目覚めよ!

文明批判と心の探求と

過分に自由や平等であることを求めてはならない


わたくしが述べて居るのは近代主義という自己矛盾過程に於ける破壊の危険性のことについてである。

言うまでも無く近代市民社会の自由・平等・独立の確立についてはまずは其れを擁護しなくてはならないことだろう。



自由や平等や独立ほど尊いものはない。

然し現代社会に於いては其れが過剰供給されている場合がなきにしもあらずだ。

自由や平等や独立は、本来ならば限定されたものでなければならないのではないか。



特に無制限と云うか無軌道な自由や平等は認められるべきではないのではないか。

なのでわたくしは順を追って其のけじめの無さを糾弾して来て居るつもりなのである。

それで、まずは所謂自由な性のあり方が本質的には人間の為にはならない点を指し示して来たつもりだ。



第一自由と云っても、多くの場合自由は不自由であることがむしろ多く、逆に不自由こそが自由である場合も少なくない。

縛られて何かをやり続けて居ることが幸せだということもまたあるのだ。

特に我我独身の人間は自由だが其れが逆に不自由なのだも言える。




また、現在社会は感情論で動くものとなって仕舞って居る。

或いは本能第一主義とでも言うか、兎に角利己主義の塊で若者から年寄りに至るまで総感情論状態にある。

即ち理性の冥落がすでに始まって居るのやもしれない。



理性が自己矛盾化する即ち原始退行化し非理性的領域になだれ込んでいくのである。

快楽を求めるSEXが若者の間で蔓延して居るのも其の理性の破壊であり、一方で年寄りは八十歳になっても免許証の自主返納を行わないのが其の理性の破壊である。

   


或いは若者の間でスマフォ病が流行り、一方で年寄りは不安定な社会での自己保身と家系の存続のことばかりを考えて居る。

ゆえに其処で全体論的に理性が成り立とう筈がない。



他方社会レヴェルでは、トランプ大統領の誕生は確かに理性的選択ではない。




其れは感情論つまり怒りや怨念によるルサンチマンの発露である。

しかれども其れはまだしもより良い選択と結果的にはなろう。



何故なら今、近代という社会構造そのものが問われて居るからなのだ。

三百年に亘り築き上げて来た此の我我の社会の仕組み自体が問われて居る。


資本主義に於ける矛盾の加速化、或は地球温暖化によ自然の圧迫の加速化、人類の精神の破壊といった文明の自己矛盾化につきほとんど最後通告を突き受けられて居る。



なのであるが、誰もそのことを重大な問題として取り上げようとはしない。

否、出来ないのだ、すでに理性が本能にすり替わりつつあるからなのだ。


近代主義が掲げる自由や平等の概念は、行き過ぎるとかように諸の破壊へと繋がるのである。

社会が悪くてお父さんが立てない、家族を守れないというのに若者がそんな馬鹿で爺ちゃんが子供かつ分らず屋で、しかも母ちゃんだけがのさばって居て其れでどうなるというのか。


即ちリベラル思想がすでに役立たず化しており、其れで死刑廃止と女性や障害者の人権の過度な擁護とか或は年金をたんまり貰って居るしかも元気な老人は弱者だとか云うのであるがそんなものは無論のこと誤りでそういうのを認めるから逆に確りしていなければならない社会の支柱の部分=お父さんの力が地に落ちそれでもって家庭も社会も崩れていくのである。


なので良識ある=理性がまだ残って居る年寄りは年金を返上しかつ運転免許証を返納するべきである。

またお母さんは自らのさばるのを止めあえて鬼となり厳しく子供を教育し、いざ子供が悪いことをしたら、お前、そんなことするとすぐに死刑になるよ、死刑は日本から無くならないよ、とでも是非言ってやれ。

かつ障害者は障害者らしく大人しく生きよう。



尚自由には望ましくない自由と望ましい自由の両面がある。

たとへば望ましくない自由とは性の上での自由である。

対して国家の主体性や独立性の自由は認められてしかるべきだ。

また自由過ぎる通商や自由過ぎる進歩は勿論破壊に直結する悪趣である。



平等にも望ましくない平等と望ましい平等の両面がある。

望ましくない平等とはたとへば男女平等といった概念である。

対して機会の平等、人間としての平等、といったことは無論守られてしかるべきことだ。



情動と理論との間には常に隔たりがあり、其れがつまりは感情ー本能ーと理性の間には常に隔たりがあるということである。

其の落差を解決する為には理性的な自己抑制が求められていようが、其れ自体が破壊されて来て居り従って我々は自己の欲望を制御することが出来ない。

勿論国家に於いても其の事は出来ない。


何故なら自己矛盾化せし理性がそれぞれに勝手なことを為していくのであろうから。

規制であり、自省するものが本来求められて居る筈であるのに其処に過分に自由や平等であることを求めてはならない。