目覚めよ!

文明批判と心の探求と

エゴイズムの解体に就いて


其の文明が壊れるということの具体的な形としては、
1.物理的な意味での崩壊
2.精神的な意味での崩壊

という側面に大きく分かれるものと思われます。


ちなみに私は科学者ではないので、1.については良く分からず、従って2.の方を主に考えて来て居る訳なのですが此れも所謂専門家ではないのですから只詩人としての直観、直感に基づいてどうも其のように感じられてならないですよ、ということを皆様にお伝えして居るばかりでのことです。

尚、現代人はそうした直感力のようなもののことを小馬鹿にして居るきらいがありますがそうした傾向はひとつの大きな誤りです。


科学的、または合理的に記載される現象にのみ価値があると多くの人々がそう信じていることでしょうが、実は其の思想自体がひとつの大きな誤りです。

特に直感の親玉の如き直観というのは論理的筋道を飛び越えていきなり全的対象つまり事象の全体像を掴んで仕舞う現象のことですが其処には科学的思考によって成立する科学技術に含まれるような現実との矛盾的要素がなくむしろ極めて正確に事の真相を把握出来るプロセスのことなのです。


そして実は近代科学に於ける諸の発見には此の直観力が大きく関わっていたことだろうと思われるフシさえもがあります。

然しながらおそらくは近代人の場合には此の直感ないしは直観力の力が大幅に減退して来て居るのではなかろうか。


我々は近代以降、特に戦後に於いては人工の楽園生活を余儀なくされて来て居ますから元々あらゆる自然的な感覚、自然から与えられて来ているだろう感覚が鈍って来て仕舞って居ます。

尚此の近代以降の人工楽園化のことを批判されて居る知識人の方々は結構居られるようです。

養老 孟司氏や渡辺 京二氏などがその代表格となるものかと私には思われます。



さて前回は私自身の存在論からのお話で、特に存在の基本的な成立要件ということにつき述べていった訳なのであります。

其処に曰く、存在というものは謂わば矛盾性の体現である。

其の自己矛盾過程を生きざるを得ないのが生命存在である。


此の部分はかなり難しいお話かと思いますが私にとっては実は全然難しい話でも何でもないです。

理論的には自分自身でもほとんど分かって居ないのですがそれこそパッと掴んで仕舞って居ることなのであくまで感覚的には分かって仕舞って居ることなのです。


生命存在が必然として持たざるを得ないことだろう自己矛盾的な過程のことをより具体的に示せば其れはエゴイズムという概念へと収斂されていきます。

生命存在は此のエゴの発現の領域なくしては只生きていくことですらままならないのであります。


其のように生命は常にエゴという限定の領域に繋がれし限定された存在です。

従って其処で二重に限定されて居ると考えられなくもない訳だ。


而して此のエゴというものが鍵となって来ます。

正しく思考出来るかどうかの分かれ目となって来ます。


正しく思考する為にはエゴを離れておかないと其れが出来ないような気が致します。

ちなみに直観で得られた果実は自己限定のエゴのようで居て実は其の狭い領域を遥かに超越し謂わば普遍化されていくものです。

ゆえにそうした結論をエゴ起源での狭量な考えだとすることには基本的な誤謬が含まれて居ります。



さて、此のエゴの発現というものが今私には大きなうねりのようなものとして世界中で猛威をふるって居るかのように感じられて居ます。

大きなうねりから小さなうねりまで、まるで津波のように其れが我々自身を呑み込みそれだけではなく地球自体をさえ呑み込もうとして居ります。


此の強固なエゴイズム化の傾向は見て居て本当に気持ちの悪いものです。

エゴの対立は結局何も本質的な価値を生み出さないというのに、つまりはニヒリズムの只中でそうした対立を野放しにして居るだけのことなのですが其れが構造的にはもはや如何ともし難いことなので観念的にはもはや誰もがお手上げである、といった状態にさえあります。


勿論其のエゴの対立を抑止していくことこそが宗教の役割であったのですが、其の試みも近代に至り実効力を失い実質上のエゴの発現の領域はより拡大ししかもより堅固に其の事が行われて来て居るのです。


と私のような者が声高に叫ばなくとも今はもう誰しも此れはもうちょっとヤバいのではなかろうか、これは愈危ないのかもしれないな、などと皆様感じられて来ても居る筈です。

勿論其れは人間存在の精神的な領域に於ける話ですが物理的な側面に於いても気候が狂いはじめて居ることからも此れはもうヤバいのではなかろうか、危ないのかもしれないな、などと皆様感じられて来ても居る筈です。


然しながらエゴの発現の抑止ということは、最も難しいことです。

此の世で起こって居ることの中で抑止することが最も難しいのは環境破壊という大問題以上に此のエゴイズムの大きな追求を如何にして取り除いていくかという問題なのです。

環境破壊の大問題も煎じ詰めれば結局は此の大きな方でのエゴイズムの発現の問題でもある訳です。


まさに人類規模、文明規模でのエゴの発現、というデカい問題が現代社会には突きつけられて居ます。

其処で私は前々からそうした問題を小さくしていくことこそが今後人類が存続出来るか否かの分かれ道となることだろうと訴え続けて来て居ります。


其の小さいというのは、あくまで問題の規模を小さくしていくことであって問題自体を無くすことではありません。

何故なら生命としての存在の存立要件の上で我々は元々自己矛盾的な道を歩まざるを得ないのですから其処で問題が消滅しよう筈もありません。


其の問題をこそ歩まざるを得ないのが我々人類ですので、後はもう問題を小さくして行く他選択の余地は残されて居りません。


近代文明の進歩概念や経済成長といった幻想の中での幻想を見直して新たな枠組みを早急に構築し其れに基づいて大の方での人類の活動を規定して行く他にもう道は残されて居ません。

そうしたまさに欲望を煽るかのような思想の愚を悟り人間を或は文明自体を沈静化していくことこそが肝要です。


而して其のような事は勿論私のような者ばかりが語って居る訳ではなく近代が寄って立つ思想に疑義を抱く多くの学者の方々や藝術家の方々などがこれまで散々語り継いで来て居たことなのです。


でも、残念ながらそうした声はなかなか体制側、文明を推進する側の方には届いて行かないということがあります。


それでも最終的にはもはや皆で考えざるを得ないところへとやがては追い込まれていくことでしょう。

其の折に大衆に考える力が残って居るかどうかという点に於いては甚だ期待薄ですが、たとえば知識人の方々、また宗教に携わる方々や藝術家の方々などはそんな状況のさ中、それでも決して諦めたりはせずに真剣にどうエゴを抑え込んでいくかという其の一点につき考えていって下さるであろうことを私は祈念してやみません。