目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

理性的なものはむしろ下位に在る



Wikipedia-理性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%80%A7

理性と情動[編 集]

理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、感覚(senses)、感情・情動(feelings、emotions)、情念(passions) 等と対比的に用いられてきた。理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。
近年、行動経済学実験心理学は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した(認知バイアス)。心理学の機能主義学派は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に進化心理学認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や意思決定に関わっていることを示唆する。これは二重過程理論あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている[1]。 スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。
  • 理性的システム-ゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することができ、主に大脳新皮質に司られている。進化的な起源は比較的新しい。
  • 情動システム-即座に働き、短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり、主に大脳辺縁系に司られている。進化的な起源は古い。
二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。

理性の限界[編 集]

理性には限界があるのではないかという議論がある。 その例として、哲学者のカント二律背反を指摘している。アロー不可能性定理囚人のジレンマ(選択の限界)、ハイゼンベルク不確定性原理(科学の限界)、ゲーデルの不完全性定理(知識の限界)などもその例として挙げられる。


Wikipedia-理性より抜粋して引用

       



ここにもありますように理性的システムはゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することが出来るものと一般的には考えられて来て居ります。
そして情動システムとは即座に働き、所謂生存・繁殖などの短期的な利益に関わるものであるとのことである。


ならば現代文明を形作ることだろう其の推進システムが高度に理性化されていなければならない筈なのでしょうが果たして本当にそうなって居ると言えるのでしょうか。


わたくしは此の点につきむしろ其の逆の考えを抱き続けて来て居ます。

現代に於ける推進力はまさに即座に働くことだろう生存乃至は繁殖などの短期的な利益ーエゴ的な欲望の追求ーを得る為にだけ費やされるのではないのかと。


ゆえに現代人の欲望のあり方は常に下品でかつ非理性的なものとなる。

理性があるようで居て実は寸毫も其れが無い。


むしろ現代人は理性の外側を生きて居て、其の様やまさに偽の理性、嘘の理性的世界を押し付けられて居るだけのことである。


などとも屡思ったり致します。




何故なら理性というものは、元々全体論的な発想を可能とするものだった筈です。


たとえば利便性を追求すれば機械の発達が促されましょうが、其処ではあくまで機械は人間の従僕でなければならない筈です。

企業が利益を追求すれば様々に人間性を圧迫する圧力が生じる為其の追求はほどほどにしておく必要がどうしてもある。


女性の社会進出と云ったってそんなものは昂ずれば家庭という単位を破壊することが明らかなのですから是非こちらも抑えておく必要がありましょ う。

常に美味い物がたらふく食いたいなどと言っても、そんなことばかりして居れば逆に体には悪く早死にすることは明らかなのでこちらも是非抑えておく必要がありましょう。


私は理性とはまずそうした抑制のことだろうと考えて居ます。


分解されて居ない理知性即ち知識と知恵の融合に於いては、そうした抑制が何より効いて居たものと考えられるのです。
然し近代の思想に於いて、いつの間にか其の知恵の部分が欠落していって仕舞いました。


知識と知恵は本来対立する要素ではなかった筈なのに、巨大ー普遍化されたーになり過ぎた近代の思考は両者をして単なる二元論へと還元せしめて仕舞った。


すると知識中心で突き進むー暴走するー科学技術や資本主義経済はやがて異質者としてのみ知恵の部分を認識していくようになる。


さすれば科学者は地球が壊れようがどうしようが次々と新たな毒素ー地球にとってのーを生み出し其れ等を地球上にぶちまけるのである。

会社はなるべく安く仕事を請け負い、其れでもって労働者を低賃金でこき使うからそれこそとんでもない事故が頻発するようにもなる。


一方宗教は金まみれ、権威まみれでもって其の本質を欠くのでやがて信者は離れ揚句に邪宗邪教の類が乱立することともなる。



かように知恵の部分こそが現代社会に於いて機能不全に陥る。

知恵の無い人間は、徐々にロボット化されていき、まさに知識だけはあるが本能剥き出しの、そうした世にも奇怪なアンバランス人間へと改造されてゆき、知らず知らずのうちに人間としての精神のバランスさえをも崩してゆく。


あれ、そう言えば最近何だか変な事件が多いような気が致しますがこれは単なる気のせいなのだろうか。


其れに最近何だか変な天気が多いような気が致しますが、これも単なる気のせいなのだろうか。



人間が理性的な生物であるということは、其処でむしろ自らが下等な者であるとの認識を持つ必要が是非ある。


なんとなれば理性を持つということは、より分解を受けて居るということにほかならない。


謂わばより分かたれてより不完全化されて居るのである。


其処を何を勘違いしたものか、より与えられより完全化していく進化ー進歩ーの過程の履行者だと思い込んで仕舞ったのである。


だから其れがそもそも間違いである。



分化されしものよりも、合一されしものの方が遥かに上でありかつ完全なのである。


近代に於いてそうして人間は自分で自分を分解していき、其の結果より大きな消費エネルギーや安楽な生活ー其れも真の意味では便利でもなく快適でもないーを得たのだったが其の代償として大の方でのバランスを崩したのである。
其れも自ら進んで其れを行ったのである。




でも兎に角自分は下等です。


あののろまなカメさんやにょろにょろの蛇さん、其れからいつも静かな植物の方々よりもこの私の方がずっと下です。

其れに何より我は下品です。
実は酒を飲むことと女に手を出すこと位しか考えておりません。
其れから博打経済で勝って大金持ちになり金満教の教祖になること位しか考えて居りません。


労働者などは我々のような世界一の企業にとってはあくまで使い捨てのものです。

勿論死のうがどうしようが知ったことではない。
中小企業がどう潰れようが我々の知ったことではない。


下等な人間がのさばると必ずやそうしたこととなる。

むしろ理性の歯止めが効かない時代を今我々は生きて行かざるを得ない。

理性的な働きー観念性ーは時間を超越して働く傾向を見せ、逆に情動ー本能力ーは即物的であり現在化されていく傾向を見せる。


限りなく現在化されつつある現代社会は、この理性のバランスを崩し漂流する社会そのものです。


よって現代人は其処により大きな思考を成り立たせることが出来なくなる。

即物的にモノの価値や金銭的価値に常に寄りかかり異質な思考の流れ、逆向きの大きな考えを排除し生きる上での思考の範囲を狭めていく。




さて何が良いか、何がそのものにとり最適であるかということを判断する場合には、スケールというものが大事になる筈とわたくしは考えて居ります。


たとえば個にとって情動システムが発達して居ることは、自分の命や家族、妻子を守ることの為にはとても大事な要件です。即守る必要のあるものには情動の発動こそが大事なのです。


然し其れは文明の単位、国の単位であからさまに出されてはならないことである。


是があからさまに出されるとナショナリズムを乱立させより大きな対立を其処に生み出すこととなる。


また理性的システムはむしろ大きな単位でこそ機能していなければならないものである。

国家間の関係とか、現代文明の指針や指標といったことに関しては常に理性の枠組みの内での論議、対策が必要である。

然し現代社会にとって真の意味での理性的論議が成立しないのは、理知性の中から知恵の部分が欠けるような道をあえて選んで来たからにほかならない。

が知識による意思決定は必然的に利害対立を生じ意見を纏まらなくさせて居る。


本能による行動の決定は確かに女子供には喜ばれようが現代社会の処方箋にはなり得ずむしろ現代社会をして世界大戦へと引きずり込むことだろう原動力ともなろう筈。




現代社会の抱える問題の一番手に、この時間の喪失とスケールの喪失の問題が挙げられる。


さらに言えば、ボーダーレス化した社会に於ける専門性の喪失という問題がまた挙げられる。


現代社会を形作る思考の方向性は、特殊から普遍、多様から均等、均一の方向へと流れて居る。


ゆえにかっては専門家であった知識人の思考が社会に反映されにくいものになって居る。

其れが知識の大衆化であり大衆的思考の専門化の過程のことである。

このように分限を守る、限度を認識する、抑制を効かせるということが今現代社会にとって最も難しいこととなって居るのではないかと考えられる。
自ら非理性化し、限りなく現在化し、分限を弁えず、まさに下品な欲望のままにこれからも突き進むであろう現代社会。


現代社会の抱える諸問題の根本の部分に横たわるのはまず其の様な分解ー合理主義ーでありボーダーレス-規制緩和-の名の元に行われる枠の破壊、専門性の破壊でありより大きな部分での知恵の喪失である。




知恵を復活させるに必要な宗教の復権は然しながらなかなか難しい。

歴史過程は全てが必然の過程として絡み合いつつ動いていくので、宗教のみが突出した形でもって回復することは難しいのである。


然し理性の働きこそが人間の行いの全てを規定するものでもまたある。

自然には理性がなく、ゆえに彼らは人間ではなくまして神でもないのである。
自然は神仏を必要として居ない分より清潔な存在でありより分かたれて居ないことだろう意味での全的な存在である。

自然もあくまで限定されし存在ではあっても、少なくとも人間ー理性的範囲ーよりは全うな形で生きて居られるだろう無垢な存在なのである。

でもだから自然を見習いましょう、などということは人間にとって必要なことではない。


人間はあくまで理性的範囲を磨くのが其の生に与えられし使命であり責務なのである。


元より自然は敬うべき存在なのではあるが、かと云ってわたくし達は自然そのものには非ずで、それこそ全い自然の本能システムとは別物の低次元性を展開する何かなのである。


まずはこの、何故人間がこうも愚かでおかしなことばかりし続けて居るのかという点につきありのままに見そして考える必要がある。

即ち人間はより高等な動物でも何でもないのである。

逆に動植物即ち自然界よりも下に置かれし存在なのである。


下位者である、下位者。

であるからこそ、より分解されし生の過程を生きて行かざるを得ない。


謂わば自然の受けし分解は一重で、人間の受けし分解は二重。

二重に分解されて居るからこそ、精神即ち理知性の部分を其処にあえて持たざるを得ない。


自然はわざわざ精神に分解される必要など無い。

何故なら其れ自身がより精神的なのであろうから。


自然とは本能領域のことなれど、結果的に其の根本の部分が非本能的である。

人間は理性的なようで居て結果的に其の根本の部分が本能的である。


理性とは分解であり実は高級なものでも何でもない。

ゆえに神仏には理性など必要ではない。
何故なら彼等自身が理性そのものなのだから。

人間は二重に分解されし分、顕在化されし理性という瑕疵性、負債性を負わなくてはならぬ存在なのである。
また其れは自然が負わされし負債、即ち顕在化されし本能領域での格闘よりもより深い意味ででの格闘である。