目覚めよ!

文明批判と心の探求と

保守と革新の逆流


一言で保守、一言で革新とは云うが問題は其の保守であり革新であることが何に対する保守であり革新であるかという部分にこそ存する。



要するに保守の定義と革新の定義を何処に置くかといふことで保守であり革新であることの意味合いが異なって来るのである。


保守=自民党
革新=民進党共産党


との区別では割り切れない問題が実は現代に於いて生じて仕舞って居る。



何故なら、其の自民党改憲を主張して居るのだしー自民党の一部はそうではないことだろうがー民進党共産党はむしろ護憲派に回って居る。


ところが、少し考えてみれば分かるが、本来ならば保守勢力が護憲に勤しむべきなのであり革新勢力こそが改憲を主張すべきなのである。




どだい共産党が何故護憲に回らなければならないのかといふことがわたくしには皆目分からない。


其れは戦後民主主義といふ体制の維持をむしろ望むことなのだから元来共産主義とはまるで関係の無い保守の戦略の筈である。




といふことは共産党は保守勢力なのか?…笑…


また自民党は革新勢力なのか?…笑…





前提として保守といふのは、まず近代の進歩主義を嫌う立場であるべきだ。


社会の現状の維持と云うか伝統の維持、歴史の重みを重要視する考え方のことである。



ところが、其の保守である筈の自民党が革新することを願い出て居る。




改憲にしても、また新自由主義路線の政策に於いても然り。


すると、ヤッパリ自民党特に安倍政権は革新勢力である。…笑…




問題は何故こんな風になって仕舞ったのかといふことである。


矢張り其れは安保体制に著しい歪が蓄積されて居て其の歪により日本の保守の立場が歪曲されて居るのだろう。




なんとなれば戦後体制は日本の保守思想の解体ー軍国主義の解体ーにこそ其の目的があったのだから。


ところが戦後憲法は米国主導の民主憲法であった。


其れを護る為にあろうことか左翼が動員されたのであった。




つまり民主主義を護る為に左翼が頑張るといふ其の根本的大矛盾の構造が其れ以来ずっと成立して来て仕舞った。


コレは要するに神社へ詣でつつ、さらにクリスマスをやりつつ葬式は仏式で執り行うといふまさに日本式の訳の分からぬ精神構造と良く似た部分である。




其れに戦後体制は戦前の体制の否定なのだから、かっての日本の保守思想の解体はそれこそ徹底して行われねばならず、だからこそ戦後の日本の保守主義は徹底して民主化路線を奉じて来たのである。



そうした意味では確かに自民党民主化路線を奉じて来ては居る。


逆に云うと米国の言いなりになって動いて来た訳である。



然し其の言いなりの様の中から近年に至り犯罪者が出て仕舞った。


其れが何を隠そう小泉元首相である。




コイツはコイツだけはもうとんでもない犯罪者である。


もうまるで死刑になっても全然おかしくはない程に極悪非道の輩である。


コイツに対して神仏の罰が当たることだけを我は日頃から秘かに願って居る。




第一コイツのヘアースタイルはもうどう見てもおかしい。
コイツは頭がおかしいのでヘアースタイルの方もどう見てもおかしい。



其れで、かってコイツは自民党をぶっ壊すとか言い出して結局は日本といふ国自体をぶっ壊して仕舞った。


其れでもってかのブッシュとは妙に仲が良く、ある時などは一緒にプレスリーごっこなどに打ち興じついでのことに米国式の合理主義的近代主義を日本国に根付かせて仕舞う。


プレスリーバカのコイツは、そも日本の風習や文化といった伝統的な側面に理解が無く、ただただ米国の飼い犬になりたいが為に懸命になり新自由主義政策を断行した。




然し其の結果、日本国は壊れて仕舞ったのである。



様々な規制緩和、規制の撤廃に基づく自由な競争原理により滅茶苦茶な合理主義的競争社会が到来し日本国が元々持って居りし良さなどもうみなブチ壊されて仕舞った。


尚コイツは慶応大學を出て居るやうだが其の点からもどうもわたくしは慶応大學が少々気に入らない。


むしろ馬鹿田大學の方が好きである。否早稲田大學であった。


そう云えばわたくしも昔早稲田を受験したかったのだけれど無理と云われて止めたことを思い出した。


その代わりに青山学院大学を受けたが見事に落ちた。




   
其の新自由主義的合理主義の齎す弱肉強食の世界はやがて労働者としての当然の権利すらをも奪うやうになり所謂派遣社員ばかりの日本社会を生み出していく。


のみならず商店街は壊滅させられた。


所謂シャッター街と成り果てていくのであった。

謂わば死の商店街の群れを生んだのだ。




此の莫迦男の為にどれだけ此の日本の社会が被害を被ったのか実際はかり知れないのだ。


此のプレスリーバカ野郎一人の為に純真無垢なかの日本国が犯された!


のである。



そして其の小泉戦犯のブレーンを務めて居た竹中 平蔵、コイツの頭の中身はもっともっと酷い。


即ちコイツこそはきち×ひである。


コイツこそが日本国を存亡の危機に陥れた真の戦犯でありもうまるで脳味噌の腐った人非人である。


尤も一見頭が良さそうには見えるが間違いなく此の男こそが一級の犯罪者である。





はあ、何だか疲れた。


然しこいつらはそも日本国の良さがどんなところにあるのか、といふことをまるで分かって居ない。


何故だ、何故だ、何故だ、何故分からなかったのだ。




いずれにせよ、此の構造改革路線自体が如何に矛盾に充ちたものであるかといふことを以下に示そう。




此処に示されるが如くに構造改革とは元々左翼進歩主義の掲げる概念だったのである。


構造改革


元来は共産主義思想からの流れでのものだ。




ところが今世紀に入りあろうことか自民党政権が其れを主導して行ったのである。


其処からしても21世紀といふ時代が如何に分かりにくい、つまりは節操の無い、または区別の無い、謂わばけじめの無い時代であるかといふことが一目瞭然である。


さらに今やかの中華人民共和国でさえもが市場経済体制への移行を確立し経済大国への道を歩みつつある。


いやはや、何とけじめの無い時代であることか。




このやうに現代に於いてはイデオロギー自体、政治的立場自体が右左に於いて逆流して居り如何にも節操の無い、謂わば何が何やら分からない、つまるところはもはや何でありの奇妙な社会秩序が形作られて居るのである。


そしてわたくしはさういふのを見て居ること自体が何だか辛い、どうにも居心地が悪くて気持ちが定まらない。


此の宙ブラリンで男とも女ともつかぬやうな世界、そんな社会自体が気に食わないのである。




さて保守がまず近代の進歩主義を嫌う立場であるべきなのであれば、あくまでさうした分類に従い思想的立場を表すのであれば、わたくしの奉ずる立場は今明らかに保守思想なのである。



マルクス主義をはじめとする革新の思想が皆其の進歩主義に基づくものであることはほぼ間違いがなく、そうであるならむしろわたくしの思想は反進歩主義であることは明らかであり其の意味での保守だと規定し得る。


然し実際にはわたくしの思想は保守でもなく革新でもない、さらに国民国家などは無い方が良いと考える超国家主義での共同体主義者なのである。




ただ近年左翼思想への幻滅の度が高まって来て居ることもまた確かなことだ。


尤も其れと共に右の思想への疑問も屡湧いて出て来て居るので必ずしも右派の人でもない。


じゃ、わたくしは何を基準にして世界のことを或は自分が属する地域の風土や文化のことを思うのだろうか。





ですのでもはやわたくしは大きなこと、そんなイデオロギーのことなんぞ何も考えてなど居ないのである。


そうではなく小さいところにこそバランスー均衡ーは存するとさふ捉えて来て居る。



限界を認めず拡張を続ける近代の原理に対するアンチテーゼとしての小欲主義、限定的思考こそがわたくしの奉ずる思想の核の部分である。


権利も自由も大きく主張しない、むしろ其の範囲を狭めていくといふ規制主義、或は排外主義、抑制としての限定的思考がわたくしの考えの全てであり最終的な目標である。



つまりは仏教的な世界観のことだろうか。


或は東洋的な虚無の精神に刺し貫かれて居るのだろうか。


兎に角そんな限定的な何かこそが逆にほんたうの幸せに導いて呉れる考えであるやうに思われてならない。



然し現実的にはあくまで其れも理想論としての範疇を出ない。


何故なら限定といふこと程難しいこともないのだ。


尤も中世までは人間は限定されて居た。



限定されざるを得ない存在こそが人間だった。


ところが近代は此の限定を解除した。


其の解除乃至は解放こそが近代の目的であり正体である。



解放された人間は必然的に大きくなる、巨大化する。


然し其の故に、まさに其の故に神を、神仏を殺さざるを得なくなる。



神仏を殺せば、たちまちに虚無に捉えられ人間は精神を病んでいく。


そうならざるを得ない。



実際現代社会は此の病に深く捉えられもはやお先真っ暗である。


ですのでそれではイカンので何とか其のバカを治しませうとそう言うて居るだけなのである。


バカを治すのは其れはメディアや学校が治して呉れる訳ではなく自分で治していくしかない。



で、まず本を幅広く読むこと。


即ち人文科学系の古典的な知恵でもってバカを治すべきだとわたくしは考えて居る。



尤も現在の知は人文科学を重視しては居ないことだろう分析知の積み重ねへと移って来て居るやうだ。


でも人文科学の集積こそが人類にとっての良識であり知恵の部分なのである。


だから書物を捨てよ、或は観念に頼るな、ではなく逆に書物に戻れ、または観念へと遡れとわたくしは言いたい。



瞬間としての現在、ではなく過去と未来を見据えた上での現在である。


現在を成り立たせるのは常識、ではなく疑問であり怒りである。


安全安心な如何なる思想、文明もなくそれらと闘ってこそ安全安心な世界へと近づけるのである。