即ち理性とは名ばかりの歯止めなき大欲望世界を日々繰り広げて居るのが我々現代人の真の様なのである。
近代思想が行ったのは其の狂乱の様の推進でありかつまた擁護であり弁護であった。
かのルネサンス期に於いて鏡が発明されたそうであるが、たとえばこの鏡なるものこそが近代の思考を象徴するだろう何ものかである。
即ち鏡とは、何よりまず客観視を可能とするものである。
つまるところ、自己の意識を周りと分離させ客体化して自己以外のものを認識する機能のことなのである。
しかしながら、この機能こそは分解にほかならぬものだ。
其れこそが自己分解過程の最たるものである。
自己を鏡化したことで人間は合理性という自然に対する武器を手にした。
合理性は自然科学を生み出し、客観化され分業された人間と自然の関係を構築するに至る。
かっては神聖な領域であった筈の人と自然が対立しながらも共存する様、または相互に関係を保ちつつ混在する其の関係性自体を断ち切っていったのである。
さらには近代的自我という自意識の化け物をも其の鏡は生み出した。
近代的自我は必然的に人間の主体性を確立することとなり、さらには民主制や物質文明ー資本主義社会ーの成立を促しもした。
ゆえに現代の価値観、思想のほとんど全ての部分を、此の鏡一枚が齎したこととなるのだ。
されど何より抑制を欠き、限度や限界を知らず、どこまで行っても突き進むだろう此の分析知の集積の世界が我々により良いそしてより明るい未来を用意して呉れて居よう筈もないのだ。
そればかりか、逆に其の近代的原理、近代思想こそが現代人を奈落の底に突き落として来て居るのである。
近代的原理であり近代思想であるもの自体が、我々に不自由を課し我々の夢や希望を根こそぎ奪って居るのである。
また近代思想は思考の断裂を促す。
其れは古代より連綿として続く知の集積からの離脱であり断裂である。
現在化されるということはそうしたことなのである。
過去及び未来から永遠に切り離され現在に漂流する思考のみが其処に成立し是とされ得るのである。
従って近代を生きるとは其の様なまさに一種の幻想的な世界を生きるということとなろう。
其れは分解でありそして断裂であり最終的には其の断裂から齎される破壊のことである。
尚、世界をより克明にそしてより完全に把握したいともしそう思うのであればそんな鏡などはむしろ遠ざけた方が身の為である。
何故ならより完全に把握するということは世界と一体となることであろう筈だ。
世界を鏡に映すことではなく自分自身が鏡の中の住人となることなのである。
其れが直観による世界の全的な把握である。
直観による世界の全的な把握過程では、自他の区別を生ぜずして認識する対象の直接的な把握が可能となる。
認識する対象と一体、つまりはごちゃ混ぜになってこそ初めて其れを内側から知ることが出来よう。
そうではない二元的関係に於いて対象の直接的な把握は不可能である。
謂わばより直接的な把握、より完全な認識を求める程にむしろ対象の中へ飛び込んでいかなくてはならぬ。
なので近代に於ける世界の認識とはまさにお門違いの、そして舌足らずの不完全なものであるに過ぎないのである。
近代思想はあらゆる思考をバラバラで関連性の無いものに変えて行って仕舞ったのである。
其の場でだけ、そして其の瞬間にだけ通用ー成立ーする刹那の思考のみが近代以降の人類の思考の典型であろう。
さて分解とは、元より融合ではない。
ましてや全体でもなく、統合なのでもない。
されど分解は欲望の成就には極めて有利に働こう。
近代的なあらゆる生活上の便利さ、快適さは其の分解でこそ成ったのである。
人為としての分解でこそ其れは成し遂げられたのだ。
謂わば我々は近代以降、鏡という分解の手段を得て豊かさを得たのであった。
豊かだと思う生活の全てをすでに手中にしたのだ。
然し此の生活の成就が本当に其の分解という行為に値するものだったのかどうか?
わたくしには其処に大きな何かが欠け落ちて居るような気がしてならない。
真の意味で世界を把握すること、真の意味で世界と繋がることは、其処でむしろ分解することを避け世界のありのままの非情さに溶け込むことなのではなかろうか。
此の生老病死の蔓延する無常の世界に真っ直ぐに向き合うことなのではなかろうか。
だから鏡なんて要らない、そんなものの映し出す一見これ以上なく克明な世界なんて全部幻想である。
第一幻想ではない世界では鏡自体が要らないのである。
鏡が映し出す世界はおしなべて自分と世界が分かたれて居るものだ。
分かたれた世界や自分をよりくっきりと其処に見て取るのだとしても、そんなものは皆嘘であり幻の世界であるに過ぎぬのだ。
だから本当の本当は鏡なんて要らない。
何故なら其の鏡に映るものは、本当に映し出されて居るものは己自身の醜さばかりなのだ。
人間存在の醜さが其処に映じて居るばかりなのである。
世界を見る時にあえて其れを拡大して見る必要などない。
世界を見る時にあえて其れを分解して見る必要などない。
何故なら世界は自分そのものであり、自分が世界そのものなのだから。
欲望にかまけて其の摂理を曲げてはならないのだ。
何より其れは事実なのだから、そうありのままに見かつ受け取ることが大事なのだ。