目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

バカを止めることでしか、もうそれでしか人類を救うことは出来ない


現代の社会にとっての大きな問題とは知性の麻痺乃至は知性の放棄=思考停止が屡好んで行われて居ることである。


其の傾向が積み重なることで、人間の知性は徐々に薄れていき逆に本能領域こそが増長していく。


そしてコレこそが理性の原始的退行現象である。



人間は理性的判断をして居るやうで居て実は全くの本能的判断に陥っていくのである。


社会的に或は個の領域に於いて其のやうな原始的でかつ本能的な判断が下されるのだ。




然し当の本人達は自分達が誤った選択をしていようなどとは全く思って居ない。


それどころか自分達の判断は常に正しく合理的であるとさえ考えて居る。





事実保守であれ革新であれ、一体全体何やって居るのだか分からない位に非理性的な範囲で物事を進めようとして居る。


要するにもう何やって居るのだか分からない。


其れも官僚であれ政治家であれ皆良い大学を出て頭は良いであろう筈なのに結局何やって居るのだか分からない。




其処には何らかの矛盾的なカラクリがあるのだろう。


ひとつには保守と革新としての思想的立場が屡交互に逆流して居り一体全体何が保守で何が革新なのかといふことが分からなくなって居る点にこそある。




お次に、大衆社会が成熟し過ぎて腐りはじめて来て居る部分がある。


即ち民主制の堕落と其れに伴う制度的疲労が進行していく。




では其の大衆社会につき考えてみよう。



呉智英 × 適菜収 【第5回】
「保守も革新も、右翼も左翼も問題は知性の欠如」



適菜 もちろんそうです。オルテガが規定した大衆とは、貧乏人でもなければ庶民のことでもありません。身分の低い人のことでもない。まったく逆で、近代により身分社会が崩壊して、コミュニティーを失ってしまった人たちのことです。都市部に出てきてバラバラになってしまった個人が「大衆」。彼らは根無し草のように浮遊していて、近代イデオロギーに簡単に流されてしまう。
 大衆は本来仏教語の「だいしゅ」です。救われないもの、悟りに至ることができないものが大衆。それをどうするのかということで大乗仏教が出てくるわけ。近代における大衆は、適菜君が言ったような野放図で我儘で、無責任な人間。
近代以前の場合、俺は「民衆」と区別しているけれども、当時の民衆は節操みたいなものがあった。それを全面的に信頼していいかどうかは疑問だけど、やはり庶民が培っていた行動規範みたいなものはたしかにあったと思う。
ネットは、昔の村落共同体が生きていたときの井戸端会議とは違うんだ。昭和30年頃、当時はラジオだったんだけど、ラジオのアナウンサーというかレポーターが録音機をもって井戸端会議に行くと、みんな照れて話さないんだよ。それで録音機がなくなると、またみんなワイワイガヤガヤやる。自分の言説の意味がわかっているんだ。
ところが、2ちゃんねるやブログは1億2千万人の人に発信しているつもりがなくても、そうなっている。
適菜 当時は井戸端会議が私的な空間であるという程度の常識はあった。今は全部垂れ流しです。公的な空間で井戸端会議が行われている。
 うん。今は大衆の意味合いが変わってきて、人類の代表であるかのように発言している。
適菜 それでバカが開き直るようになった。無知を誇り、病気を自慢する。橋下徹を政界に送り込んだ某漫才師は、テレビ番組を使ってバカ・ブームを生み出しました。-以上より抜粋して引用-




其のバカの開き直りこそが人類全体の精神性の崩落を招くであろうことも確かだ。


要するに何故かマスメディアの発達は人類の知的好奇心のレヴェルを下げむしろ人類総おバカ状態へと陥れる。


其れもこれも近代主義の確立により個が平等に偉くなって仕舞ったからだ。


其処でより数の多い、つまるところ最大多数派としての大衆の意見こそが平均点になって仕舞ったのである。



同様に民主制もそのやうに衆愚化することが避けられない。




集団となった場合に人間は何故かとんでもないことばかりを引き起こすもののようです。


ちなみにわたくしは人間の此の部分こそが嫌いです。


だから孤独者として、孤独な一詩人として生きて居る分には植物に生まれ変わりたい程に人間を嫌いになる必要はないのかもしれない。


言うまでも無くわたくしは確固とした自分の意見を持ち其れを中心に生きて居る訳ですので世間の風潮に流されて仕舞うような人間ではない。




そういうのを所謂C層の人間と云うのである。日本を救うC層の研究


ところがB層の人間は、感情や風潮といった非理性的な面から自らの意思を決定する。B層


即ち情や無知であることに流され易いのがB層の人間の特徴である。


しかも此のB層の人間こそがおそらく数も多い。


其処でより数の多い、つまるところ最大多数派としてのB層の意見こそが様々な局面で意思決定されていく。



こういうのを愚民政策と云わずして何と呼べば良いのだろうか。



さて本能的に生きて居る人間は理性のタガが外れた場合に切れ方が凄いのである。


たとへば「このハゲーーーっ」、「バカかお前は?」などと暴言を浴びせ、人の頭や顔を殴ってけがをさせたりすることがあり得る。


其れは幾ら高学歴でもあくまで理性的に生きては居ない証左なのだ。



別に東大じゃなくても、無名私大出だとしてもとても理性的で文化人の人は居るからそうした意味では本来学歴など余り関係ない。


其のA,B,Cといふ区別は偏差値による種別ではなくして、むしろ心のレヴェルに於ける区別であり偏差値である。




されどわたくしが一番驚いたのは此の莫迦議員が女だったといふことだ。



さて、果たして戦前に、殿方に向かってこのやうな暴言を浴びせ、のみならず暴力行為に及ぶといふことなどがあり得ただろうか?


従って此の高学歴女の知性が如何にニセモノであり嘘の理性であったかがよーく分かる。


此の女は是非女中奉公へ行くべきところを、誤って東大へ進んだのが運の尽きであった。



だから莫迦女共は今すぐに皆女中奉公へでも行ってきやがれ!




其れで、女はたとへ高学歴でも先のB層に取り込まれ易い。


だって女は脳で考えてないですから。


一部の天才的な女性を除いては。



つまりは女は子宮で考える。


けだしコレぞ名言である。




そして其の女の莫迦と大衆のバカが組み合わさり今の訳の分からぬ、まさに何でもありの不潔な、おお、不潔な、理知のカケラもないやうな、合理主義を謳う割にはひどく感情的で表面的な何かである社会を形作る。



ここからしても明らかに人間の精神は退化して来て居る。



おそらく其れは適切な合理化を行わなかった為に其処へ追い込まれて来て居るのだ。



無知蒙昧な大衆の一言を保証し尊重し過ぎるからこそこのやうに世俗化が過ぎ人類の知は退行していくのである。




近代はあらゆるものを壊すが、実はこうして知の平均点、偏差値をドンドン下げつつあるのだ。


何故かと云えば専門家で仕切る専門領域が消え去り、逆に大衆は一億総専門家となり何でも知ったかぶりのことを言う。



だが其の知はあくまで下品でかつ非理性的なものだ。


だから大衆の知といふものは元々底が浅いにも関わらず知ったかぶりの知識をひけらかし或は利口な振りをして其れで済まして居ること自体がバカなのである。



しかしながらすると、我の場合も多分に其の要素が入って居るのではないか?


いや、其れは違う。


我はちゃんとお勉強をして来て居る。


ただ批判精神が強くあり過ぎるだけなのだ。



まあ何せ詩人ですのでそうしたことにもなりますわな。



兎に角もうバカを止めよう。


バカを止めることでしか、もうそれでしか人類を救うことは出来ないのである。



バカを止める為には幅広く学ぼう。


兎に角ガリ勉をせよ。


そして本を読もう。



TVばかり視て居ると或はAVばかりを視て居ると脳が腐ります。


TVはなるべくEテレを視ませう。


そして宗教に就いて是非考えてみるべきである。



レジャーといふもの、また他の享楽的な世の諸はあくまで副次的なものであり本質に切り込む力を授けて呉れるものではないことをしかと悟りませう。



そしてとどのつまりは此のふしだらなのをもう止めよ。


心の偏差値が低いと人間はどうしても其のふしだらになりがちです。



そうではなく是非独逸人並に潔癖になるべきです。


つまるところは理性化致しませう。



ですのでもう金輪際ハゲとかバカとか叫んだりしてはいけません。


尚わたくしがバカ、莫迦といつも云って居るのは文學上或は學問の上でのことですので別に其れでストレス解消をして居る訳ではない。



つまりあくまで理性から発せられるバカでありアホですのでおそらく聴いて居ても不快にはならない筈です。


しっかし、戦前の女ならばまずかうした言葉を吐くことは無かったのでしょうな。


其処からしても本当に世の中は変わりましたな。



其れも腐る方向に変わって来て居ります。


女の頭が腐ると、兎に角もうロクなことは無いので、其処で是非女中奉公の重要性を再認識しなくてはならない。


従って今わたくしは女中奉公の何たるかにつき是非学んでみたいとそう思って居るので御座ります。