目覚めよ!

文明批判と心の探求と

幻想とは?


次は自分? 「黒字なのに2割クビ」納得できるか
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140926-00013511-president-bus_all


今は本当に厳しい世相でたとえ大企業に勤めるサラリーマンでも今後はウカウカして居られないという部分が確かにあります。

まさに金、カネ、かねの世の中なのでごく一部の金満家はさておき我々のような安月給取りは全くいつどうなるものか分かったものじゃない。


将来の見通しが立たず何かと不安だ、全く世の中馬鹿野郎だ、こんちくしょうだ、クソッタレだ。

もし気が狂えばもう少し楽なのかもしれないが、あいにくそう簡単には気は狂わない。


この際矢張り宗教にでも救いを求めるべきなのであろうか?

いや、宗教は過激に過ぎると爆撃される対象となることなどもあるので組織的にやれば結局至極危険なものでしかない。




宗教的概念は個々の観念の内側で静かに深めていくものこそが最も安全で安心なものです。


ところで21世紀に入って、現代社会の混迷度は彌増しになって来て居る様に感ぜられます。

ハテ、こんな筈ではなかったのに、一体どうなって居るのだ?


つまりより便利で快適なより良い社会を築いていくとするならば、皆がもっと安心立命出来る安定した社会が出来上がる筈であるのに結果として全然逆の現象が起こって居るのではないのか?


まあどこかに破綻が出て来て居るのでありましょう。

どこかに思想構造的な欠陥が生じて来て居るのでありましょう。

つまりは近代という時代を貫くだろう思想の破綻であり欠陥のことです。


私は其の件につき述べていくばかりです。

本当は詩人なのに詩を発表する訳でもなくこんな社会科または倫理道徳の時間としての駄文を積み重ねていくばかりなのです。



では私が屡語るところでの幻想概念のことにつき少し述べます。


まずひとつだけ言っておきたいのは、幻想とは現実であるということなのです。

現実が幻想としてのみ成立し得るということです。


また現実は真理ではないということです。

もし現実が真理であるならば、此の世はパラダイスとして成立し我々も楽園に住まう者たちとして祝福された存在となります。
ー私は仏教徒なのに何故かキリスト教的な話になって仕舞いますがー

よって此の世は虚妄の世界です。


其の前提を崩してはならないということです。

もし此の世に真理や楽園を求めて仕舞うと、其れは即無駄なあがきのようなものとなることだろう。



即ち良い悪いで云うと、此の世は悪い世界です。

つまりは性悪の世界ですな。

そして此の性悪の世界にいでて来て居る私たちも皆悪いものばかりです。


其のような捉え方をすると、現在進行中のあらゆる問題は其の世界観の中にピッタリと収まります。

それで、重要なのはキリスト教も仏教も本来ならば其のように考えて来て居たという事実にこそあります。


其のように大昔からすでに此の世に於ける真相をシッカリ掴んで居る訳です。

其れで、キリスト教では此の原罪に充ちた世界からの救済を神に求めて歩んでいく訳です。

対して仏教では此の虚妄に充ちた世界からの脱出を自ら進んで修行することにより成し遂げていきます。


つまり此の世が良いところだなんて昔は誰も言っていないのですよ。

少なくともまともな宗教では此の世に対する負の意思からこそ信仰心というものが導き出されていきます。


尚誰々の会長さんが偉いだの、宗祖様や教祖様が偉いだのと教える新興宗教系の団体はこの際除外して考えておきます。

そういうのは宗教団体としての価値が無いとは思いませんが謂わば幻想度の高い団体なので私が論ずる対象とはなりにくい組織ばかりですので。



さて幻想というのは、元々此の世を生き抜く為の唯一の術です。

文明自体、また人間存在自体が其の幻想の所産そのものです。

ゆえに幻想が悪いことだなんて私は一言も云って来て居りません。


我々自身が其の幻想を生きざるを得ない生き物だということなのです。

だから私が幻想という言葉を使う時、其れはむしろ肯定的な意味で使って居るのである。


謂わば幻想なくば、此の現実世界は成立し得ないのである。

すべからく幻想だからこそ現象は成立して居るのである。


対して真理は決して此の世界に顕現し得ない性質のものである。

だからこそ其れは真理なのである。


幻想が必要ない世界というものは真理そのものの世界のことで、謂わば其処には生命が宿って居る必要などはない。

生命というものは其のように一種の傷、或は瑕疵、あるいは欠陥、またはひどい言葉ではありますが悪、のようなものである。

ま、其処は必要悪だ位に考えておくのがよろしいことかとは存じますが。



其のように考えると此の世界が時間の経過と共に良くはならずむしろ悪くなっていくことが納得出来て仕舞うのであります。

此の世つまり現象の根の方がそもそもマイナスなので時間の経過と共に地の方の悪さが噴出して決して良くはなっていかないのであります。


無論のこと社会として部分的には良くなったりもして居るように感ぜられますが、大枠では決して良くはなっていかないという大前提があるということです。

此れは運命論と云うかそんなものにも近い訳なのではありますが、実際そう考えざるを得ない程に現代社会は混迷の度を深めていくばかりなのであります。


其処で、其のような哲学的ないしは宗教的に負としての前提を持つ世の中に対して、どのような価値が顕現されるべきなのかということを考えてみます。


すると、其処には善の価値、真理、普遍的な愛、永続性、などといった価値が全く成立する余地の無いものであることが即座に見て取れるのでありました。

そうしたよきもの、きよきものは此の世に純粋な形で成立することは難しいということなのです。

逆に其の正反対のものは成立し易いということなのでもある。
ー此の点はキリスト教の教義とは明らかに乖離しておりますね。下手をすると仏教の教義にも抵触しそうですが、其処はまた整合性を煮詰めていくので大丈夫かとは思います。ー


此れが所謂ニヒリズムの世界のことかと思われますが、其のニヒリズムの世界の到来は当然ながら近代に入ってからのことなのでありました。

私の存在論からすれば其れが近代に於ける自己矛盾性の拡大ということなのだと思います。


近代以降の人間存在の自己矛盾性の拡大ということは良い、悪いで言えば当然に悪いことです。

然し其の悪いことを為しているということ自体は実は悪くもなんともないことです。


謂わば決して良いことではないが悪いことを為して現実を成立させて居るというだけのことです。

そして人間存在とは元々其のように矛盾悪を生きる為に此の世に生じて来て居る者のことだということです。


つまり現実を成立させる為にはどうしても其の矛盾性という価値の顕現が必要であるといった根本のさかしま性に生命は縛られて居るのです。

ー其れも所謂高等な生命程其の自己矛盾性が強くいでて参ります。謂わばカエルよりも猫の方が罪深く、そして猫よりも人間の方がというように階層構造で自己矛盾性の度合いが規定されて居るかのようです。ー



然しながら其の行為自体には何処にも矛盾や破綻など生じて居りません。

つまりは我々自身が其の矛盾性を生きるべく此の世に生じて居る存在なのです。

其のようにして矛盾そのものを生きてやがては破滅を迎えます。


でも其れも其れ自体が悪いことでは決してありません。

人間存在はあくまで其のような道を辿る者であるということです。

ーうーむ、どう見てもキリスト教に於ける終末論そのものの結論となって仕舞いましたが、あくまでかって私の頭に突如ひらめいた存在論からは其のような結論が導き出されたという話です。ー


ちなみにあの車椅子の天才であるホーキング博士は二百年以内での人類の滅亡を予告して居るそうですが、私の場合は多分百年も持てば大成功の方だろうなと最近良く思ったりも致します。
至極暗い予測で誠に申し訳ございませんが。