞ふのです。



つまり其処ではもはや人間じゃないです。

人間じゃない=たとへばカエルやイノシシやゴキブリのことか。

其れ並に心が浄化されていきませう。


或いは植物。

コレなどはまさしく心が綺麗である。

いつもドロドロの緑色の血が流れて居て素晴らしく心がキレイだ。


または石。

石程美しき心の持ち主も無い。

何せ心が無い。


即ち無いと有る、此の違ひにつき考えてみなければならなひ。

其の結果むしろ無い方が良い、と云う事に相成った。



現象は価値ヒエラルキー矛盾地獄に必然として捉へられ必然としてやがて崩壊する。

破壊される=多大な苦を其処で味わうと云う事じゃ。


尤も其の前に二元的対立苦=二項対立苦を背負わされ常にヒイヒイ言いながら生きていかねばならぬ。

其のヒイヒイの地獄と根本的大破壊苦の二重の苦にて我我の心的領域はドンドン楽な方向へと逃げていき最終的には悪魔そのものとならざるを得なくなり全てを破壊し尽くした挙句に悪魔が一匹此の大宇宙に居残る。



左様な原理は変えやうがなく全てはさうした悪の運命の手の内にある。

現象とはまさに其の運命をば生きることぞ。


まだ死にとうないと思おうがどうしやうが死はおまへたちを初めから抱き締めて御座った!

言うまでもなく生きることとは死ぬことで死ぬことだけが生きることだ。


どだい思うにならなひにせよこれでは酷過ぎる。

どうでも良いやうなものばかりに現代人は群がりどうでも良いやうなものばかりに価値を置き永遠に死にとうないのが性根の腐った我我の根性だ。



君は何故限定性を、其の限定性につき理解が及ばぬのか?

君の脳みそは一体どんな作りになって居るのだ?

現象とは左様な地獄だ、だから死にとうないではなく早う死にたひの方でなければ辻褄が合わぬ。


其のやうに死んで生きないと宗教のことなど何ひとつ理解出来ぬぞよ。



其のやうに価値ヒエラルキーの解体乃至は放棄を行ふことこそが宗教=精神論の目的であり人間の精神的規定の世界のことだ。

人間の精神の矛盾とは其れが限定され生じて居るにも関わらず其の限定を解ひて仕舞ふ働きをまさに運命的に担う部分にこそある。



するとどうなるか?

まず不倫及び淫行が世に蔓延する。

さらに資本主義が末期化し誰しももはや何も買ひたくなくなり逆に古ひものの価値が上がる。

ところが古ひものは数が少なひ。

其処に皆が群がるのでたとへばアンテーク萬年筆は一本百万円程で売れるやうになる。


また女なども頭の中身が古い女の方が評価が高くなる。

若い女はバカ女が多ひのでもはや売れなくなる。

とは言え流石に女も商品価値としては六十台までである。


無論のこと其れ以上となるともはや女とは呼べぬ。



次に温暖化が加速し食物事情が次第に悪化して来る。

さうして寺が廃れたりもしていく。

だが其の時初めて御坊様方は托鉢にて糊口をしのぎ次第に生きて居るか死んで居るか分からなくなり釈迦にようやく認められる立派な仏教徒の方々となる。



元より禅とは、禅とは其の悪魔過程としての生の運命との対決のことだ。

さう生自体が其の悪夢の連続のことだ。


だが一見生は楽しひ。

我慢さへすれば小金は貰えるし北海道への旅行なども出来る。

美味い物も食えるしすっげえ美人とデートすることさへ出来やう。

のみならずゴルフも出来るぞ。

一度でいいから300Yショットをしてみろ、さすればもうやみつきだ。

無論美人はもっとやみつきだ。



其れにポルシェにも乗れるぞ。

ポルシェ911ターボの現行型はつひこないだ見たばかりなのだが兎に角滅茶苦茶格好良くオーナーさん曰く、さうですねえ、アウトバーンならば330キロ位は出ますねえ。

とのことであった!


だが今わたくしの趣味はアウディのR8の方へ向かっておる。

ただしとても買えぬ。

何故なら三千万もするからだ。



まあさうした価値ヒエラルキーの構築乃至は肯定を否定するものでもない。

価値ヒエラルキーの構築を行へば色んな分野での追求が可能だし其れに観念の追求自体が其のマニア化のひとつの極だ。

だから最終的にマニアは観念へと走るものと相場は決まっておる。

藤村 操しかり、原口 統三しかり、西部 邁しかり。

観念に殉じてあの世へ旅立つのも其れは其れでインテリとしてのひとつの運命なのだ。



だから此の世の諸価値は最終的に破壊を免れぬ。


でも君は今自分だけは破壊などされぬとさう思って居ることだらう。

第一僕は小欲でもってして不細工な女房以外には興味が無い。

小遣いも月二万円であんな放蕩詩人みたく月に十万も遊びには使って居なひ。


宗教と言ったってあんなキチガヒのやうに毎回くどくどと訳の分からぬことを述べ最終的には人の心を暗くさせるそんな根暗でもってしかも悲観、其の非観のカタマリ、人類の未来を根こそぎ閉ざす性悪詩人、どだい何を言って居るのやら、詩を書くと言っておきながら詩など少しも出て来ず毎回文句タラタラで特に最近は話があちこちへ飛び意味不明だしおまけに女性批判が酷くなりつつある。



だから其れが宗教なんだ。

君のやうに生に対して真面目ではもはや真面目に世と共に滅ぶしかなくなる。

ゆえに其の価値ヒエラルキーの解体こそが宗教の意義なのだ。




宗教とは何だ、悲観だ。

悲観のカタマリだ。


では禅は悲観なのか?

悲観ではない、だから悲観なのだ。



さて禅の本義に於いて、価値ヒエラルキーの解体は潔癖に行われる。

潔癖であるか、潔癖でないか、むしろ其れだけが問題だ。


我我は生まれた時に其の傾向性を持たされて来て居る。

何処に価値を置くかと云う其の運命線を心の中に持って生まれて来て居る。


潔癖なものは宗教を生みさうでないものが近代を生んだ。

故に近代とは潔癖なものとの離反過程であり謂わば我我自身が悪魔ルシファーなのだ。

或いはマーラである。

ゆえに我我の欲望は常に肥大化する。



たとへ宗教であっても肥大化する。

宗教の一元化や宗教の権威化が其れに当たる。


だが禅は其処をこそ捨て去って御座る。

あくまで観念的には。


禅が観念を捨て切って居るのかどうか其れは知れないが少なくとも其れは行為である。

まるでかのカントが理性の限界を指し示し道徳的に行為することで逆に理性的規定を成り立たせたやうに禅もまた観念的対立の次元を行為することでのみ超克しやうとする。

観念の限界と其の観念により築かれし価値観の不毛に対して常に其れは挑戦的だ。



かように大事なのは同質ではないと云う事だ。

生に対しての死は同質ではない。

精神に対しての物質は同質ではない。

男性に対しての女性も同質ではない。


だが欲望は同質であることを免れ得ない。

性欲や食欲、さらに物質欲に於ける欲の構造は等しく同質だ。


同質なものから何かが生まれると云う事は考え難い。

其処からしても欲望の本質とは消費である。

或いは浪費である。


浪費が限りなく精神を疲弊させる。

対して精神を疲弊させることなく浪費に走らせぬものとはまさに精神の規定なのだ。


禅の規定は心の規定であり其れが即行動の規定である。

またさらに行動の規定が成れば心即ち精神の規定も自ずから成る。



ただし現代人にとって必要なのは禅家による真理規定なのではない。

むしろ真理は現代人にとって必要なものではない。

現代人にとって必要なものは行動の抑制なのだ。


または限定だ。

現代は限りなく限定を解除していく。

肉体的にさうして精神的にも。


わたくしに言わせれば其こそが誤りなのだ。


そして同時に同質化させやうとして躍起になる。



無論のこと其れも誤りだ。


なので其の規定の仕方のみを学べばよい。

禅は日常の行為全てを修行として捉えるがまさにさういうことだ。



いざ修行ではないとさう観念が判断すれば女は何処までもふしだらとなり堂々と不倫をなしまた堂々と会社の金を使ひ込み男との密会の家まで会社の金で建てて仕舞ふ。

ワタシに限って絶対大丈夫だと思ってなど居てはいけなひ。

何故なら女は皆同じだ。

皆同じ股の間でもってして元々理性など無い。


君等には理性が無い。

だからこそ禅を學ぶのだ。


でも残念なことに大抵の禅寺は女人禁制だ。

其の女の価値ヒエラルキーでもってして汚されぬやう女人禁制なのだ。



さう其処は聖なる場所なのだ。

聖なる場所には本来穢れた女共など入ってはいけなひのだ。


だから修行しやう。

一刻も早く其の価値ヒエラルキーをぶち壊さなくてはならぬ。


まず男、其れも若ひ男を誘惑してはならなひ。

其れとブランド物指向を止めよ。

まさにブランド物ではない心の清ひ男性こそが真の宝物だ。


チャラチャラしたブランド物男は女を必ずや不幸にする。

もう金は毟り取らるわ、遊ばれて捨てられるわでロクなことはない。

左様さういうのは心が無い、肝心の心が無いまさにポルシェ男だ。



故にポルシェではなくボロボロのフォルクスワーゲンビートルに乗るやうなそんな不格好な男をこそ選ぶべき。

そんな甲斐性なしでどんな力も無いバカ男こそが真理を感得せし聖人だ。


もっと聖人なのは車さへ持ってない。

即ち価値ヒエラルキーをすでに捨てて居るので車が好きだと云うのに車には乗って居ない。



でも車があれば色んなところへ行け楽しいだらうね。

いやでも限定だ!

限定こそが真理なのだ!




即ち禅即限定だ。

無論カントも限定だが禅は其れ以上に限定だ。

観念を超越してどこまでも限定だ。


それでは何故現代人、其れも米国の企業人などに禅は人気があるのでせう?

其れもつまりは限定だからだ。



限定、即ち不倫をしなひ、また儲け過ぎなひ、それどころか飯を食ふのも修行で、風呂へ入るのも修行。

掃除洗濯も勿論修行。

さらに女を遠ざける。


かように潔癖な禅宗であるからこそ今後日本の女の教育は全て禅家に任せておくべきだ。

さすれば日本の女の心理的破壊は今すぐに阻止することが可能だ。

今すぐに日本の小中学校で禅による修行を開始すべき!


左様日本国の未来は禅による限定の修行こそが担っておる。